軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

22 東部ポルシェ領③

ふと、胸に小さな疑問が浮かんだ。

(そういえば……ポルシェ子爵は?)

領主であるはずの人物の姿を、この三日間、一度も見ていない。

忙しさに紛れて見落としていただけかと思ったが、どう考えても不自然だった。

「子爵令嬢には、リリーベル様と共に薬草の管理をするように指示をしておきます。ではリリーベル様、またのちほど報告に参ります」

「行ってらっしゃいませ、キース様。どうかお気をつけて!」

忙しそうなキース様に、わたしは疑問を引っ込めて手を振る。

なんだかちょっと、家族みたいな感じがしてほっこりしてしまう。

忙しそうに踵を返したキース様の背に向かって、わたしは大きく手を振った。

――ぴたり。

ほんの一拍、キース様の足取りが止まる。

背中越しでもわかるほど、動きがわずかにぎこちなくなった。

「……」

返事はない。

けれど、肩がほんの少しだけ強張ったのが見えた。まるで、思いがけない一撃を受けたかのように。

(……どうしたんだろう?)

首をかしげている間に、キース様は何事もなかったかのように歩き出す。けれどその歩幅は、先ほどよりも微妙に乱れている。

わたしが考え込んでいると、遠ざかる背中の向こうで、キース様が軽く咳払いをしたのが聞こえた。

しばらくして、少し上擦った声が背後からかかった。

「リ、リリーベル様……!」

振り返ると、そこに立っていたのはアデリナだった。

両手を胸の前で組み、背筋を伸ばしているけれど、その表情は明らかに緊張している。キース様が呼んできてくれたみたいだ。

「アデリナ様は水魔法がお使いになれると伺いました。お手伝いをしてもらってもいいですか?」

そう言って、わたしは苗床を指し示しながら、ゆっくりと説明を進める。

アデリナは真剣な表情で頷き、何度も確認するように復唱してくれる。元々しっかりした子だ。孤児院で子どもたちのお世話をする彼女を、見てきたもの。

「この薬草がこの地に根付けば、発症から治癒までの期間が早くなります。アデリナ様、よろしくお願いしますね」

「はい、お任せください、リリーベル様!」

アデリナは一歩前に出て、きゅっと拳を握った。

その声には迷いがなく、背筋もぴんと伸びている。

「必ず、この薬草を根付かせてみせます。ここで倒れる人を、これ以上増やしたくありませんから」

その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

わたしは小さく微笑んで、もう一度苗床に視線を落とした。

そうしたら、胸の奥に引っかかっていた違和感が顔を出した。

(……やっぱり、気になるなあ)

わたしは少しだけ言葉を選んでから、アデリナを見る。

「アデリナ様……ひとつ、お聞きしてもいいですか?」

「はい。なんでしょうか?」

「この三日間、領地のことを把握しようとしていて……どうしても、ポルシェ子爵のお姿を見かけないような気がしたのですが」

一瞬だけ、空気が止まった。

「もしかして、ご病気なのでしょうか」

恐る恐る投げた問いだった。

けれどアデリナは、驚くほどあっさりと、そして明るく首を振った。

「いいえ!」

ぱっと花が咲くような笑顔。

「お父様はですね、感染症が広がっていると聞いた途端、王都に行ってしまったそうです」

「王都にですか?」

「ええ。こちらは危険だから、と。入れ替わりになったみたいです」

さらりと告げられた言葉に、思わず息を呑む。

「今は、愛人の家に身を寄せているんじゃないでしょうか」

あっけらかんと語られる内容に、わたしは目を丸くする。

確かに、アデリナを虐げる後妻と義理の妹の存在は小説では必須だから、もうすでに彼女たちがいることは当たり前なのだけど……!

けれどアデリナは、少しも俯かない。

「ですから、領地のことは母とわたしと、皆でやることになったのです。本当に、お母様を助けてくださりありがとうございます」

アデリナの明るいその声は、強がりでも虚勢でもなかった。

覚悟を決めた人の、静かな強さだった。

わたしは思わず、彼女の手をそっと取る。

もし原作どおりなら――この先、彼女の母は病に倒れ、領地は混乱し、のうのうと戻ってきた父とその周囲が好き勝手をする。

そんな未来が、ありありと浮かんでしまったから。

(……そんな結末、絶対にありえない)

わたしは思わず、アデリナの手を取った。両手で、ぎゅっと包む。

「大丈夫です、アデリナ様」

「え……?」

「きっとうまくいきます。いえ、うまくいかせましょう。わたしたちで」

言葉にすると、不思議と力が宿る気がした。

アデリナは一瞬きょとんとして、それから唇を噛みしめる。

「……はい」

泣きそうなのに、笑おうとしている。

目尻に滲んだものをこらえながら、彼女は小さく、でも確かに頷いた。

「ありがとうございます、リリーベル様……」

その表情は、泣き笑いだった。領主の娘としての責任と、不安と、恐怖と。

それでも前を向こうとする強さが、そこにあった。

わたしはもう一度、彼女の手を握り返す。

(ひとりじゃない)

その想いが、少しでも伝わればいい。

それから、二週間。

期限が来るその日まで、わたしたちは毎日、精魂尽き果てるほどに働いた。

夜明け前から動き、薬草を煎じ、苗を管理し、隔離区画を整え、症状を記録し、回復の兆しに小さく喜び、悪化に歯を食いしばる。

誰もが疲弊していた。

それでも、立ち止まる者はいなかった。

***

――そして、わたしは王都へ戻ってきた。

離宮の門が見えたところで、ようやく胸の奥に張り詰めていたものが、ふっと緩んだ気がした。

(ちゃんと、できたかなあ)

役目は果たしたと、そう思える。

東部の状況は落ち着き、治療体制も整った。アデリナはセレーネ草の栽培に専念し、あとは交代の医療団と現地の人たちに任せても大丈夫だと、そう判断できた。

馬車から降りて次の一歩を踏み出そうとしたら、足元が揺れた。

「あ……れ……?」

視界が傾く。身体が、自分のものではなくなる感覚。全く足に力が入らない。

「リリーベル様!」

強い腕が、わたしを抱き止めた。

衝撃はなく、代わりに感じたのは、確かな体温と、聞き慣れた声。

「……キース、さ……ま」

名前を呼んだつもりだったけれど、きちんと声になっていたかは分からない。

それでも、彼の顔がすごく泣きそうに見えて。わたしは安心させようとにこりと微笑んだ。

「だい、じょぶ……です。まだ、しなない、はず……で」

「リリーベル様、もう喋らないでください」

キース様はわたしを抱き上げる。

身体は重いけれど、不思議と心は軽かった。

前もこんなことがあったなあ。

そう思いながら、どんどん意識が沈んでいく。キース様が叫んでいる気がするけれど、もう聞こえないや。

(……ちゃんと、変えられたよね)

原作の中では、間に合わなかった未来。

誰かの死を前提に、物語が進んでいった結末。

どうか目覚めた時、良い日が来ていますように。

わたしはそう思いながら、キース様に身を委ねた。