軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話「共に歩む道」

「お元気で、父上」

セシリアの声が、門前の石畳に落ちた。

フリッツの馬車が、街道の向こうに小さくなっていく。ヴィクトルの馬車がその後に続いている。朝の光が二台の馬車を照らし、車輪が巻き上げる砂埃が金色に光った。

この門の前に、セシリアは立っていた。

辺境に初めて到着した日も、この門だった。馬車を降りた時、灰色の空と乾いた風と、何もない大地が広がっていた。あの日の自分は、ここで何ができるのかもわからなかった。

今、同じ門の前に立っている。

左手の薬指に、銀の指輪が光っていた。

フリッツは出発の前、セシリアと二人で食事を共にした。昨夜のことだった。

城館の食堂で、向かい合って座った。マルガレーテが給仕を手伝い、使用人たちが料理を運んだ。燻製の肉と、発酵食品を使った汁物。辺境の食卓だった。

フリッツは料理を一口含み、咀嚼し、飲み込んだ。

「悪くない」

低い声だった。父の、簡潔な評価だった。

セシリアは微笑んだ。

「領民の皆さんが育てた素材です。この土地の力ですよ」

フリッツは箸を置いた。娘の顔を見た。

「お前の力だ」

短かった。だがその一言が、帳面の数字よりも確かに、セシリアの胸に届いた。

食事の後、フリッツは窓の外を見た。辺境の夜空は暗かった。王都のように街灯はなく、星だけが光っていた。

「侯爵家の交易路を、辺境に接続する件は公爵殿と詰めた。書面は追って送る」

政治家の声だった。だがその声の端に、父の顔が覗いていた。

「父上」

「何だ」

「ありがとうございます。辺境に送ってくださったこと」

フリッツの手が、杯の上で止まった。

あの日、婚約破棄の後に辺境行きを決めたのはフリッツだった。娘を守るために、王都から遠ざけた。政治的な判断だった。だがその判断がなければ、今のセシリアはいなかった。

フリッツは杯を口に運び、一口含んだ。

「礼を言われることではない」

声は平坦だった。だが杯を置く手が、ほんの一瞬だけ震えていた。

セシリアはそれを見た。見て、何も言わなかった。この人も、レオンハルトと同じだった。言葉ではなく、行動の中に感情を閉じ込める人だった。

馬車が見えなくなった。

セシリアは門から振り返った。城館の石壁が、朝の光を受けて白く輝いている。

作業場に向かった。

いつもと同じ朝だった。帳面を開き、樽の温度を確認し、出荷の準備を点検する。領民たちが作業を始めている。仕込みの手順は定着していた。セシリアが確認するまでもなく、手が動いている。

「セシリア様、今朝の分、良い仕上がりですよ」

領民の男が声をかけた。燻製の最初の試食から手伝ってくれている人だった。

「ありがとうございます。午後の分も、同じ温度でお願いしますね」

日常だった。自分の日常。

帳面を閉じ、作業場を出た。空を見上げた。

辺境の夏の空は高かった。雲が薄く流れ、陽が大地を照らしている。畑の作物が育ち、村の屋根の向こうに緑が広がっている。

ここが私の場所だ。

その確信は、もう揺らがなかった。

夕刻、レオンハルトが城館の廊下でセシリアに声をかけた。

「来い」

一言だった。行き先も目的も言わない。いつもの簡潔さだった。

セシリアはレオンハルトの後に続いた。城館の廊下を歩き、玄関広間を抜け、門に向かった。

門前に出た。

夕暮れの光が、街道と荒野を橙色に染めていた。風が乾いた土の匂いを運んでいる。

レオンハルトは門の前に立ち、街道の先を見ていた。

セシリアが隣に並んだ。

「ここで初めてお前と会った」

レオンハルトの声は低かった。

セシリアの胸が、静かに震えた。

そうだった。この門の前で、馬車を降りたセシリアを迎えたのがレオンハルトだった。あの時のこの人は、冬の湖面のような目をしていた。何も映していないように見える、冷たい目。

今、同じ場所に立っている。同じ人の隣に。

だが全てが違っていた。

レオンハルトが口を開いた。

「俺は言葉が足りない。それは変わらないかもしれない」

声は簡潔だった。いつもの短い言葉だった。だがその言葉を選ぶ前の沈黙に、この人なりの誠実さがあった。

「だが、約束は守る。それだけは、ずっと変わらない」

セシリアの目が熱くなった。

この人は、いつもそうだった。言葉ではなく行動で示してきた。防寒具を自分で選び、山道で手を差し伸べ、帰還の瞬間に真っ先にこちらを見た。告白の時でさえ、「合理的ではない」と言いながら、体の奥にあるものを声にした。

不器用な人だった。

だがその不器用さの中に、誰よりも確かなものがあった。

「知っています」

セシリアの声は静かだった。震えてはいなかった。

そして、自分からレオンハルトの手を取った。

指先がレオンハルトの掌に触れた。硬い手だった。剣を握り、書類を捌き、約束を守り続けてきた手。

「私も約束します」

レオンハルトの指が、セシリアの手に力を込めた。

「この土地で、あなたの隣で、ずっと」

声は穏やかだった。飾りはなかった。

レオンハルトの指がセシリアの手を強く握り返した。

二つの手が重なっていた。始まりの場所で。

沈黙が落ちた。

風が吹いた。辺境の夏の風だった。麦の穂を揺らし、畑の緑を渡り、二人の間を吹き抜けていった。

セシリアはレオンハルトの横顔を見た。夕暮れの光が、この人の輪郭を照らしている。冬の湖面のような目は、今、穏やかな光を湛えていた。

「レオンハルト」

名前を呼んだ。

「何だ」

「ありがとうございます。私を選んでくれて」

レオンハルトの目が逸れた。視線が街道の先に向いた。

「……俺の方だ」

声が低かった。

セシリアが「え?」と聞き返した。

レオンハルトは正面を向いたまま答えた。

「お前が俺を選んでくれた。それが先だ」

セシリアの目が潤んだ。

この人は覚えている。あの日、王都の客間で「はい」と答えた瞬間を。命令ではないと言われて、自分の意思で選んだ瞬間を。

涙が一筋、頬を伝った。

レオンハルトがセシリアの方を向いた。

右手が上がった。庭園で涙を拭おうとした時と同じ動き。肩に触れかけて止まった時と同じ動き。

今回は、止まらなかった。

指先がセシリアの額に触れた。

そっと。静かに。

唇が額に寄せられた。

短く。

息を一つ吸う間よりも短い、静かな口づけだった。

セシリアの呼吸が止まった。額に残る温もりが、体の奥まで沁みていった。

「……もう一度」

声は小さかった。呟きだった。自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。

レオンハルトの耳が赤くなった。

「……何度でも」

声が掠れていた。

もう一度、額に唇が押し当てられた。

今度は、少しだけ長かった。

風が吹いた。辺境の夏の匂いが、二人を包んだ。乾いた土と、麦と、遠くの煙突から漂う燻製の香り。この土地の匂いだった。

セシリアは目を閉じた。

頬の涙が乾いていくのを感じた。額の温もりが消えなかった。

門の内側で、二つの影が並んでいた。

マルガレーテは廊下の窓から、門前に立つ二人の姿を見ていた。

風に髪をなびかせて並ぶ二つの影。片方は長身で、もう片方はその肩の高さに頭が届く。

夕暮れの光が、二人の上に金色の影を落としていた。

隣に、エルマーが立っていた。何の用があったのか、たまたま廊下を通りかかっただけかもしれない。腕を組み、窓の外を見ていた。

マルガレーテは小さく呟いた。

「実りましたね」

エルマーは腕を組んだまま、窓の外を見た。

「ああ」

短い一言だった。だがその声は、あの日の「春ですね」「ああ」とは違う温度を持っていた。季節が変わっていた。言葉も変わっていた。だが、静かな確信だけは同じだった。

王都。ランツァー伯爵邸の書斎。

ギルベルトの机の上に、一枚の公報が置かれていた。

辺境公爵レオンハルト・ヴェルクマイスターと、ヴァイスフェルト侯爵家長女セシリア・ヴァイスフェルトの婚約が正式に成立した旨を告げる、宮内省の公報だった。

ギルベルトは公報を読み終え、丁寧に折り畳んだ。

机の上に置いた。

窓の外を見た。夏の陽が、街路樹に降り注いでいた。葉が光を受けて輝いている。

かつてこの窓から見た景色と、何も変わっていなかった。変わったのは、自分だった。

ギルベルトは椅子から立ち上がった。

書斎の扉を開けた。

廊下に従者が立っていた。

「今日の予定は」

従者が一瞬驚いた顔をした。主人が自分から予定を聞くことは、これまでほとんどなかった。

「午後に商人との打ち合わせがございます」

「行こう」

短い一言だった。

ギルベルトは廊下を歩き出した。背筋が伸びていた。

過去を振り返る足取りではなかった。暖炉で燃やした手紙の灰は、もう残っていない。あの日呟いた「幸せに」は、届かない場所に向けた言葉だった。

だが、それでよかった。

自分の選択の結果を、引き受ける。その上で、前を向く。

それは赦しではなかった。救いでもなかった。

ただ、小さな一歩だった。

(完)