軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第16話 遠い背中

「大使、今日もヴィオレッタ様のところに行かないんですか?」

カイは時々、致命的に核心を突く。

「行かない」

「でも、茶葉の在庫が」

「カイ。業務の話をしろ」

大使公邸の執務室は、外交局の共同執務室より広い。調度品も上等だ。暖炉も大きい。椅子の座り心地もいい。何一つ不満はない。不満はないのに、広さが余る。向かいに、机がない。

俺はヴェルデ公国大使として、正しい判断をした。

オットー・ハーゲンは老練な政治家だ。「大使と参事官の私的関係」を攻撃材料にされたら、法案の議論が「外交の必要性」ではなく「スキャンダル」に変わる。それは最悪の展開だ。だから距離を取った。公的に。正式に。

正しい判断だ。

正しい判断のはずなのに、三日間で茶を九杯淹れて、全部冷ました。

向かいの机がないことに、まだ慣れない。書類を確認してもらいたいとき、顔を上げる癖が残っている。上げた先に、あの人はいない。条約の文言で迷ったとき、「ヴィオレッタ」と呼びかけそうになって、唇を閉じる。一日に何度。数えるのはやめた。

カイが朝、俺の分の茶を淹れてくれる。悪くない味だ。だが、違う。ヴィオレッタは山岳茶に蜂蜜を少しだけ入れる。「ほんの少し」の量が絶妙で、苦みが残ったまま甘みが追いかけてくる。カイの淹れ方はただ甘い。まあ、カイに文句を言うのは酷だが。

「大使。ラドニアからの書簡です」

カイが封書を持ってきた。グレイル大使の紋章。開封する。ラドニア語の精緻な筆記体。

内容は、カルディアの動向に関する情報共有だった。だが末尾に、グレイルの個人的な追伸があった。

「ヴィオレッタ殿に宜しく伝えてほしい。彼女の書簡がこのところ届いていないが、お元気か」

ヴィオレッタからの書簡が止まっている。当然だ。機密扱いの外交書簡にアクセスできなければ、各国大使への実務連絡もできない。

俺が距離を取った結果、ヴィオレッタは各国大使との直接のつながりまで断たれかけている。

(……これが最善手だったのか)

書簡を机に置いた。グレイルの追伸の字が、老齢にしてはしっかりしている。あの老大使は、六カ国外交の生き字引だ。ヴィオレッタがいなくなった宴を「沈黙の食事会」と呼んだ人。

三年前のことを思い出す。

匿名の書簡が公国に届いた冬の日。封を開けた瞬間、背筋が伸びた。六カ国すべての外交力学を精密に分析した上で、公国が取るべき戦略が書かれていた。無駄がなかった。一語も余計な言葉がなかった。

そして筆跡。外交宴で受け取った礼状と同じ手だった。

ヴィオレッタ。侯爵夫人として、匿名で、他国を助けた女。

あの書簡がなければ、公国は翌春まで持たなかった。だから俺は。

いや。嘘だ。感謝だけなら、公式に礼を言えばよかった。席順を操作する必要はなかった。茶葉の好みを覚える必要もなかった。

あの筆跡を見た瞬間、俺は。

「大使」

カイの声で我に返った。

「エルダさんという方から、ヴィオレッタ様宛の手紙が届いています。外交局宛で」

エルダ。侯爵家の元侍女頭の名前だ。ヴィオレッタの着任資料で確認している。

「ヴィオレッタ殿に転送しろ」

「はい。あと、もう一つ。手紙の中に、ヴァルトシュタイン侯爵の近況が書かれているそうで。カイが読んだわけじゃないですよ。エルダさんが封筒の表に『侯爵様のことも書きました』とメモを」

「……お前は本当に余計な情報を拾ってくるな」

「褒められてますか?」

「褒めてない」

カイが手紙を持って出ていった。

ルシアンの近況。あの男の名前を聞くと、腹の奥が少しだけ熱くなる。怒りではない。怒りなら制御できる。もっと正体のわからない、暗い熱。

嫉妬、と呼ぶのは正確ではない。ヴィオレッタが侯爵を愛していたとは思わない。だが五年間一緒にいた事実は消えない。五年間。俺が隣の席を確保するのに費やした三年より、長い。

あの男は五年間、隣にいた女の言語を一つも学ばなかった。六カ国語を操る妻の隣にいて、共通語しか使わなかった。

俺なら。

俺なら、どうしただろう。少なくとも、あの人が好きな茶葉は把握した。各国の暦法を嬉しそうに語る横顔を知っている。褒めると窓の結露を観察し始めることも。

だが「守る」と言って、距離を取った。あの男の「任せる」と、何が違う?

夜。大使公邸の書斎で、三年前の書簡を引き出しから出した。

茶色く変色した封筒。何度も開封した跡。もう暗記している。文面のすべてを。

だが、読み返す。読み返すたびに、新しい発見がある。三年前は気づかなかった言い回しの機微。この一語を選んだのは、エスタードの法務官の思考パターンを熟知しているからだ。あの一節は、フェリシアの女王の過去の声明を踏まえている。

六カ国の知識と感性が一人の頭に入っている。化け物だ。褒めている。

「……あの人は」

声に出してしまった。書斎には誰もいない。暖炉の火だけが聞いている。

あの人は、俺なんかに守られる人ではない。

そうだ。わかっていた。わかっていたのに「守る」と言った。言ってしまった。

あの日のヴィオレッタの目を思い出す。「守ってほしいなんて、頼んでない」。あの声は、怒りだけではなかった。失望が混ざっていた。「あなたも同じなの」という。

同じではない。同じにはしたくない。だが。

距離を取ったのは間違いだったのか。

山の稜線を歩くのに似ている。左に踏み外せば崖、右に踏み外しても崖。正しいルートは稜線の上、一本の細い道。だが風が強くて、足元が見えない。

間違いかどうかはわからない。だが、正しいとも言い切れなくなっている。

正しい判断をしたはずなのに、向かいの机がない執務室で、九杯の茶を冷ます男。

「……情けないな」

窓の外に、星が見えた。ヴェルデの冬の星は近い。同じ星を、外交局の執務室からも見えるだろう。あの窓から。ヴィオレッタがいる部屋の窓から。

明日、カイに聞こう。ヴィオレッタの茶葉の在庫を。

公務だ。公務として確認する。参事官の福利厚生の一環だ。業務用の補給物資の確認だ。

嘘だ。嘘だが、今はこの嘘がないと動けない。情けない男だ。三カ国と同時に渡り合える男が、好きな女に素直になれない。

書簡を引き出しに戻した。三年分の想いを一通の紙に閉じ込めて、引き出しを閉める。

いつか、この引き出しを開ける日が来る。その時は、嘘の口実ではなく、本当の言葉で。

隣の席を確保するのに三年かかった。

手放すつもりは、ない。