軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第15話 選択

朝の茶器がひとつしかない。

棚に置いたレオンの分は、そのまま動いていない。茶渋のついた磁器が、朝の光を受けて白く光っている。三日目だ。三日間、向かいの机は空のまま。

業務連絡は書面で届く。レオンの筆跡。インクの色。紙の質。内容は正確で簡潔で、一語の無駄もない。完璧な業務文書。そこに私情は一文字もなく、だからこそ一文字一文字が冷たい。

カルディア対応の書簡は、非機密扱いのものだけ私の机に回ってくる。肝心の軍事情報や各国の機密書簡には触れられない。片手を縛られて交渉しろと言われているのと同じだった。

三日目の午後。廊下でカイとすれ違った。

「ヴィオレッタ様。あの、大使が」

「カイ殿。業務連絡なら書面でお願いするわ」

自分の声が冷たいのがわかった。カイに当たっても仕方がないのに。この青年は何も悪くない。空気は読めないが、心は読める人だ。

「いえ、業務ではなくて。大使が、その、最近ちょっと元気がなくて。昨日も夜遅くまで執務室にいて、茶を三杯も淹れて、でも全部冷ましてて」

三杯。全部冷めた茶。あの人が茶を冷ますのは、考え事をしている時だ。二ヶ月で知った癖。

「それで、あの、ヴィオレッタ様の好きな山岳茶の在庫を確認してまして」

在庫の確認。私がいない執務室の、私の茶葉の在庫を。

「カイ殿。大使殿のことは、大使殿が決めたことよ」

「でも」

「ありがとう。気遣いは嬉しいわ」

そう言って、歩き出した。背中にカイの視線を感じたが、振り返らなかった。廊下の石壁が冷たい。左手の指先が少し震えていたのは、寒さのせいだ。寒さのせいだということにした。

四日目の夜。眠れなくて、執務室で仕事をしていた。

非機密の書類を整理しながら、考えていた。本会議まであと十日。オットーの法案が通れば、私はヴェルデで外交官として働けなくなる。通らなくても、「外国人への不信」という種は議会に蒔かれた。

選択肢は三つ。

……自分の人生の岐路を、条約の別紙みたいに三項目で整理している。職業病だ。

一つ目。辞任する。侯爵邸を去ったときのように、自分から身を引く。尊厳は守れる。だが、それは。

二つ目。レオンに頼る。大使の権限で法案を阻止してもらう。だが、それではオットーの「大使と参事官の関係が判断を歪める」という主張を裏付けてしまう。

三つ目。自分で戦う。議会に直接出て、自分の存在価値を証明する。

一つ目は逃げだ。侯爵邸を出たのは正しかった。あれは「疲れたから」で、逃げではなかった。でも今、同じことをしたら。今度は逃げだ。あの時は戦う理由がなかった。今はある。この机。この仕事。この窓から見える山。ここで築いたもの全部。

二つ目は依存だ。レオンの庇護の下に入ることは「守ってほしいなんて頼んでない」と言った自分を嘘にする。何より、レオン自身がそれを望んでいない。あの人が距離を取ったのは、私を無力な存在にしたかったからではない。わかっている。わかっているから余計に頼れない。わかっているから余計に腹が立つ。わかっている自分にも腹が立つ。もうわかっているはいい。

三つ目は。怖い。

議会で演説する。六カ国語で。ヴェルデの議員たちの前で「私がこの国に何をもたらしたか」を、自分の口で言う。

五年間、夫の名前で仕事をしてきた。ヴィオレッタ・ヴァルトシュタインとして。自分の名前ではなく。自分の功績を自分で語ったことがなかった。いつも、書簡の署名は夫の名前だった。

自分の名前で。自分の口で。自分の功績を。

怖い。だが。

鞄の底に手を入れた。押し花を探して。

指先に、乾いた花弁が触れた。ヴェルデリア。白い高山花。雪の中でも根を枯らさない花。母がヴェルデから持ち帰った花。

押し花を机に置いた。乾いているのに、まだ微かに匂いがする。山の空気。冷たくて、澄んでいて、鋭い。

父の声が聞こえた。遠い記憶の中の声。

「お前の力は、お前のために使いなさい」

お前のために。

五年間ルシアンのために使った力。二ヶ月間レオンと一緒に使った力。

今度は、自分のために。

自分がここにいる権利を、自分で証明するために。

立ち上がった。

机の上に、白紙の便箋を広げた。ペンを取った。インク壺の蓋が少し固くて、力を入れて開けた。黒いインクの匂いが鼻に届く。鉄と樹脂の匂い。この匂いで、いつも頭が切り替わる。仕事の匂いだ。

演説の草稿を書き始めた。

まず、骨子。何を言うか。六カ国語で。各国との実績を、具体的に。数字で。ラドニアとの関税改定で侯爵領の収入が何パーセント上がったか。フェリシアとの通商条約で穀物価格が何割下がったか。エスタードの法律文体で書いた除外規定が、ヴェルデの交渉をどれだけ有利にしたか。

数字は嘘をつかない。感情では動かない議員も、数字には反応する。

六カ国語のそれぞれで、冒頭の一文を考えた。ラドニア語は敬意を込めた古典体で。グレイル大使の耳に心地よい格調を。フェリシア語は格式と温度を両立させて。ロゼ大使が頷いてくれる品格を。エスタード語は法律文体の正確さで。カルロ大使を法の論理で納得させる言い回しを。カルディア語は。使わないかもしれない。だが、使えることを示す価値はある。

ヴェルデ語だけ、まだ書けなかった。

ヴェルデ語で何を言うべきか。

「私はこの国を愛しています」では嘘になる。まだ三ヶ月だ。愛しているかどうかはわからない。

「この国のために働いています」は事実だが弱い。

「ここが私の居場所です」。近い。近いが、まだ正確ではない。

ペンを置いた。指先にインクがついている。右手の中指。レオンと同じ場所だ。

夜更けの執務室で、暖炉の火が小さくなっていた。

ヴェルデ語の一文は、明日考えよう。今夜は、五つの言語の草稿があれば十分だ。

窓の外に、星が見えた。雪が止んだらしい。ヴェルデの冬の夜空は、星が近い。平地では見えない星まで見える。

あの星の下に、大使公邸がある。レオンが今、何をしているか。考えないようにしているのに、星を見ると考えてしまう。

(守ってほしいなんて、頼んでない)

あの言葉は嘘ではなかった。本音だ。

でも。

本音を言った後の沈黙が、こんなに重いとは思わなかった。

押し花を鞄に戻した。明日、議会に演説の機会を求める書面を出す。レオンを通さず、直接議長に。

自分の足で。自分の名前で。

ヴィオレッタ・シュテルンとして。六つの言語を持つ、一人の外交官として。