作品タイトル不明
見えなくなる道
「実施する。」
ダレスの言葉で、ハクトは持っていた地図を少し強く握った。
南門詰所の中は、朝の空気がまだ残っていた。
外へ出る人の声は聞こえる。
けれど、詰所の中だけは少し静かだった。
机の前には、ダレス。
その横にガルド。
少し離れた壁際に、シアが立っている。
リクはハクトの隣で、帳面と共同資金の小袋を持っていた。
「橋の先の入口奥を確認する。ただし、奥まで進むとは言っていない。」
「はい。」
「入るとしても、浅いところまでだ。水音が遠くなったら、それ以上は進むな。」
「はい。」
「護衛費は詰所が持つ。報酬は出ない。記録提出は必須。」
「はい。」
ハクトの視界に、表示が浮かんだ。
『調査協力:入口奥確認』
『護衛費:詰所負担』
『報酬:なし』
『記録提出:必須』
『進入可否:現地判断』
報酬なし。
それでも、ハクトは断る気にはならなかった。
これは稼ぐための依頼ではない、道を知るための確認だった。
リクが共同資金の小袋を開きかけて、すぐに閉じた。
「買い足しはしません。」
「いいのか?」
ガルドが見る。
「手当て布はあります、携帯食も残っています、回復薬も匂い玉も使っていません。」
「金が増えたから買うわけじゃない、か。」
「はい、使えるように残します!」
ガルドは少しだけ口の端を動かした。
「悪くない。」
ダレスは貸与品を机の上へ置いた。
『貸与:滑り止め爪』
『貸与:目印布3本』
『貸与:細縄』
『貸与:簡易固定具』
ハクトはそれを確認し、自分の持ち物を見た。
地図、探り棒、目印布、道標札、手当て布、匂い玉、傷物の初級回復薬、携帯食。
増えたものは少ない。
けれど、何を持っているかは前より見えている。
「探り棒は?」
「持参します。前に使ったものです。」
「状態は見たか?」
「はい、先端と持ち手は確認しました。」
ダレスはうなずいた。
「道標札は1枚までだ。入口の奥には置くな。」
「はい。」
「目印布は残すために使うな。戻る時に見える場所へつけ、必要なら回収しろ。」
「はい。」
ガルドは全員を見てから言った。
「並びを確認する。俺が前、ハクトは足場と記録を見る、リクは道具を出す、シアは後ろと横を見る。」
「はい。」
「戦うための並びじゃない。戻るための並びだ。」
「はい。」
ハクトは地図の端に短く書いた。
『目的:入口奥の浅部確認』
『条件:現地判断』
『道標札:1枚まで』
『奥には置かない』
『戻るための並び』
南門が開いた。
朝の光が、街の外へ伸びていた。
昨日、南門前には小さな相談机があった。
今日はない。
けれど、そこで止まった人たちの記録は、地図の端に残っている。
止まる場所を作る、戻る場所を決める。
今日は、自分たちがそれを間違えないように歩く日だった。
「行くぞ。」
ガルドの声で、ハクトたちは南門を出た。
前にも歩いた道だった。
だから、全部が初めてではない。
南門の外縁、古い石標、途切れた街道、湿った土の匂い。
けれど、同じ道でも、持っている地図が変わると見え方が違った。
前は、どこまで進めるかを見ていた。
今日は、どこで止まるかを探している。
ハクトは探り棒を軽く持ち直した。
リクは目印布を出しやすい位置に入れている。
シアは何度も後ろを見ていた。
ガルドは前を歩きながら、足を置く場所を選んでいる。
古い橋が見えた。
水音が近くなる。
石の端に、前より薄く泥が残っている。
完全に乾いたわけではない。
でも、前より水は引いていた。
ガルドが橋の手前で止まる。
「滑り止め爪。」
「はい。」
ハクトは自分の滑り止め爪を確認した。
リクも貸与された滑り止め爪をつける。
シアが横から見て、短く言った。
「大丈夫、歩幅を小さく。」
「はい。」
橋に足を乗せる。
石が少し鳴った。
ハクトは探り棒で先をつつき、足を置く場所を決める。
前に膝を打った場所が近づく。
そこを通る時、体が自然に遅くなった。
痛みはもうない。
けれど、記録は残っている。
『経路記録:古い橋、前回記録と照合』
表示が小さく浮かんだ。
ハクトは息を吐いた。
怖さが消えたわけではない。
でも、前に危なかった場所を覚えている。
それだけで、足は少しだけ正しく動いた。
「止まるな、遅くしていい。」
ガルドが前から言った。
「はい。」
橋を渡り切る。
ハクトはすぐには前を見なかった。
振り返る、橋が見える。
南門側の道は、まだ遠いが見失っていない。
リクが小さく目印布を出した。
「使う?」
「はい、橋へ戻る時に見える場所にします。」
ハクトは入口へ向かう方向ではなく、橋を振り返った時に見える低い枝を選んだ。
リクから目印布を受け取る。
結び目は強すぎない、風で落ちない。
でも、帰りにほどける。
『橋向こう:目印布設置』
『帰路用』
『回収予定』
ガルドは何も言わずに待っていた。
シアは入口側ではなく、周囲の草の揺れを見ている。
「次。」
ガルドが歩き出す。
ハクトたちは、前に見た入口らしき場所へ向かった。
遠くから見えていた暗い口は、近づくと石の門ではなかった。
土と根が絡み、崩れた斜面の一部が口を開けている。
人が作った入口ではない。
けれど、ただの穴とも違う。
奥から、冷たい空気が細く流れていた。
ハクトは一歩手前で止まった。
橋の水音はまだ聞こえる。
振り返れば、橋も見える。
けれど、入口の中へ入れば、すぐに見えなくなりそうだった。
「道標札。」
ガルドが言った。
ハクトは道標札を取り出した。
入口のすぐ前に置こうとして、手を止める。
入口の前に置けば、ここが進む場所に見える。
それは違う。
ここは、戻るために見失ってはいけない場所だ。
ハクトは少し下がった。
橋が見える場所、入口も見える場所。
けれど、奥へ踏み込む印にはならない場所。
「ここにします。」
「理由は?」
「入口へ進む印ではなく、橋へ戻る基準にしたいからです。」
「いい。」
ハクトは道標札を置いた。
土に少しだけ押し込む。
倒れない。
でも、奥から見て誘うような位置ではない。
『道標札:入口手前』
『橋が見える位置』
『入口内には置かない』
『戻る基準』
リクがそれを帳面にも書いた。
「入口内には置かない、ですね。」
「はい。」
シアが入口を見た。
「音、変わるよ。」
「音、ですか?」
「入ると、水音が遠くなる。そうなったら、戻る方向を声だけで決めようとしないで。」
「はい。」
ガルドが入口の前に立った。
中を見て、少しだけ腰を落とす。
剣は抜いていない。
けれど、すぐ抜ける位置に手がある。
「入れる。」
「入るんですか?」
「少しだけだ。俺が先、ハクトは足元を見る、リクは入口の外寄り、シアは後ろ。」
「はい。」
ハクトは探り棒を握り直した。
入口に一歩入る。
その瞬間、音が変わった。
橋の水音が少し細くなる。
外の光も、背中側に寄った。
土の匂いが濃い。
湿った根が壁に這っている。
床は石ではなく、硬く踏み固められた土だった。
ハクトはすぐに振り返った。
橋は見える、道標札も見える。
目印布は、入口からだと少し見えにくいが、外へ出れば見える位置にある。
「まだ見えます。」
「何がだ。」
「橋と、道標札です。」
「よし。次の曲がりまでは行かない。」
ガルドが言った。
数歩進む。
外の光はまだ届いている。
けれど、奥は曲がっていて、そこから先は見えない。
ハクトは床を探り棒でつついた。
硬い。
その横に、少し柔らかい場所がある。
泥が薄く残っている。
そこに、小さな跡があった。
足跡。
人のものではない。
けれど、魔物の大きな爪跡でもない。
細い指のような跡が、奥へ向かって続いている。
ハクトは息を止めた。
「外へ出た跡じゃない……。」
リクが小さく聞く。
「どういうこと?」
「中へ向かっています。」
ガルドがしゃがみ、跡を見た。
「だな。」
シアも後ろから覗いた。
「新しい?」
「古くはない。」
ガルドは立ち上がった。
奥を見た。
そして、すぐに言おうとした。
その時、曲がり角の奥で、土が小さく崩れる音がした。
「下がれ。」
ガルドの声より早く、シアがリクの前へ出た。
暗がりから、細い影が一つ跳ねる。
小さな獣のような形。
長い爪だけが、外の光を受けて白く見えた。
シアが腕で受けた。
刃物ではない。
けれど、爪が革の袖を裂き、赤い線を残す。
ガルドの剣が短く動いた。
影は奥へ逃げる。
追える距離だった。
けれど、ガルドは追わなかった。
「追うな。」
「はい。」
ハクトは足が止まっていた。
今の影が何だったのか、はっきり見えなかった。
見えたのは、シアの腕にできた傷だけだった。
ガルドは奥へ逃げた影を追わなかった。
剣を構えたまま、ハクトを見た。
「判断は?」
ハクトは一瞬、奥を見た。
足跡は続いている。
影も、まだ近くにいる。
シアの腕には傷がある。
見たい。
でも、見るために進めば、戻る道が細くなる。
ハクトは探り棒を握り直した。
「戻ります。」
「理由は?」
「足跡があります、反応もありました。シアさんが怪我をしています。これ以上は、浅い確認じゃありません。」
ガルドは短くうなずいた。
「いい、下がるぞ。」
その時、奥でまた小さな音がした。
逃げた影が、完全には離れていない。
曲がり角の向こうで、土を掻くような音がする。
シアがリクを背にかばった。
「もう一回来るかも。」
ハクトは袋の中を探った。
手当て布、回復薬、目印布、匂い玉。
匂い玉は、進むために使うものではない。
戻るために使うものだ。
なら、今だった。
「匂い玉、使います。」
ハクトは匂い玉を握った。
奥へ投げれば、影は奥へ下がるかもしれない。
けれど、それを確認するには、奥を見なければならない。
見れば、足が止まる。
追えそうに見えれば、判断が鈍る。
戻る道へ投げるのはもっとだめだ。
匂いに寄られれば、出口が塞がる。
だから、奥でも戻り道でもない場所。
曲がり角の手前、横の壁際。
ハクトはそこへ匂い玉を投げた。
匂い玉が土に当たり、ころんと転がった。
次の瞬間、湿った土の匂いの中に、強い獣避けのような匂いが広がる。
曲がり角の奥で、影が止まった。
爪が土を掻く音が、横へずれる。
「今だ、下がれ。」
ガルドが言った。
シアがリクを下がらせる。
ハクトは探り棒を持ったまま、足元を見て下がった。
奥を見るな、足元を見る。
道標札が見える位置まで戻る。
影は追ってこなかった。
匂い玉の方で、短く土を引っかく音だけがした。
入口の外へ出た瞬間、橋の水音が戻ってきた。
ハクトはそこでようやく息を吐いた。
『匂い玉:使用』
『用途:撤退補助』
『回収不可』
ハクトは表示を見た。
匂い玉はなくなった。
でも、戻る時間を作った。
「悪くない。」
ガルドが短く言った。
「だが、投げる場所を間違えるな。奥へ投げれば、視線を奥へ誘う。戻る道へ投げれば、戻る道を潰す。」
「はい。」
「今の位置ならいい、横へずらした。」
「はい。」
ハクトはうなずいた。
進むための道具ではない、倒すための道具でもない。
戻るために、魔物の向きをずらす道具だった。
入口の外で、シアが腕を見た。
血は多くない。
けれど、爪の跡は細く深かった。
「手当て布!」
リクがすぐに布を出す。
ハクトは傷を見た。
浅い、と言い切れない。
入口の中で受けた傷だ。
何の魔物かもわからない。
「手当て布だけでいいですか?」
「薬だ。」
ガルドが言った。
「初級回復薬を使え。」
「はい。」
ハクトは傷物の初級回復薬を取り出した。
瓶には細い傷がある、中身は濁っていない。
ラナの言葉を思い出す。
使わずに戻れるのが一番。
でも、使うなら、今だった。
シアは腕を差し出した。
「大げさじゃない?」
「入口の中でついた傷だ。軽く見るな。」
ガルドが言うと、シアは肩をすくめた。
「はいはい。」
ハクトは回復薬を使った。
薄い光が傷に染み、赤い線が少しずつ閉じていく。
完全に何もなかったようにはならない。
けれど、血は止まった。
リクが手当て布を重ねる。
『傷物の初級回復薬:使用』
『対象:シア』
『傷:爪による裂傷』
『手当て布:1枚使用』
ハクトはその表示を見て、喉が少し詰まった。
使わずに戻れるのが一番。
でも、使うべき時に使えなければ、持っている意味がない。
ガルドは入口の奥を見ずに言った。
「ここまでだ。」
「はい。」
「足跡がある。反応もあった。護衛に傷が出た。これ以上は、浅部確認じゃない。」
「はい。」
「見つけたら進むんじゃない。見つけたから戻る。」
「はい。」
ハクトは地図を開いた。
手が少し震えていた。
けれど、線は引ける。
『入口内:浅部確認』
『橋が見える範囲まで』
『奥へ向かう小さな足跡』
『小型の影、接触あり』
『シア負傷、回復薬使用』
『匂い玉使用、回収不可』
『追跡せず』
『戻る』
リクも帳面に同じ内容を写した。
「戻ります。」
「そうだ。」
入口を離れる。
道標札が見える。
橋が見える。
目印布も、橋へ戻る方向にある。
ハクトは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
戻るものが見える。
それだけで、暗い入口の印象が少し変わる。
「道標札は残す。」
「はい。」
「目印布は帰りに回収だ。」
「はい。」
橋へ戻る途中、ハクトは何度も振り返った。
入口、道標札、橋、目印布。
見る順番を間違えないようにする。
進むためではなく、戻るために。
橋の向こう側へ戻ったところで、リクが目印布をほどいた。
布は少し湿っていたが、使えなくはない。
リクはそれを別の袋に入れる。
『目印布:1本使用、回収』
『要乾燥』
ハクトは橋の手前で、最後に入口の方を見た。
もう暗い口は小さくしか見えない。
けれど、地図の中では少しだけ形を持った。
白い場所は、入口の形を持った。
その奥は、まだ白い。
でも、ただの白ではなくなった。
足跡がある、曲がり角がある、小さな影がいる。
進んではいけない理由がある。
南門詰所へ戻ると、ダレスはすぐに報告を求めた。
ハクトは地図を広げた。
リクは帳面を開く。
「入口内は浅部のみ確認しました。」
「橋は見えたか?」
「はい。最初の範囲では見えました。曲がり角より先は未確認です。」
「足跡は?」
「奥へ向かっていました。追跡はしていません。」
「接触は?」
「ありました。小型の影です。シアさんが負傷しました。」
「処置は?」
「初級回復薬と手当て布を使いました。」
「匂い玉は?」
「撤退補助に使いました。回収できていません。」
ダレスは地図を見た。
ガルドが短く補足する。
「判断は戻りで問題ない、奥は別扱いだ。」
「そうだな。」
ダレスは少し黙ってから、ハクトの地図の一点を指した。
「ここまでが、お前たちの見た道だ。」
「はい。」
「ここから先は、お前たちの道ではない。」
「はい。」
その言葉は、冷たくはなかった。
ただ、線を引く言葉だった。
ハクトはうなずいた。
「でも、ここまでは案内できます。」
「そうだ。」
ダレスは地図を閉じずに言った。
「入口奥は、こちらで調査を組む。お前たちは、入口までの記録を清書しろ。」
「はい。」
「橋、入口手前、道標札の位置、足跡を見つけた場所。接触した場所。全部だ。」
「はい。」
視界に表示が浮かぶ。
『調査協力:入口奥確認』
『記録提出:未完了』
『入口浅部確認:達成』
『入口奥:未確認』
『使用:匂い玉』
『使用:傷物の初級回復薬』
『使用:手当て布1枚』
ハクトは地図の端に、もう一行を書いた。
『今日は、奥を見つけた日』
『追わずに戻った日』
進めることと、進むことは違う。
入れることと、入っていいことも違う。
白い場所はまだ残っている。
けれど、そこへ続く戻れる道は、確かに少しだけ増えていた。