作品タイトル不明
地図と信用
ハクトは冒険者詰所の端の席で、地図を広げていた。
朝の詰所は、昨日より少し落ち着いている。
依頼札を見上げるプレイヤー、受付に並ぶ冒険者、壁際で装備を確認する人。
それぞれが、自分の今日を始めようとしていた。
ハクトの地図も、昨日までのものとは少し違っていた。
南門前外縁、東門前広場、水門小屋、西倉庫、染物通り、古い井戸。
細い線と短い文字が、少しずつ地図の空白を埋めている。
まだ完成には遠い。
けれど、最初にこの街へ来た時の地図とは、もう同じではなかった。
ハクトは地図の端に、昨日書いた文字を見る。
戻る道、目印、混みやすい道、荷物があると通りにくい道。
草が高い場所、小型魔物が出た場所。
どれも、進むためだけの情報ではない。
戻るための情報でもある。
《帰路確認》
その感覚は、今もまだ少し残っていた。
道が光るわけではない。
正解の矢印が見えるわけでもない。
ただ、自分がどこから来たのか、どこを通れば戻れるのか、それを意識しやすくなる。
派手ではない。
でも、ハクトには必要なスキルだった。
「お待たせ!」
声がして、ハクトは顔を上げた。
リクが袋を肩にかけて立っていた。
昨日より荷物が少し増えているように見える。
けれど、袋の形は整っていて、中で物がばらついている感じはない。
「お疲れさまです。」
「そっちこそ!やっぱり、地図が増えてるね!」
「増えました。」
リクは向かいの席に座り、地図をのぞき込んだ。
視線が、南門前外縁から西倉庫、染物通りへと動く。
「昨日、かなり歩いた?」
「はい。外縁の案内と、街中の依頼を少し。」
「外にも出たんだ。」
「南門から見える範囲だけです。街道側には入りませんでした。」
「それならよかった!」
リクの声は軽い。
けれど、安心したようにも聞こえた。
ハクトは地図の南側を指で示す。
「ここが南門前外縁です。昨日は、初心者の2人を案内しました。」
「初心者の案内?」
「はい、植生調査の補助です。指定された植物を確認して、街道側には進まずに戻りました。」
「外縁まで行って、ちゃんと戻ってきたんだ。」
「戻るところまでが探索ですから。」
リクは少し笑った。
「それ、いい言葉だよね!」
「はい。昨日、少し実感しました。」
ハクトは地図を見下ろした。
トウマが前に出すぎそうになった場所。
エナが植物に集中しすぎて、周囲への注意が薄くなった場所。
草の奥で何かが動いた場所。
全部を完璧に説明できるわけではない。
けれど、地図には残っている。
「それで、案内人の職業レベルが3になりました。」
「おお!レベル上がったんだ!」
「はい、《帰路確認》というスキルを覚えました。」
「帰路確認。……戻る道のスキル?」
「たぶん、そうです。進む道を見つけるというより、戻る道を忘れにくくなる感じです。」
「案内人っぽいね!というか、ハクトっぽい!」
ハクトは少しだけ考える。
「俺っぽいですか?」
「うん。無理に先へ行くより、戻ることをちゃんと考えるところ!」
「……それは、褒めていますか?」
「もちろんっ!」
リクは当然のように言った。
ハクトは少しだけ目を伏せる。
戦えるようになったわけではない。
強い魔物を倒したわけでもない。
それでも、リクがそう言ってくれると、昨日の行動が少しだけ確かなものに思えた。
「俺には、たぶんこっちの方が必要なんだと思います。」
「うん。橋の先に行くなら、なおさらね!」
リクは自分の袋を軽く叩いた。
「僕の方も、少し進んだよ!」
「商売ですか?」
「商売だねっ!大きく稼げたわけじゃないけど、次に使えそうなものも見つけたよ!」
リクは袋から、小さな木札を1枚取り出した。
そこには、短い文字と印が書かれている。
「ほら見て!採取用小分けセットを作ったんだ!」
「小分けセット?」
「そう!小袋3つ、木札3枚、革ひも1本を使って、依頼品、自分用、不明品に分けるためのセット!」
「便利そうですね。」
「でしょ〜!初心者が何を買えばいいかわからなくて迷ってたから、マルタさんに相談して作ってみたんだ!」
ハクトは木札を見る。
依頼品、自分用、不明。
それぞれに違う印がついている。
文字が読めなくても、ある程度見分けられそうだった。
「これ、リクが考えたんですか?」
「うん。まあ、困っている人を見て思いついただけだけど!」
「それを形にできるのがすごいと思います。」
「そう言われると、ちょっと照れるね……!」
リクは軽く笑った。
けれど、その表情には昨日の成果が残っている。
ただ儲けたというより、自分の考えたものが役に立ったことを喜んでいるようだった。
「3セット作って、全部売れた!」
「全部ですか。」
「最初に2つ売れて、最後の1つは、使った人がもう1つ欲しいって戻ってきたんだ。」
「それは……信用されたんですね。」
「たぶん、少しだけね。」
リクは木札を指先で回した。
「売れたのも嬉しかったけど、必要になって戻って買ってくれたのが一番嬉しかったかな!」
「リクらしいです。」
「そう?」
「はい。売るだけじゃなくて、使う人のことを考えている感じがします。」
リクは少し目を丸くした。
それから、照れたように視線をそらす。
「……ハクトも、けっこうまっすぐ言うよね。」
「そうですか?」
「そうだよっ!」
リクは咳払いをするように、話を切り替えた。
「それで、僕も商人 Lv.3になった。」
「おめでとうございます。」
「ありがとう。《小口取引》ってスキルを覚えたよ。」
「どんなスキルですか?」
「小さな売買とか、手数料つきの受け渡しとか、少額の条件を整理して伝えやすくなるみたい。」
「小分けセットに合っていますね。」
「うん、僕もそう思った。」
リクは袋の中を軽く整理する。
その動きは、前より少し手慣れているように見えた。
「大きな商売じゃないけど、小さい取引をちゃんと積む感じ!」
「リクの商人としての形ですね。」
「たぶんねっ!」
ハクトは地図を見る。
リクは木札を見る。
少しの間、2人の間に静かな時間が流れた。
同じ場所へ向かうために、別々のことをしていた。
ハクトは道を増やした。
リクは信用とリルの流れを作った。
それが、今ここで少しずつ重なっている。
「そういえば、ほかの商人の人の話も聞いたよ。」
「ほかの商人?」
「うん。市場で、値引き交渉系のスキルを覚えた人がいるらしい。」
「値引き交渉。」
「同じ商人でも、覚えるものが違うみたい。僕は《簡易精算》と《小口取引》だったけど。」
「行動で変わるんでしょうか。」
「たぶん。僕は大きく値切るより、小さい取引を整理してたから。」
ハクトは自分のスキルを思い返す。
《聞き上手》
《経路記録》
《帰路確認》
もし別の案内人がいるなら、違うスキルを覚えるのかもしれない。
近道を探す案内人、危険地帯を進む案内人、大人数を誘導する案内人。
同じ職業でも、歩き方が違えば、伸び方も違う。
「案内人も、そうかもしれません。」
「ハクトの場合は、戻る方向に伸びた?」
「はい、たぶん。」
「いいと思う。橋の先へ行くなら、戻れる人が必要だし!」
その言葉に、ハクトはうなずいた。
橋の先、まだ見ていない道、古い橋の向こう。
そこへ進むことだけを考えれば、怖さが強くなる。
けれど、戻る準備も一緒に考えるなら、少しだけ前を向ける。
「次は、お金の整理ですね。」
「うん、そこは僕の出番かな!」
リクは小さな帳面を取り出した。
ハクトも自分のリルを確認する。
「前の確認だと、ハクトが63リル、僕が67リル、共同資金はすっからかんだったよね!」
「はい。」
「ハクトは昨日の報酬が38リル。だから、今は101リル。」
「そうですね。」
「僕は、小分けセットの利益が6リル。届け物と注文取りで10リル。あと、注文をまとめた紹介料が6リルで22リル。」
「紹介料もあったんですか?」
「うん。マルタさんが、次の注文につながるならって少し足してくれた!」
リクは帳面の端を指で押さえた。
「そのあと、市場の小口の頼まれごとをいくつか回したんだ。荷物を分けたり、注文を伝えたり、受け取りを確認したり。それが合わせて20リル!」
ハクトは少し目を丸くした。
「けっこう働いていますね。」
「うん。大きい仕事じゃないけど、細かい仕事をまとめるとそれくらいになるみたい。」
「合計で42リルですね。」
「そう。だから、僕は109リル。」
「やっぱり、商人ですね。」
「そこは少し頑張ったからね。」
リクは少しだけ得意そうに笑った。
ハクトも自然に笑った。
同じ1日でも、稼ぎ方が違う。
ハクトは道を増やした。
リクはリルの流れを増やした。
それぞれの成果が、数字にも出ていた。
「共同資金はどうしますか?」
「25リルずつでどう?」
「大丈夫です。」
「ハクトは101リルから25リル出して、残り76リル。」
「はい。」
「僕は109リルから25リル出して、残り84リル。」
「共同資金は50リルですね。」
「うん、0よりかなりいい!」
ハクトは共同資金用の小袋に、25リルを入れた。
リクも同じように25リルを入れる。
小袋が少し重くなった。
それだけで、次へ進む準備が少し形になったような気がした。
「50リルあれば、何ができますか?」
「全部は無理!でも、少しは選べる!」
「護衛、道具、食料、回復薬。」
「あと、情報っ!」
「情報にもお金がかかりますね。」
「うん、地図の写しもそうだったもんね!」
リクは帳面を閉じた。
「まず、ガルドさんの予定を確認しよう!」
「はい。」
「ガルドさんが無理なら、ほかの護衛候補も見ないといけない。」
「前に話しましたね。魔物を倒したい人と、依頼人を守って戻る人は違う。」
「そう。橋の先に行くなら、強いだけじゃなくて、戻る判断を一緒にしてくれる人がいい。」
ハクトはその言葉を地図の端に書きそうになった。
けれど、今は話し合いの途中だ。
代わりに、心の中で覚えておく。
「道具はどうしますか?」
「回復薬は少し欲しい。食料も必要。あと、僕の小分けセット、自分たち用にも作ろうか。」
「採取用ですか?」
「採取だけじゃなくて、拾ったものや依頼品を分けるのに使えると思う。」
「橋の先で何か見つけるかもしれませんしね。」
「うん。混ざって困るより、最初から分けられる方がいい。」
ハクトはうなずいた。
リクの小分けセットは、ただの商品ではない。
次の探索にも使える準備だ。
昨日のリクの商売が、そのまま2人の冒険につながっている。
「それから、細縄も考えたいです。」
「前に見たやつ?」
「はい。目印というより、段差や足元の確認に使えるかもしれません。」
「なるほど、戻る道具、だね!」
「戻る道具。」
「ハクト、そういうの好きでしょ?」
「好きというか、必要だと思います。」
「ふふ、そこがハクトっぽいっ!」
リクはそう言って笑った。
ハクトも少しだけ笑う。
「でも、買いすぎるとまたリルが減るね。」
「共同資金50リルも、すぐ使い切りそうです。」
「だから、順番を決めよう!」
リクは指を折って数える。
「1つ目、ガルドさんの予定確認!」
「はい。」
「2つ目、護衛候補の確認!」
「はい。」
「3つ目、最低限の道具と食料の価格確認!」
「買うのはその後ですね。」
「そう、見るだけで買わないのも商人の仕事だからね!」
「昨日のリクの経験ですね。」
「うんっ!」
2人は立ち上がった。
ハクトは地図を丁寧に丸める。
リクは帳面と小袋をしまう。
地図と信用。
リルと経験。
昨日それぞれが増やしたものは、まだ小さい。
でも、橋の先へ進むための土台にはなる。
冒険者詰所の中では、依頼札を選ぶ人たちの声が聞こえていた。
外へ出る依頼、街中の届け物、採取、護衛。
それぞれの仕事が、今日も並んでいる。
ハクトは掲示板を見る前に、受付の方へ視線を向けた。
「まずは、ガルドさんの予定を確認しましょう。」
「うん、そこからだね。」
リクが隣に並ぶ。
昨日は別々に動いた。
今日は、また2人で動く。
ハクトは地図を持つ手に、少しだけ力を込めた。
進む準備、戻る準備。
その両方をそろえてから、橋の先へ向かう。
急がなくていい。
けれど、止まっているわけでもない。
ハクトとリクは、冒険者詰所の受付へ向かって歩き出した。