軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

34 見知らぬ場所③

「世界は強い者と使える者で回るの。役に立たない感情や人なんて、切り捨てればいいだけ。あの美しく恐ろしい力を持つキース様なら、わたくしにぴったりだわ!」

「……てください」

「何よ?」

「あの方を、そんなふうに言わないでください」

押しつぶされそうな息の中で、それでも言葉を繋いだ。喉がひりついて、声が震えそうになるのを必死で抑える。

「キース様は……優しいお方です。誰かを踏み台にして、自分だけが得をするようなことは決してなさいません。人を道具みたいに扱うことも、命を数で見ることも、あの方はしない」

自分でも驚くほど、言葉は止まらなかった。

怖くないわけがない。それでも、ここで黙ってしまえば、わたし自身が否定されてしまう気がした。

アーデルハイドの足の力が、わずかに緩む。

「優しい、ですって?」

彼女はゆっくりと首を傾げ、そのまま小さく笑った。

「本気で言っているの? 権力も立場も持った男が、そんな綺麗事で生きていけるわけがないでしょう」

わたしを見る目は、哀れみと嘲りが混じったものだった。

「あなた、本当におめでたいわね。だから利用されるのよ」

「……利用されていたとしても、構いません」

それが嘘偽りない気持ちだった。

最初は、わたしを利用しようとしていたのだと知っている。

腐っても王女という肩書きは、侯爵家にとって決して無視できない要素だったはずだ。最初に優しく接してくれたのも、きっと命令や役割の一部だって分かっている。

そうでなければ、説明がつかないほど彼は理性的で、距離の取り方がうまかった。

(それでも、一緒に過ごした日々まで、すべてが偽りだったとは思えない)

東部で感染症に立ち向かった時間。混乱の中で、判断に迷うたび、わたしの言葉に耳を傾けてくれたこと。夜遅くまで資料を広げ、理解できるまで根気よく勉強を教えてくれたこと。疲れ切ったわたしに、無理をするなと静かに声をかけてくれたこと。

その一つ一つは、計算だけで成り立つものではなかったように思う。

恐怖も、不安も、焦りも、確かにそこにあった。

たとえ始まりが打算だったとしても、途中から生まれたものまで否定する理由にはならない。

わたしにとって、キース様と過ごした時間は、かけがえのないものだった。

「あの方が何を背負っていようと、どういう立場であろうと、わたしはキース様を信じています」

わたしはもう一度、しっかりと顔を上げた。

(これで騙されていたのなら、もうそれでもいい)

もし最初から最後まで、わたしが都合のいい存在だったのだとしても、だって今こんなにあの人に会いたいと思う。

運命を乗り越えたら、玉砕してもいいから伝えようと思っていたの。

「……もういいわ。あなたと話していても、不快なだけ」

アーデルハイドはわたしから興味を失ったように息を吐く。

靴底が肩から離れ、圧迫が消えた。彼女は外套の裾を整えながら姿勢を正すと、背後の壁に向かってコンコンとノックした。

「お父様に献上するのも、面倒になったわ。あなたをもう一瞬たりとも視界に入れたくない」

「え……」

言葉を発するより早く、馬車が軋む音を立てて減速した。

外に向かって、短く命じる声が響く。

「この女を下ろしなさい」

低く、感情のこもらない命令が落とされる。

馬車が軋む音を立てて減速し、やがて完全に止まった。扉が開いた瞬間、外気が流れ込み、湿った土と青葉の匂いが鼻を刺す。

「降りろ」

「っ!」

兵士に乱暴に腕を掴まれ、わたしは半ば引きずられるようにして馬車の外へ降ろされた。

足が地面に触れた拍子に体勢を崩し、そのまま膝をつく。

顔を上げるより先に、馬車の中から声が落ちてきた。

「早くしてね。大きな傷があるだけでも、もう戻ってこれないでしょうし」

アーデルハイドの声は軽やかで、まるで天気の話でもするような調子だった。

「血の匂いは獣を呼ぶものよ。それに、王女に傷跡が残れば、それだけで瑕疵になるのだから」

そう言い残し、見たくもないと言いたげに馬車の扉が乱暴に閉まる。

この場で向き合うのは、わたしと一人の兵士。

見渡す限り、鬱蒼とした森だった。背の高い木々が空を覆い、昼の光さえ葉の隙間から細く落ちてくるだけだ。足元には絡みつくような下草が広がり、湿った土と青い葉の匂いが濃く漂っている。

逃げ場のない場所だと、本能的に理解する。

そのとき、ふと視界に入った兵士の顔に、胸がざわめいた。

(……この人)

一瞬で思い出す。

最初に、ルーク兄様の部屋の前に立っていた兵士だ。警護として何度か見かけたことがある。名は知らないけれど、確かに見覚えのある顔だった。

兵士はわたしと目が合うと、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。それだけで、彼もわたしのことを知っていることがわかった。隣国の手の者が入り込んでいたのか、それとも寝返ったのか、その真意はわからないけれど。

(今は考えている暇はないわね)

わたしは必死に身体を捻り、地面に転がるようにして距離を取った。草が頬に触れ、夜着が土で汚れるけれど、構っていられない。

芋虫のようにずりずりと身体を動かし、木の根元に背を預ける。

ひとまず、隣国には連れて行かれていないのであれば良かった。

(隣国王に献上するとか怖いことを言っていなかった? 本当に心変わりしてくれて良かった……!)

それでも、ピンチには変わりない。

縛られた手首が、動かした拍子にじわりと痛む。縄は固く、簡単には解けそうにない。けれど、不思議と胸の奥は冷え切っていなかった。考える余地はある。動く力も、まだ残っている。

(どうやら、魔法までは封じられていないみたい)

わたしは小さく息を整え、意識を指先へ集中させた。

「水よ、刃となれ」

指先に集中した意識に応えるように、空気中の水分が集まり、細く鋭い刃の形をとる。

繊維が湿り、張り詰めたかと思うと、すぱりと切れた。水の刃について、テレビ番組で見た甲斐があった。

手首をさすりながら立ち上がり、深く息を吸う。森の匂いが肺いっぱいに広がった。

兵士は剣を構えたまま、すぐには踏み込んでこなかった。口元に浮かんだのは、油断と嘲りが入り混じった笑みだった。

「リリーベル殿下、無駄な抵抗はおやめになった方がいい」

まるで子どもを諭すような口調だった。王女に何ができるというのか、と態度が雄弁に語っている。

「その程度の魔法で、状況が変わるとでも?」

「……どの程度かは、やってみないとわかりません」

一歩、また一歩と距離を詰めてくる。剣先はまだ下げられたままで、まだ本気で斬るつもりはないらしい。

わたしは後ずさりしながらも、視線だけは逸らさなかった。喉がひりつくほど渇いているのに、足はまだ動く。

(こんなところで、死んでなんかやるものか)

指先に残る水魔法の感触を確かめるように、ゆっくりと息を整える。逃げ道は森の奥しかない。でも、背を向けた瞬間に斬られるのは目に見えていた。

兵士が、ようやく剣を持ち上げる。

「御覚悟を。私も早く行かねばならぬので、これ以上手間をかけさせないでいただきたい」

その声と同時に、森の空気がひどく冷えた。

光が落ちたわけではないのに、木々の影が濃くなり、昼間のはずの景色が一段暗く沈む。鳥の声もなくなり、湿り気のない冷気が肌を撫でて背中を伝って寒気が走った。

どうしたんだろう。雨雲でも来たのかな。

わたしは顔を上げられずにいた。怖いからではなかった。今、目を逸らしてはいけないと思っていたからだ。

闇が静かに満ちていく。森全体が息を潜め、音が吸い込まれていくようだった。

胸元のペンダントが、はっきりと熱を帯びる。脈打つ鼓動に合わせて、確かな魔力が伝わってきた。

(……来て、くれた)

この優しい闇を、わたしは知っている。