作品タイトル不明
1945年7月25日 口止め料
ゲーム内クレジット残額:26700ゼニ
7月25日の早朝。
浩平はまず、すずの家の周囲にある4軒の長屋(ゆみこの家を除く)の玄関先に、昨日ゆみこに送ったのと同じ『5kgの備蓄米(コシヒカリの古米)』を1袋ずつ転送した。総額8000ゼニ。
それぞれの米袋の上には、一枚の紙片を添えた。
『騒がすと米は二度と表れない』
朝起き抜けに玄関を開けた隣人たちは、突如置かれていた重い紙袋を見て息を呑んだ。
「な、なんじゃこりゃあ……白米!?」
大声を上げそうになった口を、慌てて自らの手で塞ぐ。添えられた不気味な忠告文と、出処の分からない極上の銀シャリ。彼らの顔に浮かんだのは、幽霊を見たような恐怖と、それ以上に抗いがたい強烈な強欲だった。
隣人たちは誰一人として騒ぐことなく、逃げるように米袋を家の中へ引きずり込み、床下や戸棚の奥へと隠した。これで、すず一家を嗅ぎ回る者は当分いなくなるはずだ。
一方ですずは、今朝もさちに塩結び8個とゆで卵4個を持たせていた。「さちの昼ご飯、そしてふみこちゃん一家の分よ」と。
画面越しに米櫃の減り具合を見た浩平は、苦笑した。
「消費ペースが早すぎる。まあ、育ち盛りがいるしな」
浩平はすずの家の土間へ、追加の5kgの米(2000ゼニ)を転送した。残高は16700ゼニ。
『米が半分くらいになったら、ちゃぶ台にメモを残すように』
そんな短い手紙を添えて。
◇◇◇
エンジニアの狂気と戦略
◇◇◇
その日の午後、浩平はPCの別ウィンドウを開き、現実世界の「1945年8月6日」に関する資料を読み漁っていた。
「すずたちや、その周りの十数人の腹を満たしたところで、二週間後には全員、あのピカドンで消し飛ぶんだ」
浩平は唇を噛んだ。歴史の歯車を狂わせるなら、根本から止めなければ意味がない。
テニアン島を飛び立つB-29『エノラ・ゲイ』の飛行ルート。高度。投下時刻。
「……いざとなったら、エノラ・ゲイのコクピットの中に、ショップで買った大量の段ボール箱を連続で転送してやる」
視界を完全に塞ぎ、操縦席を物理的に圧迫して墜落させる、あるいは投下ボタンを押せなくする。ゲームの『指定座標への物質転送』という仕様を悪用した、いかにもゲーマーらしいバグ技のような妨害工作だ。だが、相手が高度1万メートルを飛ぶ爆撃機となると、移動する座標に正確に物質を転送できるかは未知数だった。
「確実なのは、地上から避難させることだ。でも、俺の言葉だけじゃ誰も動かない。軍や警察を動かせる『権力者』を味方につける必要がある」
浩平はゲーム内のFPVカメラを操作し、広島市中心部へと視点を飛ばした。
照準を合わせたのは、市内でも規模の大きい陸軍病院だ。壁をすり抜けて病棟に侵入すると、そこは地獄絵図だった。
廊下まで溢れかえる負傷兵。消毒液と、化膿した傷の臭い。そして何より、隔離病棟から絶え間なく聞こえてくる、肺を絞り出すような湿った咳の音。
結核だ。当時は「国民病」とも「不治の病」とも呼ばれ、特効薬もなくただ死を待つしかなかった。医者たちもマスク越しに疲労困憊の顔をしており、患者に栄養のあるものを食べさせることしか治療法がない状態だった。
(……もし、ここに軍の偉い奴がいて、そいつの不治の病を俺が治してやったら? 現代の医学で奇跡を起こせば、俺の『8月6日』の予言を信じて、市民に避難命令を出すんじゃないか?)
浩平は、病棟の奥深く、歩哨が立っている特別室へとカメラを進めた。
◇◇◇
奇跡の一錠
◇◇◇
「鑑定、っと……」
浩平がUIを操作すると、ベッドで酸素マスクのようなものをあてがい、苦しげに息をする初老の男の頭上に、ステータスがポップアップした。
【黒田 重徳(52歳)/ 大日本帝国陸軍 少将】
【状態:肺結核(末期)/ 余命:約2週間】
痩せこけ、眼窩が深く窪んだその顔には、かつて前線で部隊を指揮したであろう鋭い威厳の残滓があった。しかし今は、ただ 喀血(かっけつ) を繰り返し、自身の死を静かに待つだけの抜け殻だった。
「ビンゴだ」
浩平は直ちにショップを開き、ニューキノロン系抗生物質のジェネリック薬を「1錠」だけカートに入れた。価格はわずか90ゼニ。結核菌を強力に殺菌する、現代の特効薬の一つだ。
メッセージ欄にテキストを打ち込み、黒田少将の胸の上、布団のシーツを指定して転送ボタンを押した。
ポン、と小さな軽い音がして、一錠の白い錠剤と、小さく折り畳まれた紙片が出現した。
「……ん?」
激しい咳の発作が収まった黒田は、自らの胸の上に突然現れた異物に気づき、震える手でそれを拾い上げた。
なんだこれは。紙片を開くと、見たこともないほど整った活字でこう書かれていた。
『私はこの世界の者ではない。
生きたければ、この薬を今すぐ飲みなさい。信じるも信じないのも自由だ』
黒田は目を剥いた。特別室は密室だ。誰かが入ってくれば絶対に気づく。それに、この真っ白で均一な丸い薬。大日本帝国のどこを探しても、同盟国のドイツにすら、このような精巧な形の薬は存在しない。
(……幻覚か? いや、触れる。死神の誘いか、それとも……)
黒田は、もう長くはない自身の命を悟っていた。どうせ死ぬなら、この得体の知れない毒薬を煽って死ぬのも一興か。
乾いた笑いを一つ漏らすと、黒田は枕元の水差しに手を伸ばし、その白い錠剤を、震える手で口の中へと放り込んだ。
◇◇◇
監視者からのメニュー表と禁断の肉の匂い
◇◇◇
7月25日の夜。
クーラーの効いた自室で、浩平は一人腕組みをしてPCモニターを睨んでいた。
「すず一家にとって、銀シャリと卵以上の『ごちそう』……」
ネットスーパーの画面には、煌びやかな食材が並んでいる。高級和牛、大トロ、メロン。だが、かまどしか調理設備がなく、燃料の薪すら乏しい当時の環境で、扱いが難しいものを送るのはナンセンスだ。
「火の通りが早く、圧倒的な脂質とカロリーがあり、現代では安いが当時は超高級品だったもの……」
浩平は豚バラ肉や牛豚の合挽き肉、現代の甘いトマトやバナナなどをリストアップしていった。しかし、ふと手が止まる。
「俺が毎日献立を決めるのもおこがましいか。向こうの体調や食べたいものもあるだろうし」
そこで浩平は、食材を押し付けるのではなく、すずたち自身に選ばせるシステムに切り替えることにした。140文字の制限内で、注文可能なリストと注意事項をまとめたテキストを作成する。
そして浩平は、ショップで『国産豚バラ肉スライス 500g(1000ゼニ)』を購入し、作成したメッセージと共に転送ボタンを押した。
すずの家の茶の間に、見慣れぬ白い発泡スチロールのトレイが出現した。透明なラップの下には、鮮やかなピンク色と純白の脂身が層になった、美しい肉の薄切りが幾重にも重なっている。
「お母ちゃん、これ……お肉じゃ! 豚のお肉!」
「しっ、声が大きいよ、さち!」
添えられていた紙片には、あの見慣れた整った文字でこう書かれていた。
『監視者より。毎日の献立はそちらで選んで。以下のリストから希望を紙に書いて夕方ちゃぶ台へ。【注文表】肉(豚・合挽)、魚(塩鮭・缶詰)、 野菜果物(トマト・バナナ) 、調味料全般、白米。』
すずは震える手でその紙片を畳み、胸の奥にしまい込んだ。神様か何かしらないが、この「監視者」は本当に自分たちを生かそうとしてくれている。
すずはすぐさまトレイを抱え、土間へと駆け込んだ。
かまどに貴重な薪をくべ、鍋を火にかける。油は引かない。豚バラ肉をそのまま放り込むと、ジューッと強烈な音を立てて、透き通った大量の豚の 脂(ラード) が溶け出してきた。
そこに少しの砂糖と醤油を垂らす。途端に、暴力的なまでに香ばしく、甘辛い獣肉の匂いが土間を満たした。
(……ああ、どうしよう。こんな匂いを出したら、また隣組の人が飛んでくる……!)
すずは血の気を引き、慌てて戸の隙間を塞ごうとした。しかし、外からは何の反応もない。昨日なら匂いを嗅ぎつけてすぐに怒鳴り込んできただろう隣人たちは、まるで最初から誰も住んでいないかのように不気味なほど静まり返っていた。
すずは知る由もなかった。浩平がすでに、全員の口を「極上の銀シャリ」で物理的に塞いでいることを。
◇◇◇
幻のケーキ
◇◇◇
「いただきます……っ」
ちゃぶ台に乗ったのは、豚バラ肉の甘辛炒めと、その肉汁を吸わせた大根の煮物、そして山盛りの白米。
さちが豚肉を口に入れた瞬間、熱い脂が舌の上でとろけ、醤油の焦げた香ばしさが鼻を抜けた。
「……美味しい。お肉、噛まなくても溶けちゃう……!」
数年ぶりに味わう「獣肉の純粋な脂」は、慢性的な栄養失調の身体に麻薬のように染み渡った。
二人は無言で、喉を鳴らしながら豚肉と白米を胃袋へと掻き込んだ。
食後、すずがお茶を淹れようと立ち上がった時、ちゃぶ台の上に再び「ポン」と小さな箱が出現した。
透明なプラスチックの容器に入っていたのは、雪のように白いクリームと、宝石のように真っ赤な苺が乗った、三角形の不思議なお菓子だった。
浩平がショップのタイムセールで見つけた『イチゴのショートケーキ(2個入り・300ゼニ)』だ。そこには短いメモが添えられていた。
『包装材は燃やすと異臭がするので安易に捨てず、細かく切って庭の土深くに埋めてください。 監視者より』
「お母ちゃん、これ……!」
さちは目を丸くして、透明な容器越しにその美しい物体を見つめた。
「間違いない……戦前に、新聞の写真で見たことがある。東京の、銀座の喫茶店で出とるっていう『けーき』じゃ……!」
フォークなどという気の利いたものはこの家にはない。二人は割り箸を手に取り、恐る恐るその白いクリームをつまんで口に運んだ。
フワフワのスポンジと、口の中でスッと消える濃厚な生クリームの甘さ。そして、現代の品種改良の結晶である、甘酸っぱく瑞々しい苺。
暗い裸電球の下、箸でショートケーキを摘むという奇妙な光景。しかし二人の目からは、現実の過酷さを一瞬だけ忘れさせる、甘く幸せな涙が止めどなく溢れていた。
◇◇◇
もう一つの食卓、よしこの疑念
◇◇◇
同じ頃、ふみこの家の薄暗い長屋でも、ひとつの奇跡が起きていた。
「ふみこ……これ、本当にすずさんから貰ったんか?」
母親のよしこは、ちゃぶ台に置かれた風呂敷包みの中身を見て、絶句していた。
夏場の夜だというのに、全く痛んでいない、ツヤツヤと光る塩結びが六個と、殻の真っ白なゆで卵が三個。
弟はすでに理性を失い、両手に塩結びを持って無我夢中で頬張っている。「うめえ! お母ちゃん、すっごく甘いよ!」
「はい。すずのおばちゃんが、誰にも言わないなら時々お裾分けしてくれるって……」
ふみこは、昨日の夕方に食べたあの強烈に美味しい目玉焼きとサバ缶のことは伏せ、ただそう答えた。
よしこは震える手で塩結びを一つ手に取り、かじった。
(……なんだこれは。配給の米とは別物だ。塩気だけで、どうしてこんなに旨いんだ)
美味しい。間違いなく、命を繋ぐ食べ物だ。しかし、よしこの心には、すずに対する底知れぬ恐怖と疑念が渦巻いていた。
女手一つで娘を抱えた未亡人が、どうやってこんな上等な米や卵を大量に手に入れているのか。軍の横流し品か、それとももっと恐ろしい闇の組織と繋がっているのか。
「……ふみこ。ありがたくいただきなさい。でもな」
よしこは、卵の殻を剥きながら、娘に鋭い視線を向けた。
「すずさんちの事情には、決して首を突っ込んじゃいけんよ。あの家は……何か、恐ろしいものを隠しとる。巻き込まれたら、うちまで破滅するかもしれないからね」
命を繋ぐ恩人の家は、同時に、いつ爆発するとも知れない危険な火薬庫のように、よしこの目には映っていた。