軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

番外編 眠れない夜に

レオナルドは魔物を国境から守る次期辺境伯として、幼少から厳しく育てられてきた。

国境を越えて押し寄せる魔物の脅威。その最前線に立つ辺境伯家の嫡子として、彼に与えられたのは――剣と規律、そして容赦のない鍛錬の日々だった。

まだ幼い手には重すぎる木剣を握らされ、早朝から振り続ける。腕が震え、指の感覚が消えても、止めることは許されなかった。

「立て! これきしのことで諦めるんじゃない!」

項垂れる頭上に、冷たい声が降る。

父は常に厳格で、そこに情けはなかった。転べば叱責され、遅れれば罰を与えられる。褒められた記憶など、ひとつとして思い出せない。

――強くあれ。それだけが、彼に与えられた価値だった。

けれどーーそんな彼にも、かつては子どもでいられた時間があった。

眠りつく前の、ほんのひととき。広い寝台の上、蝋燭の橙色の灯りに包まれながら、母の膝に頭を預ける時間だけはすべてを忘れることができた。

優しく頁をめくる音と、穏やかな声。

「……それで、勇者は――」

物語の中の勇者は、いつだって誰かを守るために剣を取った。恐ろしい魔物と対峙するはずの物語も、母の声で語られると、決して恐ろしいものではなく、どこか温かく、救いに満ちていた。

白く細い指が彼の黒い髪を撫でるたび、胸の奥に張り詰めていた緊張がほどけていく。あの時間だけは、戦うことも、強くあることも、求められなかった。ただ、愛されていた。

けれど、その穏やか時間はあまりにも早く失われた。

身体の弱かった母は重い病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

葬式でさえ、レオナルドは涙を流すことを許されなかった。瞼の奥が焼けるように熱を帯びても、決して零すまいと歯を食いしばる。辺境伯の嫡子として、人前で弱さを見せることは恥だと教えられてきたからだ。

父は変わらず厳しく、むしろ以前よりも言葉を発することが減ったように思えた。

大切な家族を、レオナルドにとっては母を、父にとっては妻を失ったというのに。同じ悲しみを分かち合うことはなかった。それどころか、その死に触れる事すらせず、話題は徹底して避けられた。代わりに与えられたのは、より苛烈さを増した鍛錬の日々。その背中はいっそう遠く、冷たくなったように感じられた、

使用人たちは優しく、親切にしてくれた。だが、肉親の愛とは違う。仕方ないとはいえ、主人と使用人。どこか一歩距離を置かれたものだった。

母が亡くなってからというものーー

夜が、長くなった。

眠れぬ夜。胸の奥にぽっかりと空いた穴が、じくじくと疼く。

そんな時、レオナルドはそっとベッドを抜け出した。足音を忍ばせ、冷たい回廊を歩き、辿り着くのは屋敷の奥――誰も訪れぬ図書館だった。

重たい扉を押し開けると、古い紙と革の匂いが迎えてくる。月明かりが窓から差し込み、埃の粒が静かに舞っていた。小さな手で本を引き抜き、椅子によじ登る。

頁をめくる音だけが、静寂に溶けていく。

そこには、かつて母が語ってくれた物語があった。勇者は今も変わらず、誰かを守る為に剣を取り、絶望のなかでも光を手放さずにいた。

母の声を思い出しながら、何度も、何度も。読み直した。失われた温もりを取り戻すかのように。

まるで、自分を慰めるように、孤独に沈みきらぬように。

母は言っていた。いつか愛する人が出来ると。

あの柔らかな夜の中で、ふと微笑みながら呟かれた言葉だった。

「――いつかね、レオナルド。あなたにも、心から大切にしたいと思える人ができるわ」

頁をめくる手を止め、彼は顔を上げた。

まだ幼いその瞳には、“愛する”という言葉の意味は、あまりにも曖昧で、遠いものだった。

「……守るべき民とは、違うのですか」

ぽつりと落とした問いに、母はくすりと小さく笑う。

「そうね。似ているけれど、違うわね。次期辺境伯になるあなたにとって、民は大切な存在だわ。でも……その人の笑顔を見たいとか、泣いてほしくないとか、そういう気持ちは……もっと、心の奥から生まれるものだから」

そっと、彼の頬に触れる指先は、ひどく優しかった。

「今は、義務でも。その人のためなら、強くなりたいと思える筈よ。苦しくても、痛くても、その人の為に逃げずにいたいと願えるのよ」

その言葉は、当時の彼には理解しきれなかった。

強くある理由は、すでに与えられていたからだ。国を守るため、民を守るため。それ以上の理由など、考えたこともなかった。

けれど。

「きっと、あなたにも現れるわ」

母の声は、まるで未来を見透かすように静かで、確信に満ちていた。

「あなたがどんなに不器用でも、どんなに言葉を知らなくても……その人は、ちゃんと気づいてくれる。あなたの優しさに」

その夜、彼は何も言い返せなかった。

ただ、胸の奥に、言葉にできない何かがそっと落ちていっただけだった。

――そして今。

あの声は、もうどこにもない。温もりも、指先の感触も、すべて失われてしまった。

けれど、不思議とその言葉だけは、消えることなく残り続けていた。剣を振るうたびに。血の匂いに包まれるたびに。ふとした静寂の隙間に、蘇る。

(……そんなものが、本当にあるのか)

愛する人など、自分には縁のないものだと思っていた。

守るべきものは、国と領民だ。それで十分だと。

そして、婚約者の令嬢との関係が上手くいかなかった時、レオナルドは確信に近い諦めを抱いた。

やはり、自分に愛しい人など現れないのではないか、と。

ああ言っていた母もまた、そうだった。領主である父は常に辺境を優先し、家庭を顧みる男ではない。辺境伯としては正しい姿なのだろう。だが、それで母は幸せだったのだろうか。

今となっては確認しようがない。

(結局、同じか。)

自分もまた、同じ道をたどるのだろう。

結婚しても。それは辺境を守るため。子供を成す為のものであって、愛のある結婚生活が送れるとは思えなかった。

そう、諦めていた時だった。

彼女が、現れた。

彼女は弱さを見せてもいいと言った。

強くあれ、と言われ続けてきた自分に向かってだ。

一瞬、何を言われたのか分からなかった。そんなことを、誰かに許されたことなど一度もなかったからだ。

弱さは隠すもの。見せれば、切り捨てられるもの。

けれど、どれだけ不格好でも、情けない姿を見せても、呆れるどころかーーそのすべてを受け止めてくれた。そのことに、どれだけ救われたか。

(……ああ。これがーー。愛する人がいるということは、こういう気持ちなのか……)

ようやく、母の言っていたことを理解する。

彼女が笑えば、胸の奥がやわらかくほどける。その笑顔を守れるのなら、どんなことでも叶えてやりたいと願ってしまう。

孤独だった戦いも、今は違う。

彼女を守る為になら、この身が砕けようとも構わないと心の底から思えた。それは命令でも義務でもなく、胸の内から湧き上がる衝動だった。

あれほど長く、孤独に閉ざされていた夜がーーもう怖くなくなった。彼女の存在が、彼の凍てついた心を溶かしていった。