軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

8-6 相模 玉縄城2-3

戻ってきた承菊は、通常運転だった。

朗らかな笑顔、周囲に蝶々でも飛んでいそうな雰囲気。何も知らない者なら、承菊がそこに存在するだけで空気が浄化すると感じそうだ。

だが付き従う庵原家の面々は顔色が悪かった。

孫九郎は、少し離れた場所にいる渋沢に目を向けた。

何か起こったか見ていたはずだが、無言のまますっと視線がそらされた。

「どうだった」

観察してもよくわからないので、尋ねてみる。

ニコリと、鳥肌が立つような笑顔が返ってきた。

「あちらさまも、わかってくださいました」

「……わかって?」

恐る恐る続きの言葉を待っていると、承菊は口元に手を当てた。

「ふふふっ」と思い出し笑いをして、庵原衆がますます視線を泳がせている。

孫九郎は軽く咳ばらいをした。

「最初から最後まで、何を話したか言え」

「もちろんでございます」

意外にも、その報告は極めて常識的なはじまりだった。

まず、訪問者は別当様の使いと名乗ったそうだ。この時代は神仏習合が当たり前で、鶴見八幡宮にも仏教と神道とが同時にある。

別当様の使いということは、仏教側の使者ということだ。

あちらの主張は、まず武力で北条を追い払ったことへの非難と、鎌倉を荒らすなど認めないという、上から目線のものだった。

下手に出ては足元をみられると考えたからに違いないが、承菊相手によく言えたものだ。

承菊はおそらく、この笑顔のままで最後まで主張を聞いたのだろう。

そして返したのは、この戦は今川家がはじめたものではないこと。北条家とて御家人をしていた先々代が起こした新興国で、もともとあった国を攻め取って広げたものであること。そもそも小田原をおさめるのは北条家の者であること。

理路整然と、というよりも当たり障りのない言葉で今川の立場を説明したそうだ。

あちらの主張は明白で、鎌倉は己らのものだから手を出すなという威嚇。

対して承菊は、「ではそのように」と穏便に返した。

「……それだけか?」

孫九郎は、絶対に違うだろうと言いたいのを我慢して問いかけた。

承菊は笑みを深めて、「はい」と頷く。

「御屋形様のお考えに従い、話をまとめてまいりました」

だったらそれでいい。とは言えなかった。

ではなぜ庵原衆はあんなにも顔色を悪くして、渋沢は視線を泳がせているのだ。

追求するべきだと判断して口を開きかけた時、初めて気づいた。

承菊の法衣の袖が、大きく切り裂かれていることに。

部屋が暗くて分からなかった。法衣が黒かったのもある。

すっと血の気が下がった。

改めて承菊を見る。

人当たりがよく、たいていの人間に好印象を持たれる男だ。

それが……切りつけられた?

孫九郎が問おうとしたところで、渋沢が咳ばらいをした。

よそを向いていた視線がこちらを見て、わずかに見える口元がもごもごと動いている。

それを見て、大勢の目があるこの場での詰問はよくないと自制した。

「……わかった。ご苦労だった」

なんとか言葉をひねり出してそう言うと、承菊はニコリと笑みを深めた。

ずっと笑っている。

そのことに、背筋が冷えた。

人はたいてい、笑顔を向けられると笑顔を返すものだ。

だが、敏い者はその奥にある本心に気づくし、その落差に逆上することもある。

改めて渋沢から受けた報告によると、承菊に何かを耳打ちされた鎌倉からの訪問者が、急に逆上したのだそうだ。

きわめて漠然としたものだったが、「何かを言って怒らせたのだろう」という想像は遠からずのようだ。

渋沢の顔を見る。頬あてでよく見えないが、視線が定まらない。

この男らしくない。

「誰も負傷はしておらぬのだな?」

鎌倉側も、こちらも。

孫九郎の問いかけに、渋沢は小刻みに顔を上下させた。

「渋沢」

向き合う男に、短く問う。

「正直に言え」

はっと息を飲んだのは、側で聞いていた土井だ。

藤次郎も次郎三郎もそのほかの側付きたちも、緊迫した表情で口をつぐんでいる。

「怒らぬ故、仔細もらさずだ」

渋沢はしばらくためらっていたが、やがて小さく息を吐いた。

「目に余るほど、尊大な者たちでした」

ここからは、口下手な男の言っていることをなんとか整理した内容だ。

初対面、今川軍の代表として現れた承菊をみて、相手側はあきらかに落胆したそうだ。落胆というのは穏便すぎるいい方で、実際は侮辱するような言葉を吐かれたのだと思う。

さらに相手側の代表者は、承菊の整った容姿について言及し、口には出来ないような戯言(そこは絶対に口を割らなかった)をのたまい、更には孫九郎についても、話し合いに出てこないことを「不誠実」「臆病」「八幡菩薩への非礼」と誹った。

それらの暴言を承菊はあの笑顔のまま聞いて、笑顔のまま交渉に入り、笑顔のまま相手の言い分を受け入れた。

それはおそらく、想定内の条件だったからだと思うが、問題はその後だ。

何故か承菊を気に入った風の使者が、話し合いがひと段落付いたところで承菊に近づいてきて、その肩に手を置いた。

そして、武家に仕えるなどもったいない。我らのもとに来ぬかと堂々と勧誘してきたそうだ。

顔をしかめたのは孫九郎だけではないだろう。

大勢の目がある場でのことなので、冗談だったと言い張ればそれで通る。だが、そこから承菊の袖が裂けている結果を結び付けるのは簡単だった。

「……承菊は」

「もちろん断りました」

あの目でじっと相手を見返して、すっと顔を近づけ、禿げ頭の耳元で一言、二言囁いたのだそうだ。

代表者は瞬間的に激怒した。そして、手に持っていた刀で承菊に切りつけた。

僧侶のはずの代表者が、武器を所持していたことについてはさておき。

承菊はそれでも笑顔だったそうだ。

「相手側が刀を抜いたのだな」

「はい。それは間違いなく」

「こちらは」

「抜いておりません」

それは奇しくも、古河公方の軍勢相手に目論んだのと同じ内容だった。

孫九郎は失敗し、承菊は上手くやった。つまりはそういうことだ。

孫九郎は長く息を吐いた。

「では、抗議文を書くべきだな」

ここで何も言わずに収めるわけにはいかない。……穏便にすませたかったのに。

承菊は最初から、そのつもりはなかったのだろう。

ちなみに、庵原衆が青ざめていたのは、切りつけられた後の承菊の、相手方に対する問答無用の圧が容赦なかったからだそうだ。

渋沢が言いにくそうにしていたのは、そこでの承菊の台詞が極めて「個人的な内容」だったからだそうだが……個人的? よくわからない。

誰か説明してくれと周囲を見回してみたが、そろって目を逸らされた。