軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三十二話:マルチ防壁

「……了解した。完璧な防壁になってみせるよ、ボス」

乾は畏怖の念が混じった複雑な苦笑いを浮かべ、応接室の重厚な防犯ドアの向こうへと去っていった。

彼が残していった微かな香水の香りが室内にしばし漂う。

だが、その男の後ろ姿が完全に見えなくなった瞬間。俺は手元のキーボードのキーを短く一打、叩いた。

「――対応完了しました。通常のシフトに移行してください」

俺が声をかけると応接室の壁一面に嵌め込まれていた飾り棚が静かに、そして無音でスライドした。そこから姿を現したのは、スーツの内に完全武装の防弾ベストを仕込み、特殊な通信インフラを耳に装着した、筋骨隆々の三人の男たちだった。

「お疲れ様です、佐藤代表」

男たちのリーダーが、深く頭を下げながら報告してくる。彼らは、中学時代に高橋社長が連絡していた「大旦那」から直接借り受け、このオフィスに常駐させているプロのボディーガード達だ。

「ありがとうございます。乾は合理的な人間なので、自分の不利を理解して、賢明な選択をしてくれました。ただ、万が一彼らが暴発した場合の物理的なカウンターとして、あなたたちの存在は不可欠だった。引き続き、護衛をよろしくお願いします。」

「ハッ。我々は大旦那より、佐藤代表の身の安全を最優先にと命じられております。たとえどのような裏社会の組織が相手であろうと、皆さんへかすり傷一つつけさせはしません」

「頼もしいですね。連中の動きはシステム上で常時監視していますが、物理的な防壁としてのあなたたちの存在が、一番の安心材料です」

「「「ありがとうございます!」」」

男たちはそう告げると再び音もなく隠し部屋へと姿を消し、壁は元の無機質なデザインへと戻っていった。

「いやあ、蓮。相変わらず二重三重の罠の張り方がエグいな。インテリヤクザをハッキングで脅しつけながら、裏ではプロの武力を配置して物理的なセーフティネットまで確保してるんだからな」

源さんがスプライトの缶を片手に、感心しきった様子でアトリエブースから戻ってきた。

「当然の処理ですよ、源さん。裏社会の人間を従えるなら、連中が最終手段を取る可能性も考慮に入れておく必要がありますから」

「まあな。乾って奴も頭が良い分、蓮の異常さに気づいて引き下がったが、もしヤケクソになって刃物でも振り回してたらと思うと、ゾッとするぜ。大旦那のボディーガードがいなきゃ、俺だって気が気じゃねえよ」

「だからこそのセキュリティの多重化です。あらゆる例外処理を想定しておくのが、エンジニアの基本でしょう?」

「そりゃそうだ」

俺がそう答えた、まさにその時。

デスクの上に置かれた、暗号化回線専用の赤い 固定電話(ホットライン) が、静かに、しかし重厚な電子音を響かせた。

『ピピッ――ピピッ――』

この番号を知っている人間は、世界中を見回しても数名しか存在しない。

「俺が出ます、源さん」

受話器を耳に当てると、スピーカーの向こう側から、地鳴りのように低く、そして圧倒的な権威を纏った老年の声が響いてきた。

『――佐藤くん。そちらのノイズは、綺麗に処理できたかね』

「ええ、大旦那。お借りしたセキュリティのおかげで、乾の組織を我が社の一部として組み込めました。藤堂や城崎がこれから仕掛けてくるであろう物理的な障害は、すべて彼らが裏で遮断してくれるでしょう」

電話の主は、かつて中学時代に美咲の父親を「トカゲの尻尾切り」のように見限った、地域最大コンツェルンの総帥――そして今やわが社と組むことで、一九九九年の日本全土の政財界を裏から牛耳る最高権力者の一人となった「大旦那」その人だった。

彼は現在、俺たちの提供する『二〇〇〇年問題』の予測データと、次世代ネットワークの独占権に莫大な価値を認め、ポータルサイトの「筆頭出資者」として、日本の通信インフラの未来を俺に完全に委ねていた。

『素晴らしいな、若き天才プログラマー。やはり君に投資した選択に、誤りはなかった。城崎のような古い遺物や、藤堂のような目先の泡銭に踊る男では、君の足元にも及ばんな』

「買い被りですよ。俺はただ手元にあるデータに基づいて、最適解を導き出しているに過ぎません」

『謙遜はいらんよ。これより我が社は次世代高速光回線の国家予算枠から、さらに五十億円の追加出資を決定させる。日本全土のインフラを、君のシステムで書き換えるのだ』

「ありがとうございます、大旦那。……藤堂と城崎の動きは、市場の巨大なゴミ清掃に過ぎません。奴らが勝手に『勝った』と勘違いして、闇の資本を我が社の罠へオールイン(全額投入)するのを待っている段階です。新世紀(二〇〇〇年)の幕開けとともに、奴らの砂の城を、表と裏の力で跡形もなく消滅させてみせましょう」

『ククク……恐ろしい少年だ。政財界の老人どもが、君の一本のコードで踊らされていることすら気づいていない。頼んだぞ、佐藤代表。君の描く設計図(未来)に、我が資本のすべてをベットすると約束しよう』

「ええ、お任せください」

受話器を置くと、オフィスの窓の外には、夕暮れに染まる六本木の高層ビル群が、サクラ色の光の中に広がっていた。

「佐藤くん……」

ふと振り返ると、専用アトリエブースのパーテーションの隙間から、華がそっとこちらを見つめていた。ハーフアップにした美しい黒髪が、夕日に照らされて柔らかく輝いている。

「白雪さん。……もう、終わったよ。怖い思いをさせてごめんね」

「ううん、佐藤くんの声が聞こえていたから、大丈夫。……でもね」

華はトコトコと静かな足取りで俺のデスクまで歩み寄ると、やや俯きながら、俺の学ランの袖をきゅっと握りしめてきた。

「あんまり危ない事はしないでね。あのヤクザの人も、さっきの人も、目がすごく怖かったから……。もし佐藤くんに何かあったら、わたし……」

「大丈夫だよ、白雪さん。さっきも言った通り、部屋の裏にはプロの護衛がいたし、裏社会のパワーバランスも完全にこちらの制御下にある。君が悲しむようなことは、絶対に発生させない」

「本当……? 約束だよ? 約束破ったら、わたし、もう絵を描かないんだから」

上目遣いで俺を真っ直ぐに見つめてくる華。その可憐な瞳と、袖を握る小さな手の温もりを感じた瞬間、俺の心の中から湧き出してくる激しい感情を、溢れ出さないように必死にせき止めた。

高校生になり、世界的なクリエイターとして、そして女性としても美しく洗練されていく彼女。その輝きを、あの藤堂や美咲のような連中に一瞬たりとも触れさせるわけにはいかない。

(――守ってみせる。華も、俺の新しい家族の平穏も)