軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

閑話 グーテンベルグ国王

***

重い扉が閉じられる音が、はっきりと響く。

机を挟んで向かい合うのは、グーテンベルグ国王とヴィンターハルター侯爵だった。

侯爵は背筋を正し、いつもどおり涼やかな表情を浮かべているが、指先にはわずかな緊張が滲んでいるようにも見える。

国王は書類に目を落としたまま、しばし言葉を発さない。

紙をめくる音だけが、静かな室内に落ちる。

「……第一王女に関するあの計画についてだが」

やがて、低い声が響いた。

侯爵の視線がわずかに上がる。

「再度考え直すつもりだ。卿には伝えておこうと思ってな」

その一言で、空気が変わった。

侯爵は一瞬、言葉を失い――すぐに、困惑を隠した微笑を浮かべる。

「……なぜ、でございましょうか」

丁寧な口調。

しかし、その奥にある焦りは明らかだった。

「隣国王への王女の輿入れは、現在最善の国策かと。今さら計画を見直す理由が、私には理解できません」

国王は視線を上げ、侯爵を正面から見た。

「理解できぬか」

「はい。恐れ多くも陛下。国益を考えれば、これ以上に合理的な選択はありません。軍事的緊張の緩和、医療と薬学の交流、同盟の強化。隣国と縁をつなぐことによりすべてが揃っております」

「隣国の王女がヴィンターハルター家に降嫁することも含めて、全て都合が良いと?」

「……それは、まだ固まっておりませんが」

侯爵は一瞬、言葉に詰まった。

いつもの柔和な笑みがわずかに歪み、視線が揺れる。

言い終えたあと、空気が重く沈んだ。

国王は椅子の背に深く身を預け、しばし黙考する。その沈黙が、侯爵にはひどく長く感じられた。

「隣国エーデルラントの王家とは随分親しくしているように感じられたが。前回も子息がエスコートをしていたであろう」

低く、感情を削ぎ落とした声。

「……外交とは、常に段階を踏むものでございます」

侯爵は慎重に言葉を選んだ。

だが国王の視線は、逃げ場を与えない。

指先で机を軽く叩く音が、執務室に響く。

「そうだな。私もそう思う。強いて言うならば、あの時とは状況が変わったのだ」

国王は淡々と告げた。机に向けられていた視線を上げ、侯爵を正面から捉える。その目には、すでに結論があった。

「あの時は他に選択肢がなかった。国を保つために、王女を外交の駒とする判断もやむを得なかった」

一拍置く。

「だが今は違う。第一王女は東部で結果を出した。混乱の中で前に立ち、民の信を得た。それは、想定していなかった変化だ」

国王の声は低く、揺れない。

「外交は相手国を見る前に、自国を見るものだ。今の王女を、ただ隣国へ渡す判断が本当に国益か。現時点で、隣国王への輿入れは最善ではない。国民の反発もあるだろう。ルークも許さないだろうな」

「それは……!」

侯爵は言葉を失い、ただ頭を垂れるしかなかった。

国王は短く息を吐き、視線を侯爵から外した。

「それと――子息にも礼を言いたい。連れて参れ」

その言葉に、侯爵の肩がわずかに強張る。

「……恐れながら、謹慎中の身でございますが」

「承知している。だからこそだ」

国王は淡々と言い切った。

「東部での働きは事実だ。王家として、功を認めぬ理由はない」

机上の書類に指先を置き、言葉を続ける。

侯爵の視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。

「……承りました」

深く頭を下げる侯爵を前に、国王はそれ以上何も告げない。すでに必要なことは言い切ったという態度だった。

重い足音が、執務室の床を打つ。

扉の前で一度だけ立ち止まり、形式どおりに一礼をしてから、侯爵は外へと出て行った。

重い沈黙が落ちる。

やがて国王は書類に視線を戻す。

第一王女、リリーベル。

妃が不貞を働いたとして、捨ておいた王女。

政略の駒となるならば、それが最も良いと思っていた。

だからこそ、悪名高い隣国王の元に嫁がせようと言われても心は動かなかった。そう、少し前までは。

東部行きを決めたリリーベルの瞳には、確かに妃の面影があった。

あの人も、同じように前を見据える目をしていた。誰かのために踏みとどまり、逃げずに立ち続けるときの、あの静かな強さ。

国王は無意識のうちに視線を伏せる。

そこには、長いあいだ見ないようにしてきた現実が横たわっている気がした。

不貞を疑い、確かめることもなく距離を置いた。

王としての立場を理由に、感情から目を背けた結果、妃とは二度と向き合えないまま今生の別れとなった。その選択が正しかったのかどうか、答えを出さないまま今日まで来てしまった。

国王は小さく息を吐き、机上の書類へと意識を戻す。

ルークを通じて提出された報告書には、東部で発生した感染症についての詳細な考察が記されていた。

発生の経緯、土地の特性、公衆衛生の不備――どれもが具体的で、単なる事後報告ではない。原因を見極め、次を防ぐための視点でまとめられている。

国王の視線は、自然と文末へと向かった。

そこに添えられた名前を見て、ほんのわずかに眉が動く。

「……キース・ヴィンターハルター、か」

報告書は、今回の感染症の発生にエーデルラントの関与を疑う言葉で締められていた。

前回の夜会で、隣国王ヴォルフラムがリリーベルを「下見」に訪れていたことは把握している。

その態度が好意と打算の入り混じったものであったことも。

だが、話はまだ成立していない。

こちらから「王女を差し出す」という最終の意思表示をしていない以上、隣国王は表立って動かないだろう。

あの男は、自ら求めることよりも、相手が差し出した形を好む。王としての体面と支配の均衡、その両方を守るために。

(ふん、好色王め)

国王は便箋を引き寄せ、筆を取る。

断りの文面は、あくまで穏やかに。時期尚早であること、国内事情を理由とし、関係を損なわぬよう礼は尽くす。それ以上の含みは持たせない。

書き進めながら、ふと、胸の奥に沈んでいた思いが顔を出す。

あの時、妃のことを信じることができたら、なにか変わっていたのだろうか。

『陛下。あくまで“噂”ではございますが……第一王女殿下のご出生について、不審な点がございます』

低く、慎重で、いかにも主君を思うような声音だった。

『王家の血統は、国の根幹に関わります。万が一があってからでは、取り返しがつきません。疑いのあるまま情を優先なさるのは、王として危うい選択かと存じます』

断定はしない。

証拠も示さない。

ただ、疑念だけを、静かに置いていく。

『調べる価値はございますが……陛下がご決断なされぬのであれば、これ以上は申し上げません』

そう言って一歩引いた、親友のその姿勢が――結果的にもっとも残酷だった。

全てを親友のせいにするつもりはない。その意見を元に、怒りで頭が沸騰してしまったのは己の未熟さだ。

それでも、調べることは出来なかった愚かさも。

書簡を書き終え、静かに封をする。

国王は背もたれに身を預け、しばし目を閉じた。

あらゆる事実を、国王はようやく正面から受け止めつつあった。