軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話「夏の便り」

麦の穂が、陽を弾いていた。

盛夏の光が辺境の大地に降り注いでいる。二ヶ月前に青々と風に靡いていた穂先が、今は金色に変わり始めていた。収穫まであと少し。畑の向こうに、作業場の煙突から薄い煙が上がっている。

セシリアは帳面を閉じ、作業場の入口に立った。

発酵食品の定期出荷は三度目を数えていた。品質は安定し、ヴィクトルの商会を通じた王都の市場での評判も定着している。燻製の継続取引と合わせ、辺境公爵領の経済は明確な成長局面に入っていた。

「お嬢様、書簡が二通届いております」

マルガレーテが封書を差し出した。

一通は宮内省の封蝋。もう一通はヴァイスフェルト侯爵家の紋章。

セシリアは宮内省の封書から開いた。

封蝋を割り、便箋を広げた。整然とした書記官の筆跡が並んでいる。

婚礼の日程案が記されていた。

秋の半ば。収穫が終わる頃。辺境公爵領の教会堂にて挙行。宮内省からの記録官を派遣する旨。

ここまでは、予想していた通りだった。

だが、便箋はそこで終わらなかった。

婚礼に先立ち、公爵家の婚約者として王都にて社交儀礼を行うことが求められる。具体的には、王都の主要貴族への挨拶回りと、王家主催の祝宴への出席。

セシリアの指先が、便箋の端で止まった。

王都での社交儀礼。

辺境で積み上げてきた日々とは、全く異なる場だった。

便箋の末尾に、宮内省の担当責任者の名があった。ヘルムート・ドライアー伯爵。添え書きには、辺境の特産品事業についても祝宴の席で王家の方々に説明する機会を設ける、と記されている。

好意的にも読めた。だが同時に、公爵夫人としての公的な能力を試す場でもあることは、行間から伝わってきた。

セシリアは便箋を折り畳み、二通目に手を伸ばした。

父フリッツの書簡だった。

封を切ると、簡潔な筆跡が並んでいた。

宮内省からの通達と同じ内容が記されていた。社交儀礼の件は、フリッツも宮内省から事前に知らされていたのだろう。

「宮内省の求めは慣例に基づくものだ。拒否する理由はない。だが準備は万全にせよ」

父の声が聞こえるような文面だった。

便箋を読み進めた。侯爵家の近況と、王都の政治的な動向。辺境の事業に対する社交界の評価がさらに上がっていること。

そして、一節が目に入った。

「王都の社交界では、辺境公爵の婚礼が話題になっている。お前がかつてランツァー伯爵家の嫡男との婚約を破棄した経緯を知る者もおり、『かつて捨てられた令嬢が公爵夫人になる』という噂が広がっているようだ。気にする必要はない。事実がお前の味方だ」

セシリアはその一節を読み、視線を動かさなかった。

胸に波は立たなかった。かつてなら、「捨てられた」という言葉に身体が先に反応していただろう。今は、文字として目に入り、文字として通り過ぎていった。

便箋の末尾に、二つの一文が添えられていた。

「母上の形見の件、忘れてはおらぬ。王都に来た折に渡す」

セシリアの指先が、便箋の上で止まった。

母の形見。

幼い頃に亡くなった母の櫛。父がずっと持っていてくれたもの。嫁ぐ時に渡すと、父が決めていたもの。

胸の奥が、静かに温かくなった。

もう一文。

「ホーエンベルク男爵家の蟄居処分に変更はなし」

セシリアは帳面に目を戻した。感情は動かなかった。動く理由もなかった。便箋を折り畳み、机の引き出しに仕舞った。

セシリアは二通の書簡を手に、執務室に向かった。

扉を叩くと、「入れ」と低い声が返った。

レオンハルトは机に向かっていた。国境の定期報告に目を通しているところだった。当面の脅威は去っていたが、防衛体制の確認は続いている。

「宮内省から書簡が届きました」

セシリアは宮内省の便箋を差し出した。レオンハルトが受け取り、目を通した。

読み終えるまでに、時間はかからなかった。

便箋を机の上に置いた。

「王都に行く必要がある、ということだ」

「はい。婚礼の前に、主要貴族への挨拶回りと、王家主催の祝宴への出席が求められています」

レオンハルトの目が便箋に戻った。眉間にわずかな皺が寄っていた。

セシリアは知っていた。この人の眉間に皺が寄る時は、不快なのではなく、考えている時だ。

「俺も行く」

短かった。

セシリアは一瞬、言葉を止めた。

「公爵様がお留守にされるのは……。国境の定期確認もございますし、領地を長く空けることに」

「お前一人で行かせるつもりはない」

遮る声は簡潔だった。だがその簡潔さの中に、交渉の余地がなかった。

セシリアの胸に、安堵が広がった。

同時に、レオンハルトの横顔を見た。便箋を見つめる目に、微かな硬さがあった。

この人もまた、社交の場が得意ではない。

「私たちは二人とも、社交が得意ではありませんね」

口元が緩んだ。声には笑みが混じっていた。

レオンハルトの視線がセシリアに向いた。

「お前は俺よりましだ」

真顔だった。

セシリアは堪えきれず、笑った。飾りのない、自然な笑いだった。

執務室の空気が、ほんの少し柔らかくなった。

「父の書簡にも同じ内容が記されておりました。宮内省の求めは慣例に基づくものだと。それから——」

セシリアは一瞬、言葉を止めた。

「母上の形見を、王都に来た折に渡すと」

声が少しだけ柔らかくなっていた。自分でもわかった。

レオンハルトはセシリアの顔を見た。何も言わなかった。だがその目が、セシリアの声の温度を受け止めていた。

「婚礼前の王都行き、承知いたしました。日程の調整を始めます」

セシリアは帳面を開き、実務に戻ろうとした。

「セシリア」

名前を呼ばれた。敬称のない名前。二人きりの執務室で、この人が自分を呼ぶ声。

振り返った。

レオンハルトの視線が、セシリアの顔に留まっていた。目が、ほんの一瞬だけ下に動いた。セシリアの唇のあたりで止まり、すぐに窓の外に逸れた。

耳が赤かった。

「……いや。日程が決まったら伝えろ」

声が、わずかに硬かった。

セシリアの頬が熱くなった。何を言おうとしたのか。何を見ていたのか。わかっていた。わかっていて、聞かなかった。

「はい」

声は穏やかだった。

隣室で、マルガレーテの小さな咳払いが聞こえた。

セシリアは一礼し、執務室を辞した。

廊下に出て、帳面を胸に抱えた。左手の薬指に、銀の指輪が光っている。

王都での社交儀礼。主要貴族への挨拶回り。王家主催の祝宴。宮内省の担当者。

辺境で根を下ろした自信はある。作業場がある。帳面がある。領民との絆がある。

だが王都の社交界に「公爵夫人候補」として立つのは、初めてのことだった。

緊張はあった。

だが、不安より大きなものがあった。

あの人が一緒に行く。そう言った。お前一人で行かせるつもりはない、と。

セシリアは窓の外に目を向けた。盛夏の陽が大地を照らしている。金色に変わり始めた麦の穂が、風に揺れていた。

新しい試練が来る。

だが、隣にいる人がいる。帰る場所がある。

セシリアは帳面を開き、日程の素案を書き始めた。

ペン先が紙の上を走る。出発の日取り、移動の日数、王都での滞在期間。一つ一つを書き出しながら、頬に残る熱がまだ引いていないことに気づいた。

窓の外で、風が麦の穂先を揺らしていた。