軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

■第26話 パン屋の娘は飴を使われる

「あ、おっはよーリーニャちゃん! 一昨日から筋肉痛のお義兄さんだよ。いやあの枕投げおかしいよね。僕以外の参加者が順応してるから僕が運動音痴みたいに思われてるんだけど周りがおかしいからね。百歩譲って護衛の仕事もできる三メイドちゃんたちはいいとしてシルヴィスまで投げナイフを投げナイフで撃ち落とさなくてもいいよね。皇帝にあの戦闘スキルいらないよね。ところでリーニャちゃんはどうして頭に本を三冊も乗せているの?」

ぎこちない動きでのろのろと歩を進める私を見て、通りがかったエオルスさんが笑顔でやって来た。本を落とさないように注意しながら、ゆっくりと立ち止まる。

「綺麗な姿勢を……保つ……訓練で……」

「へえー。何らかの儀式かと思ったよ」

あははと笑うエオルスさんは両手いっぱいに資料を抱えている。絶賛仕事中らしい。一応この人は事務官だったなあと思い出す。

「エオルスさんも、なんだか大変そうですね」

「僕は一日分の仕事を午前中に必死で終わらせて午後はしっかりサボると決めているからね」

素敵な笑顔でウインクするエオルスさん。この人は必死になるところを間違っている気がしてならない。

「行儀作法やら何やらの勉強を始めたんだってね。まあ宮廷社会で生きるなら必須ではあるからねー」

「あ、やっぱりそうなんですね……」

「表舞台に立っていくならなおさらね。ふふ、『リーニャがそういうことで苦労しなくていいように煩わしい俗世から隔絶した快適な離宮に一生置こうかと思っていたけれどリーニャが頑張ってくれると言うので頑張ってもらいますリーニャ可愛い』って、シルヴィス嬉しそうだったなあ」

「今ふんわりと監禁予定があったような話が聞こえたけれど気のせいでしょうか」

と。

「リーニャさん」

背後から、凛と通る声で呼び掛けられた。頭上の本を気遣いながら、ゆっくりと振り返る。

声の主は、輝く金色の巻き毛、紺碧の瞳の麗しい女性。彼女はその身に纏う豪奢なドレスの動きにくさを一切感じさせない流麗な足捌きでこちらにやってきて、エオルスさんに優雅な挨拶をしてから、きりりとした顔で私に向き直った。

「令嬢とは?」

彼女が鋭く発した問いに、私は緊張しながら答える。

「根性です」

「美しい所作は?」

「美しい姿勢から」

「ではその姿勢を作るものは?」

「確かな体幹、不屈の腹筋、背後を任せられる背筋です」

「よろしくてよ」

美しい笑みを返され、ほっと一安心。

この優雅さを具現化したような彼女こそ、私の講師役を務める貴族令嬢、ミッシェルベル・ポーラー様である。

燦然と現れた令嬢と、本を頭に積んで直立不動の私とのやりとりを、ぽかんとした顔で見ていたエオルスさんは、こそこそと小声で私に訊ねた。

「ねえ、リーニャちゃんは四大貴族のご令嬢と一体何をしているの……?」

「体幹と筋肉を鍛えてもらっています」

「たいかんときんにく」

ミッシェルベル様は以前から皇帝陛下と交流があり、というか皇妃候補として名が挙がっていたお方らしい。けれど何やかんやあって今は「互いの恋愛を成就させるために協力体制を敷く共闘関係」になった令嬢なのだと、皇帝陛下に説明された。

昨日、片思い中の騎士団長をこっそり眺めるために帝城に来ていたミッシェルベル様に、皇帝陛下が私の講師役を打診して、その日のうちに快諾してくれた彼女は、特訓開始に際して私にこう言った。

『いいこと。社交界であなたは必ず侮られるの。庶民の出というただ一点で最高に舐められるの。ではあなたがすべきことは何か。目に見える形で優雅さを示せ。視覚情報で相手を叩きのめせ。そのためにあなたがすべきことは何か。鍛えることよ。体幹こそ根幹。筋肉に貴賤なし。令嬢とは根性。さあ、皇妃にふさわしい体幹と筋肉を目指して特訓よ。根性には後からついてこさせればいいわ』

そういうわけで、私は朝から体幹と筋肉を鍛えているわけである。

「エオルスさん……私、知りませんでした。行儀作法の勉強って、こういうところから始めるんですね……!」

令嬢とは根性だなんて知らなかったなあ、と深い感動を隠せない私に、エオルスさんは微妙な笑顔で「うん、ミッシェルベル嬢が特殊な例かな?」と言った。

もちろんティーカップの持ち方などの細々した動きの勉強や、教養を身に着けるための座学もあるけれど、ミッシェルベル様が重点を置くのは体幹と筋肉のトレーニングである。

「さあリーニャさん」と、ミッシェルベル様が訓練を再開させる。

「廊下をあと十往復ですわ。歩みは遅すぎても早すぎても駄目よ」

「はい、ミッシェルベル様」

「本を落とした回数だけおやつのパンケーキの枚数が減ると思いなさい」

「はい、ミッシェルベル様……」

「昼食はタンパク質重視でお願いしたわ。メインは鶏肉のトマト煮込みよ」

「はい、ミッシェルベル様!」

私の精神を落とすも上げるも自在なミッシェルベル様の巧みな指導を受けつつ、二十往復目となる廊下に足を踏み出す。

「うん何か思ってた淑女教育とだいぶ違うけど、ともかくリーニャちゃん頑張ってね!」

エオルスさんはサボるための仕事に戻るべく資料を抱え直しつつ、激励をくれる。

「はい。エオルスさんもお仕事頑張ってください」

「ポーラー嬢、忙しいなか協力してくれてありがと!」

溢れる気品にも気後れせず気さくなエオルスさんに、ミッシェルベル様は凛とした表情を崩さずに応える。

「陛下からの頼みですから断れなかっただけですわ、レスト様。別に皇妃候補の指導という帝城に通う大義名分を得れば堂々と騎士団の訓練を覗き見できるという下心が八割と同じ年の女の子とキャッキャウフフできる楽しみが二割で引き受けたとか別にそんなことでは別に断じてなくてよ」

「うん、快諾確定の人選をしたシルヴィスを褒めておこう。じゃあね!」

風のように去っていくエオルスさんを優雅な所作で見送ってから、ミッシェルベル様は私に向き直す。

「目線は遠く! 力まない! その手の動きは何! 歩みが遅い!」

「はいっ」

皇帝直々の依頼だから断れなかっただけだと言うのに、基礎もままならない私に熱心な指導をくれるミッシェルベル様。

「令嬢とは!」

そんな彼女に感謝と尊敬の念を抱きながら、「根性です!」と応えた。

体幹と筋肉の訓練、テーブルマナー講習を兼ねた昼食、体幹と筋肉の訓練を兼ねたポメコの散歩、見識を深めるためであって別に騎士団長の姿をこっそり網膜に焼き付けるためではない騎士団の訓練の覗き見、淑女に相応しい細かな作法の勉強を終えて。

休憩時間。皇帝陛下とふたりきりの応接室。

「陛下、駄目です……こんなこと……」

「何か問題が?」

「こんなことをされた後で、正気を保てるかどうか……」

「後のことを心配する余裕があるなら大丈夫です」

「ああ……そんな……」

震える声での抗議はさらりと無視され、着々と進められる背徳的な行い。見るに耐えきれず、ついに両手で顔を覆った。

「ただでさえ破滅的に美味しいバター蜂蜜パンケーキに、あまつさえ生クリームを追加するなんて……!」

「糖分と脂肪分の組み合わせは正義だと言っていたのはリーニャですが」

長椅子の隣に腰掛けた皇帝陛下は、熱々のバター蜂蜜パンケーキに冷たい生クリームをこってりと載せ(最高)、ナイフで丁寧に切り分けると一口分をフォークに刺し、こちらの口元に運んでくる。

「はい、あーん」

「あー」

これを目の前に持ってこられて抗える者はいないので、素直に口を開けた。パンケーキに対する蜂蜜とバターの組み合わせは天国への階段であり、そこに生クリームを加えたものは、天国そのものである。

「んんー……!」

あーんするのもされるのも全くよろしいマナーではないのだけれど、「おやつの時間だけはのびのびと過ごしてよろしくてよ。陛下のためにも」というミッシェルベル様の温情により、心のままに至上の美味に打ち震えられる。

幸せの概念を飲み込んで目を開けば、皇帝陛下の方はまだパンケーキを口にしていないというのに、うっとりとした表情で溜め息をついていた。感動するのが早いお方である。でも気持ちは分かる。見た目と匂いですでに最高に美味しいパンケーキだから仕方がない。

「……ふう。陛下、あの、自分で食べさせてくだ」

「はい二口目」

「あー」

これを目の前に持ってこられて抗える者は以下略。

特訓で疲れた脳と身体に糖分が染みわたる。咀嚼している間は何を褒められているのか分からないけれど頭を撫でられる。皇帝陛下は飴と鞭がどうとか言っていたけれど飴パートの甘さが常軌を逸している。

そして恥ずかしいので普通に自力で食べさせて欲しあっ三口目が来たはい食べます美味しい。結局、最後まで給仕(給餌)されて完食した。

「ミッシェルベルがリーニャを褒めていましたよ。素地が皆無だから伸び代しかない、と」

「それは褒め言葉なのですか……?」

「あの令嬢から気に入られるとはさすがリーニャです。この後は座学だと聞いていますが、疲れていませんか?」

「はい。糖分をしっかり取ったのでまだまだ頑張れます」

「それはよかった」

皇帝陛下は目を細めて私の頭を撫でる。

「いやあのさっきから人の頭を撫で過ぎです陛下」

「頑張っているリーニャを褒めるのは当然でしょう。あと可愛いものは撫でたくなるのが世界の理です」

「……。もう、好きにしてください」

「はい。好きですよリーニャ」

「……。……。もう、好きなだけどうぞ」

しばらく大人しく撫でられて飴パートを充分に補給してから、長椅子から立つ。

「では、そろそろ戻りましょうか」

「はい。陛下もお仕事、頑張ってください」

色々と甘い時間を過ごした私は、この後の座学で皇帝陛下との将来を悩むことになるなんて思いもせず、ふわふわとした気持ちのまま講義に向かったのだった。