軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

1945年7月24日 監視者と、それぞれの朝

ゲーム内クレジット残額:20000ゼニ

1945年7月24日、午前7時。

夏のうだるような暑さが、すでにトタン屋根を焼き始めていた。出がけの土間で、すずは娘のさちの手に、布で包んだずっしりと思い塊を押し付けた。

「さち、これ……お昼に、誰にも見つからんようにこっそり食べなさい」

「お母ちゃん、これ……」

「おにぎり二個と、ゆで卵じゃ。ええね、絶対に人前で開けちゃいけんよ」

さちはこくりと頷き、モンペの奥深くにそれを隠して、足早に軍需工場へと向かっていった。娘の背中を見送りながら、すずは深い溜息をついた。

一方、現代の自室にいる浩平は、コーヒーを啜りながらマウスを操作し、FPV(一人称)視点でご近所の偵察を開始していた。

幽霊のように壁をすり抜け、昨日の主婦・ゆみこの家へ侵入する。薄暗い茶の間では、ゆみこの家族が、サツマイモの 蔓(つる) を細かく刻んで煮ただけの、水っぽい汁を啜っていた。

『しかし、すずの奴、絶対まだ隠しとるぞ』

戦争で右腕を失ったゆみこの夫が、忌々しそうに片手で椀を置きながら舌打ちをした。

『あんな上等な銀シャリ、素人が手に入れられるもんじゃない。どこぞの将校の囲いもんになっとるんか、それともヤミの元締めと繋がっとるんか……』

『お父ちゃん、僕、またあのご飯食べたい! 卵も!』

昨日の悪ガキ――ゆみこの息子が茶碗を叩いて騒ぐ。五歳の妹は空腹でぐったりとしていた。ゆみこは夫をたしなめつつも、その目はすずの家がある方向をじっと見据え、暗い欲望を燻らせていた。

浩平はモニター越しに眉をひそめた。「……最悪の空気だな」

◇◇◇

工場の片隅で

◇◇◇

正午。軍需工場の裏手、資材が積まれた薄暗い物陰にしゃがみこみ、さちは震える手で布の包みを開いた。

真っ白なおにぎりが二つ。冷めきってはいるが、ツヤツヤと輝いている。さちは周囲を素早く見渡し、息を潜めておにぎりにかじりついた。

「……っ」

冷めているのに、米が甘い。一粒一粒が立っていて、噛むほどに旨味が口いっぱいに広がる。現代の技術で炊き上げられたコシヒカリは、冷めてもなお圧倒的な美味しさを保っていた。匂いこそ立たないものの、その味の暴力に、さちは涙腺が緩むのを止められなかった。

その時だった。

「さちちゃん? そこで何しとるん?」

ザク、と砂利を踏む音がして、班長の女性が顔を覗き込んできた。

さちは心臓が止まるかと思い、咄嗟におにぎりを背後に隠し、ゆで卵を口の中に丸ごと押し込んだ。

「んんっ、な、なんでもないです! 落ちた部品を探してて……っ」

口をもごもごとさせながら必死に取り繕う。班長は怪訝そうな顔をしたが、「休憩終わるよ」とだけ言い残して去っていった。さちは冷や汗を拭い、残ったおにぎりを急いで胃に流し込んだ。

◇◇◇

卵と悪ガキと口止め料

◇◇◇

同じ頃、すずの家では深刻な問題が発生していた。

「卵が……もうダメになりそうじゃ」

昨日もらった卵の残りは23個。しかし炎天下の夏、冷蔵庫もないこの家で生卵が日持ちするはずがない。すずは傷む前にと、残りの卵を半分ほど使い、貴重な砂糖と塩で味を調えた卵のお 粥(かゆ) を煮ていた。

甘く優しい匂いが土間に満ちた、その時。

「おばちゃん、ええ匂いがする!」

戸の隙間から、昨日の悪ガキが顔を出した。犬のように鼻をひくつかせ、竈の上の鍋を凝視している。

すずは血の気が引いた。ここで追い返して、また大声で騒がれでもしたら終わりだ。

「……しっ! 大きな声出さんで。少しだけじゃけえね」

すずは泣く泣く、お茶碗一杯分の卵粥をよそって手渡した。悪ガキは犬のようにそれに食らいつき、満足げに走って帰っていった。すずは崩れ落ちるように土間に座り込んだ。

午後2時。農作業の休憩中だと言って、ゆみこがすずの家を訪ねてきた。

「すずさん、昨日はえらいごちそうじゃったねえ」

「ゆみこさん……」

「うちの人もね、言うとったんよ。あんな上等なもん、親戚からちょっともらったくらいじゃ説明がつかんって。……本当のところ、どうなん? 私ら、親友じゃろ? 困っとるんなら、助けになるけえ」

親友という言葉を盾にしながら、ゆみこの目は土間の奥や床板の隙間を探るように動いている。食糧不足で追い詰められた人間の、あからさまな探り合いだった。

その一部始終をモニターで見ていた浩平は、舌打ちをした。

「仕方ないな……このままじゃすずたちが潰される」

浩平は【ショップ】を開き、『5kgの備蓄米(コシヒカリの古米)』を選択した。値段は2000ゼニ。そして、メッセージ欄に素早くテキストを打ち込み、【指定座標へ転送】のボタンを押した。

すずを問い詰めようと一歩踏み出したゆみこの目の前に、突如、空間が歪んで「ドスッ」と重い音が鳴った。

「……ひぃっ!?」

ゆみこが腰を抜かして尻餅をついた。何もなかったはずの畳の上に、見たこともない頑丈な紙袋に入った米5キロが、まるで最初からそこにあったかのように鎮座していたのだ。

袋の上には、一枚の紙切れが乗っている。ゆみこは震える手でそれを取った。

『ゆみこさんへ:すずとのつながりの誼だ!これ以上探ると何もなくなるぞ!ばらすと今度あなたも危ない』

「こ、これ……」

ゆみこは幽霊でも見たかのように周囲を見回し、ガチガチと歯を鳴らした。この世の理屈を超えた現象と、自分を名指しした脅迫めいた手紙。しかし、目の前には喉から手が出るほど欲しい5キロの米がある。

「……す、すずさん。私、今日は帰るけえ……っ」

ゆみこは米袋を抱え込むと、逃げるように家を飛び出していった。

◇◇◇

神様との筆談

◇◇◇

嵐が去った家の中で、すずは呆然と米袋が消えた空間を見つめていた。

(誰か、おるんじゃ。どこかから、私らを見とる……)

すずは意を決して立ち上がると、古い帳面と鉛筆を引っ張り出し、大きく文字を書いて虚空に向かって掲げた。

『どなたですか?』

モニターの前の浩平は、思わず身を乗り出した。「気づいたか……!」

返事をしたいが、メッセージを送るには何かアイテムを買わなければならない。浩平はショップで一番安い『薄力粉1kg(200ゼニ)』を購入し、メッセージを添えて転送した。

すずの目の前に、白い粉の入った袋がポンと現れる。紙片にはこう書かれていた。

『驚かせてすまない。私はこの世界の住人ではない。君たちを助けたいと思っている監視者だ』

すずは震える手で、再び鉛筆を走らせた。

『神様ですか? どうして私らにこんなに良くしてくださるんですか』

浩平は『サバの水煮缶3個セット(600ゼニ)』を買い、転送する。

『神ではない。ただの通りすがりの男だ。君と娘が不憫だったから、少し手助けしただけだ』

すずは涙ぐみながら書いた。

『ありがとうございます。でも、これ以上は申し訳のうて……お礼もできません』

浩平のタイピングする手が止まった。画面右上のゲーム内時計は、刻一刻と「その日」へ向けてカウントダウンを進めている。浩平は迷った末に、『板チョコレート5枚セット(500ゼニ)』をカートに入れ、140文字ギリギリまでメッセージを打ち込んだ。

『お礼はいい。それより、重要なことを伝える。信じられないだろうが聞いてくれ。

二週間後の8月6日の朝、広島に大きな災難が起きる。街が一つ消滅するほどの、恐ろしい爆弾が落ちるんだ。

今のうちに荷物をまとめて、できるだけ遠くへ逃げてくれ。さちちゃんを連れて。生き延びてくれ』

土間に現れた甘いチョコレートと、そこに添えられた残酷な予言。

すずはその紙切れを両手で握りしめ、顔面を蒼白にして、声にならない悲鳴を飲み込んだ

◇◇◇

呪われた晩餐

◇◇◇

その夜、ゆみこの家の土間には、昨日のすずの家と同じように、暴力的なまでに甘く豊かな炊飯の匂いが立ち込めていた。

現代の「古米」とはいえ、徹底した温度管理のもとで保管されていたコシヒカリである。1945年の配給米とは精米技術も水分量も根本的に異なり、炊き上がった米は雪のように白く、眩しいほどに光り輝いていた。

「……ゆみこ、お前、この米どうしたんじゃ」

ちゃぶ台の前に座る夫は、山盛りにされた白米を見つめながら、片腕の拳を震わせていた。怒りではない。あまりの現実離れした光景に、恐怖すら抱いているのだ。

「拾ったんよ……! 道端に、落ちとったんじゃ! ほんまよ!」

ゆみこは声を上擦らせながら、必死に嘘を重ねた。

あの、空間が歪んで音もなく米袋が出現した光景。そして、自分を名指しした脅迫状。

『これ以上探ると何もなくなるぞ!ばらすと今度あなたも危ない』

あの紙切れは、絶対に誰にも見せられない。もし夫に話せば、憲兵に駆け込むか、あるいはあの米袋の出処を探ろうとすずの家に乗り込んでしまうかもしれない。相手が人間ならまだいい。だが、あれは人間業ではなかった。逆らえば、家族全員が消されるかもしれないという得体の知れない確信が、ゆみこの心臓を鷲掴みにしていた。

「お母ちゃん、美味しい! 甘いよぉ!」

「……っ、がつがつ食うな! よく噛んで食え!」

子供たちは理性を飛ばしたように茶碗に顔を突っ込み、夢中で白米を貪っている。栄養失調でぐったりしていた五歳の娘の顔にも、嘘のように血の気が戻っていた。

夫もまた、疑念を口にしながらも箸を止めることができず、あっという間に茶碗を空にした。

「……こんな美味いもん、戦前でも食ったことないぞ」

ポツリと漏らした夫の言葉に、ゆみこは愛想笑いを浮かべることもできず、ただ黙って自分の分の米を咀嚼した。

甘い。美味い。涙が出るほど美味しい。

けれど、同時に背筋が凍るほど恐ろしい。

(すずさん……あんた、一体どんな化け物に取り憑かれとるん……)

薄暗い裸電球の下、極上の銀シャリを頬張りながら、ゆみこは得体の知れない「神様」の視線に怯え、ガタガタと震え続けていた。

◇◇◇

招かれざる、愛しき客

◇◇◇

1945年7月24日、午後5時。

夕刻、工場のサイレンが遠くで鳴り終わる頃、さちは同級生のふみこを連れて帰ってきた。

土間に立つふみこの姿を見て、すずは思わず眉をひそめた。ふみこは元々細身だったが、最近の配給不足でさらに痩せこけ、モンペから覗く足首は枯れ枝のように細い。ふらふらと 眩暈(めまい) を堪えるように立っている彼女を見て、すずはすべてを察した。

(この子、もう限界なんじゃ……)

本来なら、他人の口を養う余裕などこの時代のどこにもない。しかし今のすずの家には、あの「監視者」から与えられた圧倒的な豊かさがあった。

「……上がって休んでいきんさい。今、ご飯にするけえ」

すずは土間の竈に火を入れ、惜しげもなく白米を炊いた。そして、日持ちのしない貴重な卵を二つ割り、キャノーラ油で一人一個の目玉焼きを作る。さらに、戸棚の奥に隠しておいた銀色の筒――サバの水煮缶を取り出した。プルタブという未知の仕掛けを引いて開け、中身を皿に移す。現代の脂が乗りきった肉厚のサバは、骨までホロホロに柔らかく煮込まれていた。

ちゃぶ台に並べられた、真っ白なご飯、醤油を少しだけ垂らした半熟の目玉焼き、そして山盛りのサバの水煮。

「いただ、きます……っ」

ふみこは一口食べた瞬間、ポロポロと大粒の涙をこぼした。とろけるようなサバの脂と、目玉焼きの濃厚な黄身が、醤油とともに白米に絡みつく。それは、栄養失調の少女の身体中の細胞が歓喜の悲鳴を上げるような、暴力的なまでの美味しさだった。三人は無言で、ただひたすらに箸を動かした。

食後、すずはふみこに向き直り、厳しい顔で口を開いた。

「ふみこちゃん。今日ここで食べたこと、絶対に、誰にも言うてはいけんよ。学校の先生にも、近所の人にもじゃ」

「お母ちゃん! ふみこはそんな、言いふらすような子じゃないよ!」

さちが庇うように声を上げたが、すずは首を振った。

「ええんよ、さち。命がかかっとるんじゃから」

その重い言葉に、ふみこは畳の上に深く、深く頭をすりつけた。

「おばちゃん、絶対に言いません。絶対に……」

顔を上げたふみこの目は、涙で濡れながらも、ある種の決死の覚悟を宿していた。

「でも、お願いがあります。……うちにいる弟にも、こんな美味しいものを食べさせてやりたいんです。あの子、もう何日も、薄いすいとんしか口にしてなくて……っ」

畳を濡らして懇願するふみこの姿に、すずは胸が締め付けられる思いだった。親友を思うさちの痛切な視線も突き刺さる。すずは小さく息を吐き、「……分かった。少し待っとりなさい」とだけ告げた。

◇◇◇

未知なる黒い 甘塊(チョコレート)

◇◇◇

ふみこが涙を拭うために少し席を外し、裏の井戸へ向かった隙を突き、すずはさちを台所の隅に呼んだ。

そして、モンペのポケットから「それ」を取り出し、さちの手に握らせた。

「お母ちゃん、これ……?」

「あの方言で『チョコレート』って書いてあった。お米をくれた人が、一緒に送ってくれたんよ」

銀色の紙に包まれた、板状の硬い何か。

「さち。ええね、私たちは今、薄氷の上を歩いとるようなもんじゃ。ふみこちゃんは信じたいけど、人間の口には戸は立てられん。もし少しでも怪しいと思ったら、この先はもう家に入れたらいけんよ」

すずは、浩平から告げられた『8月6日の災難』のことはまだ伏せながらも、これまでにない強い口調で娘に釘を刺した。さちは真剣な顔でこくりと頷き、銀色の包みを胸に抱いた。

さちの小さな部屋。

ちゃぶ台を挟んで向かい合ったさちとふみこは、すずが淹れてくれた冷たい麦茶の入った湯呑みを傍らに置き、銀色の紙包みを不思議そうに見つめていた。

「さちちゃん、これ、何……?」

「チョコレート、っていうんじゃって」

「ちょこれーと……? お薬?」

ペリペリと銀紙を剥がすと、濃い茶色をした、幾何学的な溝が彫られた板が現れた。カカオとミルク、そして大量の砂糖が混ざり合った、頭がクラクラするほど甘い匂いが小さな部屋に充満する。

さちはパキッとそれを二つに割り、ひとかけらをふみこに渡し、自分も口に含んだ。

「……っ!?」

二人は同時に目を丸くした。

硬かったはずの茶色い欠片が、口の中の熱で滑らかに溶け出していく。これまで舐めたことのあるサツマイモや水飴の甘さとは全く違う。脳の芯を直接痺れさせるような、純度100%の「甘味」の暴力。カカオバターの芳醇な香りが鼻に抜け、二人はあまりの衝撃に言葉を失った。

「あまい……なにこれ、とろける……」

「美味しい……っ、こんなの、食べたことない……」

麦茶で喉を潤しながら、二人は少しずつ、少しずつ、その未知の甘塊を溶かして味わった。窓の外の過酷な現実を忘れさせる、少女たちだけの、甘く秘密めいた時間だった。

◇◇◇

月夜の誓いと帰路

◇◇◇

夜8時。灯火管制で街が深い闇に沈む頃、ふみこは帰路につくことになった。

玄関先で、すずはふみこにずっしりと重い風呂敷包みを渡した。中には、塩結びが6個と、ゆで卵が3個入っている。ふみこと、母親と、弟。ちょうど3人家族の一食分だ。

「ふみこちゃん。お母さんに伝えてちょうだい」

すずは、ふみこの目を真っ直ぐに見据えて言った。

「誰にも言わず、秘密を守ってくれるなら……時々、こうしてお裾分けします、って。でも、もし噂が立ったら、もう二度と渡せないからね」

それは、優しさという名の「共犯関係」の持ち掛けだった。相手の胃袋を掴み、沈黙を買い取る。すずもまた、この狂った箱庭の中で生き延びるために必死だった。

「……はい! おばちゃん、本当に、本当にありがとうございます!」

ふみこは風呂敷包みを胸に強く抱きしめ、深く頭を下げた。

雲間から覗く夏の月明かりだけが頼りの夜道。

ふみこは、胸に抱いた温かいおにぎりの感触と、口の端に微かに残るチョコレートの甘い香りを反芻しながら、弟の待つ長屋へ向かって急ぎ足で駆けていった。その背中を、見えない場所から浩平が静かに見守っていた

◇◇◇

命の値段

◇◇◇

7月24日、午後10時。

すずたちが寝静まった頃、PCモニターの前の浩平は、明日のために日課のログインボーナスを受け取り、さらに上限の10000円を課金した。これでゲーム内のクレジットは26700ゼニ(円)となった。

浩平は、ショップの検索窓に次々と単語を打ち込んでいた。

「食糧の次は、絶対に薬がいる。当時の死因のトップは感染症や結核だ」

『ペニシリン』『ニューキノロン』『NSAIDs』『ステロイド』。

検索結果を見て、浩平は安堵の息を漏らした。ネットスーパーと連動しているのか、あるいは現代の薬局のデータベースと繋がっているのか、検索結果には 後発医薬品(ジェネリック) がずらりと並んだ。

しかも、安い。ニューキノロン系の強力な合成抗菌薬であっても、ジェネリックなら1錠数十円単位で買える。当時の富裕層ですら手に入らない「魔法の薬」が、現代のうまい棒数本分の値段で買えてしまうのだ。

「これなら、いざという時の怪我や病気はどうにでもなるな」

浩平はひとまず薬の購入は見送り、翌日に備えてシステムを落とした。