軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

38 未来へつながる花々

それから、目まぐるしく一週間が過ぎた。

キース様がお忙しくなってきたこともあり、ルーク兄様が手配してくれた本格的な薬学の授業が始まることとなった。王宮でも指折りの学識を持つ医官が講師として迎えられ、教室の空気は一気に専門的になっている。

そしてわたしは、分厚い書物とにらめっこをしている。

「……なんとしても、未来を変えなくちゃ」

誰にも聞こえないように小さく呟きながら、わたしはまた一頁、難解な文献に目を落とした。

目の前に広がるのは、感染症に関する詳細な記述。病原の分類、流行地域、発症例、対処法。

書物の隅に書かれた症状の一文を見つめながら、思い出すのは――アデリナの母の咳、そして、あの甘い香りについて。

(やっぱり……あの病気は、グリス肺炎なんじゃないかな……)

その懸念は消えない。

夢で読んだ小説の中でも、遠回しに語られていた「謎の感染症」。

街を覆うようにじわじわと広がり、人々を脅かしていく描写が何度か出てきたけれど、その詳細はあまり語られていなかった。

けれど、もしそれが、グリス肺炎だったら?

そして今、初期段階でそれに気づける場所に、わたしは立っている。

(アデリナの母親だけじゃない。王都中が、未来ではあの病に呑まれていた。だったら、今のうちに……)

指先に力がこもる。文字がにじむ。難しい。難しいけれど、諦める理由にはならない。

ページをめくるたびに、誰かの命が未来で繋がっていくような気がしていた。

「リリーベル殿下。本日はここまでにいたしましょう」

医官の声に、ようやく顔を上げると、もう日が傾き始めていた。

夢中になっていた時間の分だけ、疲労感もある。けれど、それ以上に胸の奥に火が灯っているのを感じる。

資料を丁寧に閉じ、荷物をまとめて廊下へ出たところで――ふいに、その姿が見えた。

「……キース様、どうしてこちらに?」

「おつかれさまです。リリーベル様。ずいぶん集中されていたようですね」

わたしのほうに歩み寄ってきたキース様は、どこか穏やかな表情をしていた。

「もしかして、授業の様子を覗いていらしたんですか?」

「……………………………………いいえ」

すごく長い沈黙があった。これは覗いていたに違いない。視線を落としたままのその口元が、少しだけ柔らかくほころんで見えたのは、気のせいではなかったと思う。わたしは自分でも驚くくらい自然に笑っていた。

「今日も、ちゃんと頑張りましたよ」

「はい、すばらしいです」

キース様の授業を受けられなくなったのは、なんだかさみしいな。そんな気持ちまで抱いてしまう。ふいに顔が熱くなるのを感じながら、わたしは小さくうなずいた。

廊下を自然とふたりで並んで歩きながらも、わたしの頭の中は、ずっとある一つの疑問でいっぱいだった。

アデリナの言葉、そして医学書の記述――それらがぴたりと一致しているように思えてならない。

「キース様。……あの、少し、医学書のことでご相談してもいいですか?」

彼は足を止め、わたしを見つめたまま頷いた。

「もちろんです。何か、気になることがありましたか?」

「はい。あの……少し前にキース様が貸してくださった、隣国の医学書に記されていた『グリス肺炎』のことなのですが」

わたしが口にすると、キース様の表情が僅かに強張った。

「やはり、気になっていましたか」

「アデリナ様のお母様の症状と一致しているように思えるんです。……それに」

そう言いながら、わたしはそっと視線を上げた。

「キース様。その記述の末尾に、『花弁状の光を放つ薬草によって症状の緩和が見られた』という一文があったのを覚えていらっしゃいますか?」

「はい、覚えています。記録としては曖昧でしたが、『夜に青く光る花』という単語だけは、印象に残っていました」

「実はその花の描写が、以前ルークお兄様から買って頂いた種から咲いた……わたしの薬草園にある花とそっくりなんです」

わたしがそう告げると、キース様の目が静かに見開かれた。

「夜に離宮の庭園を訪れたとき、確かに青く光っていたんです」

「……貴重な薬草であると同時に、幻の花とも言われていました。条件が整わなければ発芽すらしないと聞いていたが。いやしかし、あの庭園には他にも貴重な薬草が…………」

キース様はそこで黙りこんでしまった。深く何かを考えているような沈黙が続く。

やがて、その目がわたしを捉え、まっすぐな声が響く。

「あの令嬢の母親の症状――それがグリス肺炎である可能性は、十分にあります。あのとき、私も引っかかっていました」

「やっぱり……!」

「甘い香りという特異な症状。それはこの国では記録にない病気のはず。……それなのに、実在するとなればかなり危険です」

「はい」

わたしたちは、ほぼ同時にうなずいた。

目の前にあるのは、誰かの命を救えるかもしれないという希望。

わたしたちは、肩を並べて自然と薬草園に向かっていた。そして、ふと彼が口を開く。

「リリーベル様。その薬草は、この国にとってとても重要なものになるでしょう」

「はい! もしちゃんとした薬が作れたら、感染の拡大も未然に防げそうです」

現代でも度々、新種のウイルスによる感染症が世界中で拡大し、そのたびに医療機関は大わらわになっていた。もし、感染症の拡大を最小限に留めることが出来たら──そう思うだけで、手が震えてしまう。

「……そんな貴重なものを、私に教えてしまっていいのですか?」

キース様がふと立ち止まり、わたしの顔をじっと見つめながら問いかけてきた。

その声には、どこか自嘲めいた響きが混じっていて、思わずわたしも足を止める。

「? もちろんです。キース様のおかげで、わたしはこうして学ぶことができていますもの」

そう言って微笑むと、キース様の表情がわずかに揺れた。

「わたし……まだまだ未熟です。だから、ぜひ先生のご意見も伺いたいと思っています。キース様の言葉には、いつも大切な視点があって……とても、信頼しています」

それは、ただの謙遜でも、お世辞でもなかった。本当に、そう思っている。

侯爵に言われて仲良くしてくれていると思うと複雑ではあるけれど、不安だった日々に知識と勇気をくれたのはこの人の教えだったのだ。

キース様はしばらく何も言わなかった。

けれど、目を伏せるようにして小さく息をつくと、ぽつりと呟いた。

「……そう言っていただけるとは、思いませんでした」

「え?」

「……いえ、なんでもありません」

そこで言葉を切り、彼は少しだけ笑った。

どうしたのだろう。笑っているのに、その表情はひどく寂しげに見える。

「キース様!」

思ったよりも大きな声が出た。慌てて辺りを見渡すが、離宮に用がある人はほとんどいないので、未だに閑散としていたからセーフだった。

「ありがとうございます。今、こうして一緒にいてくださって。ひとりだと確証が持てなくて、時間がかかってしまうところでした」

ほんの一瞬、彼の目がわずかに見開かれた気がした。

けれど、すぐにその目は、まっすぐに見返してくれた。

「私も同じです。あなたが、それを信じてくれている限り」

その言葉に、わたしは自然と笑っていた。

もうすぐ離宮に到着する。わたしたちの前には、国の未来を変えるかもしれない希望の花が、静かに、けれど確かに咲きはじめていた。

転生した時、わたしは思った。

――ナレ死なんて、まっぴらだ、と。

記憶の片隅にあった「前の世界の物語」を思い出すたびに、このままではいけないと必死にもがいてきた。

最初はただ怖くて、孤独で、誰のことも信じられなかった。でも、気がつけば少しずつ――わたしの世界は、変わりはじめていた。

いつも厳しかったお兄様たちと、少しずつ言葉を交わせるようになって。

気高くて優しいエーファ様とは、誰よりも心を通わせられる存在になった。

マルグリット妃も、遠くからわたしを見守ってくれている。

そして、悪役令息と噂されていたキース様。冷たくて、怖くて、近寄りがたい人だと思っていたけれど、今は――わたしの隣にいて、いつも導いてくれる、頼もしい存在だと感じている。偽りでもいいと思うくらいには。

まだ何もかもが完璧にうまくいっているわけではない。問題は山積みだ。

でも、わたしは確かに一歩ずつ、前に進んできた。

「ナレ死」なんてさせないために、今日も精一杯、生きてみせます!

【第一部 完】