作品タイトル不明
橋下の危険
古い石標の手前で止まったあと、ハクトはまず後ろを見た。
南門、そこから続く道。
草むら、水たまり。
そして、今いる古い石標の手前。
行き先より先に、戻る道を見る。
それは、もう意識しなくても最初にすることになっていた。
前より人数は多い。
シア。
カザミ。
オウガ。
ナオ。
ミサキ。
リク。
そしてハクト。
戦える人は増えた。
けれど、戻る時に通る幅も、そのぶん必要になる。
ハクトは地図の端に書いた。
『人数増加:戻る幅も必要』
シアが振り返る。
「ここからは、少し静かに行くよ。」
「はい。」
カザミが短槍の石突きを少し浮かせた。
オウガは盾の留め具を押さえ直す。
ナオは一歩前に出かけて、シアの背中を見て止まった。
ミサキは水たまりの位置を見ている。
リクは帳面を片手に、鞄の口が閉まっていることを確認した。
ハクトはその一つ一つを見た。
戦う人も、音を減らす準備をしている。
南門では、それも準備になる。
『音:槍の石突き、盾の留め具、鞄の揺れ』
地図に書き足してから、ハクトは前を向いた。
シアが歩き出す。
その後ろを、カザミとオウガが左右に分かれて進む。
ナオは少し後ろ。
ミサキはリクの近く。
ハクトは全体が見える位置で、地図を持った。
草むらは静かだった。
けれど、静かだから安全というわけではない。
さっき草牙犬が出た場所も、最初は草が揺れただけだった。
橋手前に近づくと、土の色が少し変わった。
乾いた土の中に、湿った場所が混ざっている。
水たまりの周りには、泥が跳ねたような跡もあった。
ミサキが小さく手を上げた。
「これ、さっきの泥蛙の跡に似てませんか?」
「確かにそうですね。記録します。」
ハクトは水たまりの位置を地図に写した。
『泥跳ね跡:水たまり周辺』
『泥蛙の出現地点候補』
ミサキはしゃがみかけて、すぐに止まった。
シアが見ていたからだ。
「見るだけ、ですよね。」
「うん、今日は採取じゃないよ。」
「はい、場所だけ見ます。」
ミサキはうなずいて、水たまりの横に生えている草を目で追った。
「水草みたいなのもあります。採れそうですけど、足場を見ないと危ないですね。」
「採れそうですか?」
「たぶん。でも、ここでしゃがむと、水面が見えにくくなります。」
ハクトはその言葉も書いた。
『採取候補:水草』
『採取時:しゃがむと水面確認が遅れる』
リクが横から小さく言った。
「採取用の袋だけじゃ足りないね。」
「泥用も必要?」
「うん。濡れたものと乾いたもの、分けた方がよさそう。」
ハクトはうなずいた。
リクの見ているものは、ハクトの地図とは違う。
でも、同じ場所を見ている。
橋の横へ続く細い下りが見えた。
橋の下へ降りるための道だが、道と呼べるほど整ってはいない。
けれど、人が何度か通ったような跡はある。
シアが足を止めた。
「降りられるね。」
「はい。でも、足元が湿っています。」
ハクトは探り棒で手前の土を軽く押した。
表面は固く見える。
けれど、少し力を入れると、先が沈んだ。
『橋下への下り道あり』
『足元湿り』
『草で石が見えにくい』
『水たまりあり』
カザミが下り道を見た。
「降りられるなら、行けるんじゃないか?」
「行けます。でも、行けることと、安全に戻れることは違うと思います。」
カザミは一瞬だけ黙った。
それから、短槍を軽く持ち直した。
「案内人っぽいな。」
「そういう職業なので。」
リクが少し笑った。
ハクトは少しだけ恥ずかしくなったが、地図から目を離さなかった。
オウガが盾を前に出した。
「先に足場を見るか?」
「はい。水辺までは降りずに、見えるところまででお願いします。」
シアがうなずく。
「その範囲ならいいよ。水際に足を入れないで。」
オウガがゆっくり前へ出た。
カザミは草むら側を見る。
ナオは橋の方を見ていたが、今度は勝手に前へ出なかった。
ハクトは下り道の横から、橋下を覗いた。
水は浅い。
でも、底は見えにくい。
濁っているわけではない。
水草と影で、どこが石でどこが泥なのかわかりづらい。
その時、水面が少しだけ揺れた。
ハクトは息を止めた。
『魔物情報:未確認』
表示が浮かんだ。
まだ名前は出ない。
「水面、動きました。」
「見えてる。」
シアの声が少し低くなる。
カザミが槍を構えた。
オウガが盾を水辺側へ向ける。
次の瞬間、浅瀬から細い影が跳ねた。
魚のような形。
けれど、口が大きい。
小さな牙が見えた。
それはカザミの足元へ飛びつこうとした。
カザミが短槍で払う。
魚影は水しぶきを散らして横へ落ちた。
『魔物名:水噛み魚』
『詳細情報:未登録』
水噛み魚。
浅瀬から跳ね、足元を狙う魔物。
ハクトは名前を見た瞬間、地図の端に書いた。
『水噛み魚:浅瀬から跳ねる』
『足元狙い』
水面がもう一度揺れた。
オウガが盾を下げる。
水しぶきが盾に当たり、ぱしゃりと音を立てた。
ナオが一歩前に出かけた。
「そこまで出ると、戻る道が狭くなります。」
ハクトの声が先に出た。
自分でも少し驚くくらい、はっきりした声だった。
ナオが止まった。
足を戻す。
シアが続ける。
「そう。倒しに行くんじゃなくて、確認する日。」
「……はい。」
ナオは剣に手を置いたまま、前へは出なかった。
カザミが水噛み魚を槍の柄で水辺から離す。
オウガが盾で水しぶきを受ける。
シアは横から見て、追い込む方向だけを短く指示した。
「深い方へ押さないで。こっちへ寄せすぎない。」
「わかった。」
水噛み魚はもう一度跳ねた。
カザミが払う。
今度は浅瀬の石に当たり、動きが止まった。
戦闘というほど長くはない。
けれど、足場の悪い場所で突然足元を狙われる怖さは十分だった。
ミサキが水面を見たまま言った。
「これ、採取中に来たら危ないですね。」
「はい。」
「しゃがんでいたら、足元に来るまで気づくのが遅れます。」
ハクトはそのまま記録した。
『採取時:しゃがむと水噛み魚に気づきにくい』
『水辺へ降りる時:足場と戻り道を先に確認』
リクが帳面に書く。
『水辺:濡れ物用袋が必要』
『採取時:手当て布は外側』
『水音、跳ね音に注意』
オウガが泥のついた盾を見た。
「強い魔物じゃないな。」
「はい。でも、ここで足を取られたら危ないと思います。」
ハクトが答えると、オウガはうなずいた。
「倒す敵より、場所が面倒か。」
「そうだと思います。」
橋下は、行けない場所ではない。
下り道はある、水辺もある、採取できそうな草もある。
でも、足元は湿っている。
水面は見えにくい、水噛み魚が浅瀬から跳ねる。
しゃがめば、水面を見るのが遅れる。
白い場所が、ただ白いだけではなくなっていく。
シアが周囲を見た。
「もう少し見られる?」
「見られると思います。」
カザミが言った。
「水噛み魚も、今のなら対応できる。」
ナオも少しだけ前を見る。
ミサキは水草の方を気にしている。
オウガは盾を構え直した。
ハクトは水面を見た。
さっきより小さな揺れがある。
草むらも、風とは少し違う揺れ方をした。
それに、人数分の足音が橋下の狭い場所に残っている。
行ける。
たぶん、もう少しなら行ける。
でも、今日は行けるかどうかを見る日ではない。
ハクトは地図を見た。
橋下、水辺、水噛み魚、湿った足元、戻る道。
そして、さっき自分で書いた言葉。
『戻る道を先に見る』
ハクトは顔を上げた。
「戻ります。」
カザミが少しだけ目を細めた。
「まだ行けそうだけどな。」
「行けると思います。でも、今日は行けるかどうかを見る日じゃなくて、危ない場所を知る日です。」
「……なるほど。」
カザミは短槍を下げた。
ナオは何か言いかけたが、シアが先にうなずいた。
「うん、戻るよ。ハクトが戻るって言った。」
その言葉で、全員の動きが決まった。
オウガが盾を引く、カザミが草むら側を見ながら下がる。
ナオは最後に橋下を見たが、足は前に出さなかった。
ミサキは水草から目を離し、リクの近くへ戻る。
リクがハクトの横に並んだ。
「止まったね。」
「……止まってくれてよかった。」
「言うの、迷った?」
「少し。でも、あのまま進むのは違うと思った。」
「うん、僕もそう思う。」
ハクトは小さくうなずいた。
言ってよかったと思えるのは、シアがすぐに受けてくれたからでもある。
戻り道では、行きと違うものが見えた。
水たまりは、南門へ戻る方向から見ると、橋側よりも広く見える。
草むらの影も、行きより深く見えた。
古い石標の位置は、帰る時の目印として思ったより目立つ。
ミサキが言った。
「帰る時の方が、水辺が見やすいですね。」
「はい、記録します。」
『帰路側から見える水辺あり』
『古い石標:帰路目印として有効』
ハクトは書きながら歩いた。
進む時に見えなかったものが、戻る時に見える。
だから、戻ることも探索なのだ。
南門詰所へ戻ると、ダレスが待っていた。
シアが先に報告する。
「橋下、降りる道はある。水辺も見えた。水噛み魚が出たよ。」
「怪我は。」
「なし。」
「水辺には。」
「降りてない。」
ダレスはうなずいた。
「ハクト。」
「はい。」
ハクトは地図を広げた。
橋下への下り道、湿った足元、水たまり、水噛み魚の出た浅瀬、採取候補の水草、帰路側から見える水辺。
順番に指で示しながら説明する。
「橋下へ降りる道はあります。通れない場所ではありません。」
「ただ、足元が湿っていて、草で石が見えにくいです。」
「浅瀬から水噛み魚が跳ねました。足元を狙います。」
「採取できそうな水草はあります。でも、しゃがむと水面の確認が遅れます。」
「橋下は行けます。ただ、何も知らずに降りると危ないと思います。」
ダレスは黙って聞いていた。
それから、地図を見たまま言った。
「封鎖するほどじゃない。だが、何も知らずに降りる場所でもないな。」
「はい。」
リクも帳面を開いた。
「濡れたもの用の袋、採取物用の袋、手当て布の位置は分けた方がいいです。あと、水辺に行く人は、鞄を地面に置かない方がいいと思います。」
「記録しておけ。」
「はい!」
ダレスは参加者たちへ視線を向けた。
「調査協力、ご苦労だった。報酬を出す。」
それぞれの前に、報酬表示が浮かぶ。
『調査協力報酬:10リル』
続いて、ハクトの前に別の表示が重なった。
『地図記録提出:5リル』
リクの前にも表示が出る。
『記録整理補助:5リル』
ハクトの報酬は15リル。
リクの報酬も15リル。
リクは小さく息を吐いた。
「これ、共有資産に入れますか?」
「うん、今回の調査の分だから。そうしようか!」
ハクトが答えると、リクはうなずいて帳面に書いた。
『調査協力報酬:ハクト15リル』
『調査協力報酬:リク15リル』
『共有資産へ:30リル』
さらに、リクは別の行を書き足す。
『小袋販売利益:4リル』
『共有資産へ追加』
合計34リル。
護衛費を払うために悩んでいた時とは違う。
今回は、詰所からの調査協力だった。
見て、記録して、戻ったからこそ得たお金だった。
カザミが短槍を肩に担ぎ直した。
「橋下、普通に行けると思ってたけど、面倒だな。」
「行ける場所ですね。でも、注意して行く場所だと思います。」
ハクトが答えると、カザミは少し笑った。
「また地図見るわ。」
「はい。」
オウガは盾の泥を落としながら言った。
「水辺は盾が濡れる。」
「濡れた盾って、重くなるんですか?」
「少しな。あと、滑る。」
「それも記録していいですか?」
「いいぞ。」
ナオは黙っていたが、最後に小さく言った。
「戻るって言うの、早いと思いました。」
「はい。」
「でも、戻ってから考えると、あれ以上行くと、僕は前に出てたと思います。」
「僕も、そう見えました。」
「……次は気をつけます。」
ハクトはうなずいた。
責める言葉ではない。
ナオも、それをわかっているようだった。
ミサキは水草のことをリクと話している。
「採取できるなら、袋を分けた方がよさそうですね。」
「うん。水辺用の小分け、作れるかも。」
「買います。」
「まだ試作だけどね。」
リクはそう言って、楽しそうに帳面へ書き込んだ。
ハクトはその横で、地図の最後に今日のまとめを書いた。
『橋下:通行可能。ただし、水辺警戒』
『水噛み魚:浅瀬から足元を狙う』
『採取時:しゃがむと水面確認が遅れる』
『帰路側から水辺確認可能』
『戻る判断:水面反応、草むら反応、人数分の音』
書き終えて、ハクトは地図を見つめた。
橋下は、行けない場所ではなかった。
道はある、水草もある。
たぶん、採れるものもある。
けれど、浅瀬には水噛み魚がいた。
足元は湿っていて、草に隠れた石もある。
しゃがんで採取すれば、水面を見るのが遅れる。
白い場所が消えたわけではない。
白かった場所に、危ない理由が書き込まれた。
ハクトは地図の端に、もう一度同じ言葉を書いた。
『橋下:通行可能。ただし、水辺警戒』
進める場所は、増えた。
同時に、戻るために見なければいけない場所も増えた。