軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

13 境界線と私

斜め向かいにあたる角から覗いてる私たちに、あの子はまだ気がついていなかった。

市井さんは私を背中に隠したから、あの子がこっちを向いたかどうかわからない。

「おっ!?」

素っ頓狂な声を小さくあげた後頭部を見上げると、その向こうに不揃いな毛並みのさび模様をした小山がある。

私よりも大きな市井さんよりもっと大きくなったそれは、ゆっさゆっさと艶のない黒と茶色を揺らしたと思ったらぴょんと跳ねた。市井さんの肩もちょっと揺れた。

「ぉぉぉ?」

毛むくじゃらは多分手足の向きから言って華麗にバク転を決めると、ごろごろといつものより勢いのついた前転であの子のほうへと転がっていく。

嘘。何してるの。やめて。

「――っ」

戻ってこいと、呼びかける名前がなくて喉がつまった。

知らんふりしなきゃいけないから、私はあいつを呼んだことなんてなかった。

ごはんをわけるのだって、一口分やひとかけらをそれとなく置いておくくらいがやっとで。

どうせあいつだって私のことなんてわかってるかどうかわからないしって、呼ばなくたってそこにいるしって思って。

「だ、め」

あれはとても怖いもの。あの子の後ろ、立蔀の向こう側にいるのは。

無意識に前に出てしまっていたのか、後ろから伸びてきた太い腕が両肩を抱え込んだ。片腕だけなのに振りほどけない。

軒先から繰り返し落ちてくるウニっぽいのや、よろよろと前を横切る極彩色のイモリモドキを巻き込んで、加速する毛むくじゃらはあっという間にあの子の前を――そのまま通り過ぎて行った。

「えぇぇぇ」

気の抜けた声は私だったかもしれないし、市井さんだったかもしれない。でも多分心はひとつだったんじゃないだろうか。

あの子はぽてりと尻もちをついてきょとんとしている。あいつが見えてはいなかったのか、どうなのか。

いくつも浮かび上がっていた光は全て、毛むくじゃらに蹴散らされ残滓だけがきらきらと宙に漂っていて。

「はーい」

子どもは何かに呼ばれたのか元気よく立ち上がり家へと駆け戻っていった。

その声で目が覚めたかのように頭をぶるっと振った市井さんが「戻んぞ」とだけ囁き、強い力で元来た道へと私の襟首をつかんで引きずりはじめる。

「いちい、さ」

毛むくじゃらは、ゆるやかに曲がる道の先へと姿を消してしまった。

「あいつは勝手に戻ってくるんだろ」

そういう間にも、ずんずんと市井さんは足を速めていく。私の足の踏ん張りなんてひっかかりもしない。

でも、でも、あの向こうにいるやつはとっくに私たちを見つけているのがわかる。見てる。こっち見てる。逃げなきゃいけないのはわかるけど。

「も、もう見つかって」

「わかってる。だから逃げ――ちっ」

舌打ちの後に続いた何か歌うような抑揚をつけたつぶやきはよく聞き取れなかった。

すらりと抜かれた刀が、薄白く注がれる日差しより強くぎらりと輝く。

私たちとあの家の間に大きく一線を引くように振るわれ、地に突き立てられた。

弦か、それとも笛か。甲高い音色が、自立する刀を中心として広がる魔法陣の光とともに響き渡る。

「ひゃっぐっ」

いきなり視界がひっくり返って驚いたとたんにみぞおちにはいった衝撃で息が詰まる。

俵担ぎをされていると理解したときには、一度広がった光の陣は収束して道を塞ぐ柵と形を変えていた。

本部にあったゲートのような鋳物門扉と同じ蔦飾りがかたどられている。

柵の隙間の向こうは見える。見えるけれど、向こうからの視線は遮られたのを肌で感じた。

こっち側と向こう側は、明確に分かたれた。

まだあいつが向こう側にいるのに。

どんどんと遠ざかる柵と刀。

「まっ、まって」

私とあいつの間を隔てるものなど、今までなかったのに。

激しくゆすぶられながらも市井さんの背中を叩くけど、遠ざかる速度が落ちない。

いつだって世界とわたしの間には何かさえぎるものがあって、だけど、あいつだけは私のそばにいたのに。

じいちゃんが倒れて入院してから死んでしまうまであっという間だった。

死期の近い人の体にまとわりつく異形が、じいちゃんの胸に這いずっているのをただ見てるだけしかできなかった。

私は本当に役立たずなんだと、そう自覚したころからずっと、あいつだけが私の近くにいたのに。

「――っぶなかったじゃねぇかよ! くっそが!」

叫ぶと同時に地に下ろされた。

彼が膝をついた勢いの割にそっと下ろされたのだと後になって思いだしたけれど、それどころじゃなくて。

辺りの景色は、あちら側の褪せた色じゃもうなくなっていて。

ふらつく足で立ち上がって、頭の中は戻らなきゃって言葉だけでいっぱいで。

「待て待て。正気かよ」

また襟首掴まれて尻もちついて、その手を叩き落したら……そこに毛むくじゃらが体育座りしてた。

「元のサイズだぁあああ!」

両手で握りしめて感触を確かめて、うん! ばさばさ! 手触り悪っ!

「うっ、うわあああん! ばか! もうほんとばか! あんたなんでそんなばかなの!」

こんな大声出したことない。涙だってこんなぼろぼろこぼれたのは覚えてる限りじいちゃんが死んだとき以来だ。きっと鼻水だってすごい。

「あー……、そいつな、途中からずっとお前のケツに乗ってたんだわ……」

なんかすまんな……って、息切れしながら申し訳なさそうな声を出す市井さんにまた泣けた。