軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

35 優しい闇

安堵が胸いっぱいに広がるのとは対照的に、目の前の兵士の顔色がみるみるうちに変わった。

嘲りを含んでいた口元が引きつり、余裕のあった目に、はっきりとした恐怖が浮かぶ。

「……な、なんだ、これは……」

世界そのものが闇に包み込まれたようだった。木々も空も地面も区別がつかなくなり、音さえ遠のいていく。

肩に何かが触れ、何かにそっと抱き寄せられた感覚に包まれる。

温かくて優しい。決して強引ではないのに、離さない確かさがあった。

「ぐっ……なに、を……」

同時に、兵士が苦しげな声を上げた。

剣を取り落とし、喉元を押さえて膝をつく。何かに締め上げられているように身体を強張らせ、喘ぐように息を吐いていた。そしてその声は、すぐに闇に溶けていく。

「リリーベル様。遅くなってしまい、申し訳ありません」

耳元で聞こえた声は、わずかに震えていた。

いつもより切羽詰まったような、泣きそうなその声に、わたしは小さく微笑む。

「会いたかったです、キース様」

見上げると、やっぱり彼の琥珀の瞳は揺れていた。安心させようと微笑めば微笑むほど、その表情は歪んでいってしまう。

肩にかけられていたのはキース様の上着で、心許ない格好をしているわたしを案じてのことだとすぐにわかった。わたしはそっと両手を伸ばし、キース様の頬を包んだ。

「絶対に来てくれるって、思っていました」

それは作った言葉ではなく、心の底からの確信だった。

キース様の肩から力が抜け、張りつめていた闇が、しゅるしゅるとほどけていく気配がする。

次の瞬間、その影の向こうが揺らいだ。

「リリー!」

聞き慣れた声とともに、闇の奥から人影が現れる。

先頭に立っていたのはローラント兄様だった。その背後には、剣を構えた騎士たちが次々と姿を現していく。

森の中に散らばっていた闇は、彼らの足元で静かに後退し、現実の輪郭を取り戻していった。

少し離れた場所では、馬車が完全に包囲されているのが見える。隣国の兵士たちは動きを封じられ、御者席の奥には、青ざめた顔でこちらを睨むアーデルハイド王女の姿があった。

「……生きてますよね、わたし」

そう口にした瞬間、キース様の腕にぐっと力がこもった。

抱き寄せられる距離が、ほんの少しだけ近くなる。

「そうでなければ、許せませんでした」

低く抑えた声だった。怒りと安堵が混じっていて、どちらが強いのか分からない。

「許さない、って……誰をですか?」

冗談めかして聞いたつもりだったけれど、キース様は少しも笑わなかった。

「あなたを連れ去った者も、傷つけようとした者も。それから、私自身を」

キース様が、真っ直ぐにわたしを見る。

この目は本気だ。

私はまたキース様の頬にぺちぺちと触れる。キース様だ。本当に、また会えて嬉しい。

「?」

不思議そうな顔をしたキース様が、わたしの手に自分の手を重ね、すりと頬を擦り寄せてくる。

「ぐっ」

その仕草が素晴らしすぎて、爆発するかと思ったんですが⁉︎

「キース様、相変わらず素敵ですね……」

思わず、恨めしいような声が漏れてしまった。

それを聞いたキース様は、わずかに目を見開き、それから困ったように、けれどどこか満足そうに息を吐く。

「……それは、褒めているのですか?」

「褒めています。全力で」

即答すると、キース様は一拍置いてから、静かに問い返してきた。

「あなたにとって私は、好ましい存在でしょうか」

真剣そのものの声音だった。

冗談でも、駆け引きでもない。ただ、答えを確かめるためだけの問い。

わたしは笑顔で、迷いなく頷いた。

「好ましいどころじゃありません! 優しくて、頼りになって……誰よりも信じていますから」

勢いでそう言い切った瞬間、キース様の表情が一変した。

琥珀の瞳が柔らかく細まり、口元が自然に上がる。普段は滅多に見せない、心からの安堵と喜びが混じった破壊力抜群の笑顔だった。

「それならば、良かった」

その一言は、まるで壊れ物を扱うみたいに、ひどく慎重で、ひどく大切そうだった。

「あなたの一番になりたいと、ずっと願っていました。これまでも、これからも」

「それって……」

続きを聞きたくて、でも聞くのが少し怖くて、言葉が途中で止まる。わたしが首を傾げた時だった。

「おーい、キース。その辺でいいか~?」

森に響いたのは、あまりにも場違いで、だからこそ現実に引き戻される声だった。

ローラント兄様だ。

はっとして視線を巡らせると、ようやく周囲の光景が目に入る。

剣を構えたままの騎士たちと、地に伏す兵士、それから完全に包囲されたあの馬車。

(そうだった、皆さんがいるんだった……!)

一瞬で頬が熱くなる。

キース様の言葉に胸がいっぱいで、世界にふたりしかいないみたいな気分になっていた自分が、恥ずかしくて、でも少しだけ名残惜しい気もする。

「どうする? 全員捕まえたけど、さっきのやり方で城に戻れるか? 闇魔法にも限度はあるんだろ?」

「問題ありません。そのまま戻りましょう」

キース様はいつもの冷静さを取り戻していたけれど、その腕はまだ、わたしを離そうとしなかった。

「すごいな、キースの力は。ルークも気が気じゃないだろうし、早く帰れるならそれに越したことはないが」

感心したように言いながら、ローラント兄様の視線がこちらへ向く。

そして、はっきりと顔をしかめた。

「……傷だらけだな。それに、肩のこれは足跡か……? クソっ、あの女」

その言葉で、自分の状態をようやく思い出す。

馬車でアーデルハイドに何度も踏まれ、森では必死に地面を転がったんだった。

怖かったけど、必死で、それでも生きたかった証だ。

「やはり、彼らはここで処しても問題ないでしょうか?」

キース様の声は低く、感情を抑えているのがはっきりわかった。

「だーーっ、同じ気持ちだけどさすがに俺もわかる! 問題大有りなんだろうな! ひとまず早くリリーを休ませよう」

「……わかりました」

その返事の直前、確かに、短く息を吐く音が聞こえた気がした。

舌打ちだったのかもしれない。

張りつめていたものが、ぷつりと切れた。

夢の中で見た絶望も、現実で味わった恐怖も、一気に身体にのしかかってくる。

立っているのが急に難しくなり、膝が笑った。

「っ……」

倒れる、と思ったらまたキース様と視界が近づいた。そのまま、ふわりと身体が浮く。

「では、戻りましょう。リリーベル様、目を閉じてください」

「は、はい」

言われるままに目を閉じて、キース様に身体を委ねる。

何も見えないけれど、キース様の魔力がはっきりと広がるのを感じた。

深くて、静かで、圧倒的なのに、不思議と怖くない。

その中にいる限り、もう何も起こらないと、心が理解してしまった。

(キース様の闇魔法、やっぱり落ち着くなあ……)

まるでお布団に包まれているみたい。

その安心感に身を委ねた瞬間、わたしの意識は、ゆっくりと闇の奥へ沈んでいった。