軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十五話:外枠のノイズと手のひら返し

父親の内視鏡手術は、主治医の宣言通り、完璧な成功を収めた。

わずか三日の入院で、父親の身体から『未来の絶望』は綺麗に切除されたのだ。退院してきた父の顔色は、ここ数年で一番と言っていいほど血色が良く、我が家には本当の意味での平穏な日常が定着しつつあった。

「ねえ、聞いた? 佐藤くんの家、なんか急にお金持ちになったらしいよ」

「え、マジで? お母さんが夜のパート辞めたって噂、本当なんだ」

「変なおじさんのところで難しいパソコンの手伝いをして、アメリカの会社から凄いお金を貰ってるんだってさ」

五月の半ば。学校の廊下を歩けば、周囲の生徒たちのヒソヒソ話が嫌でも耳に飛び込んでくる。

何処から漏れたのか分からないが、中学一年生の噂が拡散するスピードは光回線並みに速い。かつて俺を「地味で貧乏な奴」と見下していたクラスの連中の視線は、今や好奇心と、微かな羨望の色に染まっていた。

そして、その状況を最も面白く思っていない人間が、教室の中央にいた。

「ちょっと、何よそれ。アメリカの会社からお金を貰ってるですって? そんなの、どうせ何かの間違いに決まってるじゃない」

高橋美咲は、自分の机を前にして、取り巻きの女子たちに聞こえるようにわざとらしく大声で鼻で笑った。

彼女の父親の会社は、地方の自治体や中小企業からシステム開発を請け負う受託企業だ。このITバブル期前特有のイケイケな空気感の中、会社は至って順調で、利益も右肩上がりのはずだった。だからこそ、美咲は自分が「特別な社長令嬢」であるという万能感に満ち溢れていたし、ただの同級生に過ぎない俺の噂が大きくなることが、純粋に気に入らないのだろう。

「あ、佐藤くん……お、おはよう……ございます……」

俺が自分の席に着くと、後ろの席から華が、おずおずとした、しかし以前よりはずっと落ち着いた声で挨拶をしてきた。

前髪の隙間から覗く彼女の顔は、俺が毎日のように源さんの家で実践している「最新の栄養学に基づいた食事メニューのアドバイス」の効果もあり、余分なむくみが取れて、信じられないほどフェイスラインがすっきりとし始めていた。

「おはよう、白雪さん。今日も顔色が良くて安心したよ。ちゃんと朝ご飯、俺が言った通りのメニューで食べてくれたかい?」

「う、うん……っ。佐藤くんが教えてくれた、お野菜のスープとアボカドのサラダ、お母さんに作ってもらって、毎日食べてる、よ……? なんだか、最近、身体がすごく軽くて……朝起きるのも、辛くなくなってきたの」

「それは良かった。君の身体の代謝が、正常に機能し始めた証拠だよ。その調子で続けていけば、もっと健康に、綺麗になれる」

「き、綺麗に、だなんて……っ。私には、そんなの……」

華はふにゃりと眉を下げて恥ずかしそうに頬を赤く染めたが、その表情には、確実に「自分の変化を楽しむ」ような、瑞々しい輝きが宿りつつあった。

その穏やかな二人の空気を切り裂くように、激しい足音が近づいてきた。

「ちょっと、佐藤くん! あんた、いい加減にしなさいよ!」

美咲が、取り巻きを引き連れて俺の机の前に立ちはだかった。

その手には、何やらパンフレットが握られている。

「何かな、高橋さん。朝からそんなに大きな声を出して」

「なによその偉そうな言い方! あんたさ、小汚いオジサンのところでちょっとパソコンを手伝ったくらいで、調子に乗ってんじゃないわよ! うちのパパがね、今度新しく出すシステムの発表会に、特別に招待してあげるわ!」

美咲は、手元にある『高橋システム開発・新型ソリューション発表会』と書かれたパンフレットを、俺の机の上にバンと叩きつけた。

「パパがね、『同じクラスにパソコンが少し得意な子がいるなら、本物のプロの仕事を見せて興味を持てば、うちの会社で将来使ってやってもいい』って言ってるの! だから、今までの生意気な態度を私に謝るなら、あんたの家を助けてあげてもいいよ?」

美咲は腰に手を当て、勝ち誇ったように胸を張った。

実家の会社が好調だからこそ、彼女は蓮の「噂の才能」を自分の父親の会社に取り込み、将来の歯車(奴隷)として青田買いしようと画策したのだ。彼女の自尊心は、どこまでも肥大化していた。取り巻きの女子たちも、「やっぱり美咲ちゃんのお家は 凄〜い!」と、その権威に縋るように声を上げた。

俺は、机の上のパンフレットを一瞥し、触れもしないまま、冷淡に口を開いた。

「お断りするよ、高橋さん」

「え……っ? お、お断りって……あんた、バカなの!? これは本物の大企業の発表会なのよ!? 普通の人が入れるような場所じゃないんだから――」

「本物の大企業、か。……高橋さん、悪いけれど、その発表会で出す予定のシステムの概要、昨日アメリカのオープンな開発者コミュニティでいくつかレビュー(評価)されていたけれど、コードの構造が古すぎて、現代の高速ネットワークの負荷に耐えられない『 欠陥(バグ) 』を多く内包していると指摘されていたよ」

「え……? こ、コミュニティ? けっかん……? な、何よそれ、パパの会社のシステムは完璧だって、みんな言ってるわよ!」

美咲の顔が、一瞬で強張った。まだ問題は表面化していないが、未来の技術水準を知る俺や海外のエンジニアから見れば、高橋の会社が今作っているものは、すでに崩壊の一歩手前にある砂の城なのだ。

「君の父親の会社が作っているシステムは、お世辞にも効率的とは言えない。俺と源さんが動かしているプロジェクトから見れば、お宅の会社と組むメリットは一円もない。むしろ、足を引っ張るリスクにしかならないんだよ。だから、雇ってもらう必要もない」

「な、何よそれ……っ! パパの会社が、足引っ張りだなんて……そんなわけないじゃない! うちの会社は、駅前の大きなビルにオフィスがあるのよ!? あんたの家みたいに、古びた一軒家とは格が違うの!」

「オフィスの大きさと、技術のクオリティは比例しない。……高橋さん、君がどれだけその砂の城に縋ろうとも、現実は非情だよ。現段階の仕様のままでは、近い将来、市場から厳しい『お断り』を突きつけられるのは明白だ」

俺が立ち上がり、大人の冷徹な眼光で美咲を見下ろすと、彼女は言葉の暴力(正論)に圧倒され、ひっと息を呑んで後ずさりした。

「これ以上、俺たちに関わらないでくれ。そのパンフレット、持って帰るといい。うちのゴミ箱に入れるのも無駄だから」

「……っ、う、嘘つき……っ! 佐藤くんのバカ! パパに言って、絶対に後悔させてやるんだから……っ!」

美咲は顔を真っ刻にし、涙目でパンフレットを握りしめると、逃げるように自分の席へと走り去っていった。

取り巻きの女子たちも、俺のあまりの冷徹さと、美咲の惨めな敗北を目の当たりにして、誰一人として彼女を追いかけようとはしなかった。

教室のカーストは、今や完全に逆転しつつあった。

俺が席に座ると、後ろから華が、今度は前髪を少し掻き分けて、その潤んだ大きな瞳を真っ直ぐに俺に向けてきた。

「佐藤くん……すごかった、な……。高橋さん、何も言い返せなくなってた……」

「あんなのはただの、子供の言い合いだよ、白雪さん。君はそんなものに怯える必要は、もうどこにもないんだ」

「うん……っ。佐藤くんがそう言ってくれると、わたし、本当に……自分が少しずつ、変わっていけるような、そんな気がするの」

華の口元に、穏やかな、しかし今までで一番しっかりとした芯のある微笑みが咲いていた。