軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十六話:ドレスと、妹の晴れ舞台

六月に入り、梅雨の気配が近づく頃。俺が最優先タスクとして進めていた『家族の生活基盤のアップデート』は、いよいよ一つの節目を迎えようとしていた。

幼稚園の年長クラスに通う妹・結衣の、園生活最後となる大きなお遊戯会が今週末に迫っていたのだ。前世の記憶を辿れば、この時期の我が家は父親の体調不良の予兆と経済的な困窮が重なり、結衣には本当に惨めな思いをさせてしまっていた。

「おにいたん! おにいたんってば、これ見て!」

夕方の居間。結衣は幼稚園の黄色い通園カバンを放り出すなり、短い足をバタバタと響かせて俺の膝の上に飛び乗ってきた。

「おっと、元気だな結衣。どうしたんだ、そんなに大きな紙を持って」

「あのね! 幼稚園の先生がね、これをお家に持って帰って、お父さんとお母さんに見せてねって! 結衣ね、今度の発表会で、おひめさまの役をやるんだよ! すごいでしょ!」

「へえ、お姫様か。結衣にぴったりな配役じゃないか。どんなお芝居なんだ?」

「えっとね、悪い魔法使いに捕まっちゃったおひめさまを、カッコいい王子様が助けにくるの! 結衣ね、ピンクの可愛いドレスを着て、舞台の真ん中で『助けてー!』って大きい声で言うんだよ! 先生に『結衣ちゃん、とっても上手ね』って褒められたんだから!」

「そうか、それは世界で一番可愛いお姫様だな。お兄ちゃんも今から本当に楽しみだよ」

小さな胸をいっぱいに張って自慢する結衣の頭を撫でながら、俺の脳裏には、前世のあの日の記憶が蘇っていた。

前世の発表会。我が家には、園から指定された「ピンクのドレス」を新調するような経済的余裕はどこにもなかった。母親があちこちを回り、近所の人からようやく借りてきたお下がりのドレスは、何度も洗濯されてあちこちのレースがほつれ、色あせていた。おまけにサイズも結衣の身体には少し大きすぎてブカブカだった。

舞台の上で、周りの友達が親に買ってもらったぴかぴかの綺麗な衣装を着て輝く中、結衣だけが色あせた大きなドレスの裾を何度も気にして、今にも泣きそうな顔でセリフを言っていた。発表会が終わった後、結衣は「お兄ちゃん、お洋服、ちょっと大きかったね。でも、結衣がんばったよ」と、五歳児ながらに我が家の懐事情を察して、健気に笑ったのだ。

(……そんな思いは、二度とさせない)

俺は立ち上がり、台所で夕飯の支度をしていた母親に声をかけた。

「ねえ、母さん。結衣の発表会の衣装の件だけどさ。もうこちらで全部手配してあるから、園から借りたり、近所の人に聞いて回ったりしなくていいよ」

「え? 手配って……蓮、園から指定された衣装の形、結構細かかったわよ? ピンク色の生地で、レースがついていて、お膝が隠れるくらいの長さでって……。まさか、お店で出来合いのものを適当に買ったの?」

母親が驚いてお玉を持った手を止め、慌てて居間にやってきた。

「ううん。既製品じゃないよ。源さんの知り合いに、舞台衣装やドレスを専門で作っている凄腕のデザイナーさんがいてね。その人に、結衣の今の正確なサイズデータを送って、完全オーダーメイドで特注してもらったんだ。今日の夜、源さんの家に届くことになってる」

「オーダーメイド!? ちょっと、蓮、そんなのいくらかかったのよ……! いくら源さんのところでお給料を貰っているからって、幼稚園のお遊戯会にそんな大層なもの……!」

「お金のことは心配しなくていいって、いつも言っているだろ? 結衣の笑顔の笑顔に変わる物なんてないよ。父さんも無事に手術が終わって元気になったんだ。これくらいのお祝いは当然さ」

「おにいたん、オーダーメイドってなぁに? 結衣のピンクのドレス、あるの?」

結衣が不思議そうに俺の顔を見上げてくる。

「ああ、あるよ。結衣のためだけに作られた、世界に一つだけの特別なドレスだ」

「わぁ……っ! おひめさまのお洋服! 結衣、早く着てみたい!」

その日の夜、約束通り玄関のチャイムが鳴り、源さんが「おい蓮! 例の注文通りのブツが届いたぞ!」と、大きな白い化粧箱を両手で大事そうに抱えて我が家にやってきた。

「源さん、わざわざ持ってきてくれてありがとう」

「いいってことよ。俺も中身が気になって仕方がなかったからな。さあ、結衣ちゃん、開けてごらん!」

「うん! 開ける、開ける!」

結衣が目を輝かせながら箱の大きなサテンのリボンを解き、慎重に薄紙をめくる。

中から現れたのは、淡いサクラ色の最高級シルク生地をベースに、職人の手によって一枚一枚繊細に縫い付けられたレースのドレスだった。リビングの蛍光灯の光を浴びて、まるで魔法の粉を纏ったかのように上品にきらめくその美しさは、デパートの既製品とは文字通り『格』が違った。

「わぁ……っ! なにこれ、なにこれ! すっごく可愛い! 本物のおひめさまのお洋服だぁ……!」

結衣は歓声を上げ、ドレスを小さな胸にぎゅっと抱きしめて居間をぴょんぴょんと飛び跳ねた。

「これ、本当に蓮が頼んだの……? 生地の手触りからして、そこらのお店のものとは全然違うわ……」

母親がそっとレースに触れ、感嘆のため息をもらした。

「結衣。さっそく試着してみよう。母さん、着替えを手伝ってあげてくれる?」

「え、ええ、そうね。結衣、あっちのお部屋で着てみましょうね」

「うん! おかあさん、早く早く!」

数分後、奥の部屋の襖が開き、出てきた結衣の姿を見て、俺と源さんは思わず同時に息を呑んだ。

サイズは一ミリの狂いもなく完璧。結衣の小さな身体のラインに沿って優しく広がるスカートと、胸元の細やかな純白の刺繍が、彼女の愛らしさを完全に限界突破させていた。前世の色あせたブカブカのドレスを着ていた、あの哀れなお姫様の姿は、もうどこにもなかった。

「おにいたん……源さんも……どう、かな……? 結衣、ちゃんとおひめさまになれてる……?」

結衣は少し恥ずかしそうに、ドレスの裾を両手でちょこんと持ち上げて、おずおずと俺を見上げてきた。

「ああ、完璧だ。世界中のどんな絵本のお姫様よりも、今の結衣が一番可愛いよ」

「本当……? おにいたん、嘘じゃない?」

「嘘なもんか。お兄ちゃんが保証する。なぁ、源さん」

「あ、ああ、蓮の言う通りだ! 結衣ちゃん、あまりにも可愛すぎて、俺のカメラのシャッターが勝手に動いちゃいそうだよ!」

「えへへ、やったぁ! 結衣ね、このお洋服なら、発表会がんばれる! 悪い魔法使いなんて、ぜんぜん怖くないもん! えいってやっつけちゃうんだから!」

満面の笑みを咲かせ、お気に入りの着せ替え人形を抱いてリビングをクルクルと回る妹。その純粋な幸福に満ちたログが、俺の脳内の前世の後悔を、綺麗に、完全に上書きしていく。

「いやあ、蓮。お前のシスコンっぷりには毎度恐れ入るが、このドレスは本当に素晴らしいな。親戚のよしみだ、当日は俺が最高のカメラを持って、親父さんの代わりに結衣ちゃんの晴れ舞台を特等席から全部記録してやるよ」

「源さん、本当に頼みますよ。父さんも来週の検診が終われば完全復活だし、今回の発表会は、佐藤家全員で結衣のステージを観に行けるね」

「そうね……本当に……蓮のおかげよ。ありがとうね、蓮」

母親は結衣のドレス姿を見つめながら、目元を熱くして何度も頷いていた。