作品タイトル不明
第六話:歪んだ教室のアルゴリズム
中学の授業が始まって、一週間が経った。
一九九五年の学校生活は、四十二歳のシニアエンジニアである俺にとって、退屈でありながらも新鮮な感覚だった。
黒板を叩くチョークの乾いた音。教科書をめくる退屈な響き。久しく聞かなかったその音に、ノスタルジックな気持ちが沸いて来る。
ノートの端に、今後の開発ロードマップと、海外掲示板を介した資本調達のスキームを書き連ねる。
「ねえ、今日の放課後どうする? うちのパパの会社、新型のパソコンが入ったんだって。見に来る?」
四時間目が終わった瞬間、教室の中央で高橋美咲の声が一段と高く響いた。
彼女の周りには、すでに数人の女子生徒が取り巻きとして張り付き、歪んだカーストのピラミッドが形成されつつある。
「えー、パソコン!? 美咲ちゃんち、やっぱりすごーい!」
「普通はお家にパソコンなんてないよね。さすが社長令嬢、羨ましいなー」
取り巻きたちの手放しの賛辞に、美咲は制服の襟元を気取った風にいじりながら、満足そうに鼻を鳴らす。
「まぁね。これからはインターネット? とかいうのが流行るらしいから、パパの会社はもっと大きくなるんだって。だからさ、私と仲良くしておいた方がいいよ? いろいろ奢ってあげられるし」
「え、本当!? 美咲ちゃん一生ついていく!」
「美咲ちゃんのパパ凄いなぁ、ウチの父親なんてただのサラリーマンだもん」
前世の俺は、この安っぽいマウンティングにまんまと気圧され、彼女を「住む世界の違う特別な存在」だと思い込んでいた。
(その泥舟が、これから勝手に自滅していく様を、特等席で見物させてもらう)
俺は視線を美咲のグループから外し、教室の一番後ろの席へと目を向けた。
そこには、 白雪華(しらゆきはな) がいた。
長い黒髪を顔の前に垂らし、少しふくよかな身体を縮めるようにして、古いスケッチブックに向かって一心不乱に鉛筆を動かしている。
クラスの誰も、彼女に話しかけようとはしない。それどころか、美咲のグループからは、時折彼女を値踏みして愉しむような、下俗な視線が送られていた。
その時、美咲が取り巻きの一人と目を合わせ、ニヤリと下品な笑みを浮かべた。
「ねえ、ちょっと面白そうなもの見つけちゃった。ちょっと行ってくる」
「あ、美咲ちゃん、何するのー?」
美咲は席を立ち、わざとらしい足音を響かせながら華の席へと近づいていく。
嫌な予感がして、俺はシャーペンを置いた。
「ねえ、白雪さん。さっきから何描いてるの? みんなに見せてよ」
美咲は華の返事も待たず、机の上にあったスケッチブックを強引にひったくった。
「あ……っ、や、やめて……!」
華が蚊の鳴くような声で手を伸ばすが、美咲はそれを器用に避けて、ノートの中身をクラス中に見えるように高く掲げた。
「うわ、何これ! なんか変なアニメみたいなキャラクター? 根暗な趣味〜!」
「キャハハ! 本当だ、なんかパツパツの体型に似合わない可愛い絵描いてる!」
「うわー、ちょっと引くかも。毎日そんなの描いてるんだ」
美咲の言葉を合図に、教室の一部からクスクスと意地の悪い笑い声が湧き上がる。
華は耳まで真っ赤にして、肉厚な小さな手をぎゅっと握りしめ、ただ涙を堪えるように俯いた。肩が、微かに震えている。
「返し、てください……おねがい、します……」
「えー? 何言ってるか聞こえなーい。もっと大きな声で言ってよ。ねえみんな、この絵、どう思う?」
前世の俺は、自分のことで精一杯で、この光景を見過ごしていた。
だが、二回目なら、見過ごした後悔くらいは簡単に書き換えられる。
俺は静かに席を立ち、美咲の元へと歩み寄った。
周囲の冷やかしのトーンが、俺の登場によってわずかに下がる。
「高橋さん。そのノートを返しなよ」
感情を一切交えない、淡々とした声。
美咲が驚いたように目を丸くし、すぐにいつもの高慢な表情に戻って俺を睨みつけた。
「何よ、佐藤くん。あなたには関係ないでしょ? 私はただ、白雪さんの下手くそな絵をみんなで見てあげてただけじゃない」
「人の私物を本人の許可なく奪い、公の場で晒し者にする。それはただのいじめだよ」
俺は美咲の言葉を完全に遮り、一歩踏み込んだ。
「……っ、な、何よそれ……いじめなんて、おおげさなこと言わないでよ。ちょっとした冗談じゃん。ねえ?」
美咲が同意を求めるように後ろを振り返るが、俺の放つただならぬ威圧感に気圧された取り巻きたちは、すっと目を逸らした。
「おおげさなんかじゃない。君がやっていることは、自身の品性を貶めるだけの極めて非効率的な行為だ。それとも何か? これ以上騒ぎを大きくして、君がいつも自慢している『お父さんの会社』の評判に傷をつけたいのか?」
「パパの、会社……? なんで今、パパの会社が関係あるのよ!?」
「大いに関係あるさ。社長令嬢というステータスを笠に着て一般生徒を恫喝していると噂が立てば、それだけでスキャンダルになるかもしれない時代だ。お父さんが取引先にどう言い訳するか、想像がつかないか?」
「な、何よそれ、わけわかんない!」
美咲の顔から、一瞬で血の気が引いた。
彼女にとって父親の会社は自分のスクールカーストを担保する「絶対的なステータス」。それを人質に取るような冷徹な理論を突きつけられ、美咲は生まれて初めて経験する未知の恐怖に、完全に言葉を失っていた。
「これ以上、クラスメイトをバカにするのはやめろ。ノートを返せ」
俺は美咲の手から、一切の抵抗を許さずにスケッチブックをすんなりと回収した。
「……っ! 佐藤くんのバカ! もう知らないんだから!」
美咲は何も言い返せず、顔を真っ赤にして地団駄を踏みながら、取り巻きの元へと逃げるように引き下がっていった。
教室に、静寂が戻る。
「おい、佐藤、お前すげえな……」
「何かすげぇ大人っぽい感じするな……」
男子生徒たちの呟きを無視して、俺は華の机の前に立ち、回収したスケッチブックを彼女の前にそっと置いた。
ノートの隅には、先ほど美咲が嘲笑ったキャラクターのスケッチが描かれていた。
一瞥して、確信する。
やはり、この線は本物だ。一九九五年現在にはまだ存在しない、二〇二〇年代にヒットしたデザインの種が、彼女の指先から生み出されている。
「……白雪さん。大丈夫か?」
俺が声をかけると、華はゆっくりと顔を上げた。
まだ少し体型はふくよかで、前髪で顔が隠れがちだが、その瞳の奥には、強い芯のような光が宿っている。
彼女はまだ、自分に自信が持てないように、肉厚な小さな身体をさらに縮めた。
けれど、逃げるようにうつむくことはせず、涙が溜まった瞳で真っ直ぐに俺を見つめ返した。
「……さ、佐藤くん……」
華は、ぎゅっと自分の制服の裾を握りしめた。
声は震えていた。今にも泣き出しそうなほど、細くて、消え入りそうな声だった。
だけど、彼女は決して目を逸らさず、一生懸命に言葉を紡いだ。
「たすけて、くれて……ありがとう……っ。……その、わたしの、こんな変な絵のせいで、佐藤くんまで嫌な思いを、させて……ごめんなさい」
それは、クラスの誰にも届かないような小さな声だったけれど、俺の耳には、どんな高解像度の音声データよりも鮮明に、きっぱりと響いた。
自信のなさの裏にある、彼女の誠実さと、強い意志の片鱗がそこにあった。
「謝る必要はないよ。それから、これは変な絵なんかじゃない。君の絵には、他人に汚されていい価値なんてないんだ」
「え……?」
「すごく綺麗な線だ。俺には描けない。だから、誇っていい」
俺がそう言って静かに微笑むと、華は驚いたように目を見開き、やがてその白い頬を、夕焼けのように真っ赤に染めてノートを愛おしそうに抱きしめた。
「誇って、いい……わたしの、絵……」
「ああ。また見せてくれると嬉しい。……じゃあ、またな」
「う、うん……! また、ね、佐藤くん!」
小さく、しかし確実に弾んだ彼女の声を聞きながら、俺は自分の席に戻った。
遠くで美咲がこちらをキッと睨みつけているが、今の俺にはどうでもよかった。