作品タイトル不明
前途への船出
船に揺られて、もう1週間が過ぎていた。うららかな日差しは温かく、甲板でぼんやりと海面を眺めているヒカルは大きくあくびをした。
『やっ、少年。黄昏れてるじゃない』
『ああ……セリカか』
隣にやってきたセリカは、甲板の手すりに背中をもたせてヒカルに顔を向ける。風が吹いて彼女の黒く長い髪がふくらんだ。
日本語で話しかけてきても不審に思われないくらい——周囲には誰もいなかった。
この船は、平和が訪れ、しかも新ダンジョンが発見された 話題の(・・・) グランドリーム大陸から離れる船なのだ。乗客は少ない。
『彼女はいっしょじゃないの?』
『ラヴィアのこと? 相変わらず船酔いがひどくてポーラについててもらってる。そっちのお仲間は?』
『ソリューズとサーラがチェスみたいなゲームをやってるわ。シュフィが審判役』
『審判が必要なのか……チェスに』
『そうみたいよ。ルールが複雑すぎて覚える気もないわ』
ぐねっ、と頭を手すりの外へと出したセリカの、白い喉があらわになる。
『ねえ……あんた、もうちょっと気をつけなさいよ』
『なにが』
『あたしが葉月に会ってたとき、日本語で呼んだでしょ』
『————』
それはヒカルがシルバーフェイスだったときのことだ。
確かにあのとき、思わず、日本語で声を上げていたかもしれない。
『あんたの正体が何者でも構わないけど、ラヴィアちゃんたちに迷惑かけたら許さないから』
『な、なんでだよ……ていうかなんのことだよ』
『それでいいの。ちゃんとすっとぼけて。騙すならしっかり騙して。中途半端は許さないってこと。——ラヴィアちゃん、精霊魔法、すごいでしょ? だから親近感があるっていうの? 精霊について語り明かしたいっていうの?』
『なんて迷惑な……。でも、忠告は感謝する』
心底、そう思った。シルバーフェイスのことは隠し通さなければならない。いろいろと面倒ごとが多すぎるのだ。
『あのさ』
セリカはぽつりと言った。
『あの短い時間に……葉月にも、あんたのこと伝えた。向こうの世界でいっしょにいるのよ、って』
『……先輩はなんて?』
頭を起こしたセリカは、ふっ、と小さく笑う。
『あんたらしい、ってさ』
『……僕、らしい?』
どういう意味なのだろう。
『ええ。なんか、あたしが現れて——そりゃもう両親とか妹とかめちゃくちゃびっくりして、それで泣いたのよ。日本は、あたしがいなくなってから1年以上経ってたみたいだけど、なんとか受け入れてくれた』
よくこっちに戻ってきたな、と言いかけた。
ヒカルたちがあの亀裂の前にいたのは半日にも満たないが、それでセリカは亀裂まで戻ってきた。そうでなければ亀裂はさっさと閉まってしまい、セリカは戻ってこられなかっただろう。
セリカは最初から戻る気だった。
戻らなければならないと、強く思って日本へと向かったのだ。
ふつうなら、「一晩くらいいっしょにいよう」とか思うはずだ。
(……ほんとうに、ケリをつけるためだけに行ったのか)
あのとき、なにげないふうに見えたセリカの覚悟に今さら思い当たってヒカルは戦慄するような思いだった。
『でもさー、葉月の連絡先が家族の誰もわからなくて、もう会えないかもって思ったのよね。だから取るものとりあえずあの亀裂に向かったの……そうしたらそこに葉月がいるんだもん。びっくりしたわ』
『そう、だったのか……。あそこに呼んだわけではないんだ』
『再会を喜ぶ前に「なんでここにいるの!?」って聞いちゃったわよ。そしたらなんて言ったと思う?』
——彼が、いる気がして。ふらっとどこかに行ってしまった……大切な後輩がね。
葉月の声が、耳元によみがえったような気さえした。
瞳を閉じると彼女の優しげな、儚げな笑顔が思い出される。
『正直を言えば少し、妬けたわ。あたしじゃなくて、あんたのほうが葉月との結びつきが強いんだなって。それで向こうでたまに会うと伝えたら、ふらっと別の世界に行っちゃうなんてあんたらしいってさ』
『……僕は』
言いかけて、口を閉じた。
僕は、なんだ?
なにかを言おうとしたけれど言葉にならない。
ただ、言葉の代わりに、
『ヒカル……』
気遣わしげなセリカの声が聞こえてくる。その理由はわかっていた。大粒の涙がぽろりぽろりとヒカルの目からあふれてきたからだ。
あちらの世界でヒカルは死んだことになっているはずだ。セリカと違って、ヒカルは肉体が死んで、それから魂がこの世界にやってきたのだから。
(だというのに先輩は……僕の 存在(・・) を感じ取っていたんだ)
この感情は郷愁や未練ではなかった。
ただ—— 報われた(・・・・) 、とヒカルは思った。
日本で生まれ育った自分は何者でもなかった。だけれど、そんな自分を見ていてくれる人がいたのだ。
亀裂の向こうにいた葉月が、自分を見ていたように感じたのは気のせいではなかったのだ。
『こんなことになるなら、あんたも向こうに行けばよかったんじゃない?』
『いや、僕はあっちには行けなかった……はずだ』
ヒカルは目元を服の袖でこすった。
亀裂に手を触れたとき、手が通っていかなかった。
だけれど、セリカがこちらの世界に戻るときに伸ばした手は——。
(亀裂をすり抜けていた……?)
ハッとする。
世界をつなぐ力は、魂の結びつきによって起きる。あのとき、葉月が現れたから、ローランドの身体を持ったヒカルは通り抜けることができたのではないか、と。
『……僕は行かなくて、よかったんだ』
『そう』
セリカが空を見上げている。沈黙は、気まずくはなかった。
『そろそろ行くわ。あんたの彼女もこっちに出てきたみたいだし』
甲板の入口に、ラヴィアの姿が見えた。
『ねえ、セリカ。セリカとソリューズの 約束(・・) ってなに?』
歩き去ろうとする背中に問いかけると、
『——女の子同士の約束を聞くなんて、野暮もいいところよ』
にっ、と顔だけ振り向いたセリカは笑っていた。
野暮と簡単な言葉で片づけたが、おそらく彼女たちにとってとても重要な約束なのだろうことはわかった。セリカに、日本に戻るという意志をなくさせるくらいには——ソリューズは「他愛のない小さな約束」と言ったけれど。
セリカとラヴィアがすれ違った。
「ヒカル? セリカさんとなにを話していたの?」
「ああ……ちょっとね、野暮な話だよ」
ヒカルの左にラヴィアがやってくる。
少しだけヒカルの表情をうかがうようにしたのは、目元に涙がうっすら残っていたからかもしれない。
「それにしても『東方四星』はグランドリーム大陸に残らなくてよかったのかしら。新ダンジョン発見で、ますます冒険者の需要が高まるぞーって街は大騒ぎだったじゃない」
北限の地からヒカルたちが戻ったときには、ドリームメイカーの街は新ダンジョン発見の情報で大変な騒ぎだったのだ。
すぐさま「リンガの羽根ペン」で各国冒険者ギルドに話が伝わり、この船が向かっているヴィレオセアンの首都ヴィル=ツェントラには、冒険者だけでなく、新天地での商売をもくろんでいる商人たちも大量に押し寄せているのだとか。さらにはヴィル=ドリームにいるドリームメイカーの住民たちも故郷に戻りたがっており、船が何隻あっても足りない状況なのだとか。
凶暴な海棲モンスターも邪龍が死んだことでなりを潜めている可能性はあったが、それを確認するために「魔除けをしない」なんていうリスクはさすがに取れないので、渡航できる船の数は限られていた。
「さあ、彼女たちの考えることは僕にはわからないな」
答えながらヒカルは思う。それこそ、ソリューズとセリカの交わしていた「約束」になにか関係しているのではないか、と。
「それよりラヴィアの体調は大丈夫なのか?」
「うん……今は魔法が効いているから……」
ラヴィアの乗り物酔いはポーラの回復魔法によって抑えられてはいるが、こればかりは何度も掛けないとダメなようだ。冒険者と長距離移動は切っても切り離せない問題なので、なんとか解決できる方法があればいいのにとヒカルは思う。
ソウルボードでなんとかなりそうな気もしているのだが……ポイントは貴重なのでおいそれと実験できないのがもどかしい。
「そっか。これもなんとかしていかなきゃね」
「うん……訓練してどうにかなることなのかしら?」
「どうだろう。慣れって言う人もいるけど、ずっと慣れない人もいるみたいだし」
「でも、しばらくはじっとしていたいわ……」
ラヴィアの正直な言葉に、思わずヒカルは笑った。
「大丈夫だよ、向こうに着いたらやるんだろ? 図書館巡り」
ドリームメイカーに戻って「さてこれからどうする」となったときに、ラヴィアが言ったのだ。
「もっと本を読みたい!」と。
ヒカルとしても、ハードな戦いが続いたから休息が必要だった。それに、ヒカルの中ではむくむくと「この世界についてもっと知りたい」という気持ちが湧き起こっていた。
だから「図書館巡り」というのはすばらしいアイディアに感じられた。
ポーラは「図書館だったら、ラヴィアちゃんの乗り物酔いがなくなるような魔法についての本もあるかもしれませんね」とにっこり笑った。
彼女の親衛隊はドリームメイカーに置いてきた。いずれまたあちらの大陸に渡ることにもなるだろう。それまでは、すべてから解き放たれて自由でいたいとヒカルは思った。
「しばらくは、自由に生きよう」
手すりに手をついて空を見上げる——青い空が目に染みるようだった。
「んっ」
ラヴィアがヒカルに近寄って、腕をぎゅっと抱きしめる。
吹き抜ける風が気持ちよくて目を細める。
「まずはヴィレオセアンの図書館ねっ」
ラヴィアがむふーと息を吐く。
規模的に最大の図書館は、クインブランド皇国「国立図書館」か、ビオス宗主国の「聖教書庫」のどちらかだろうと言われているが、どの国にも首都には大きな図書館がある。お金はたっぷりあるから、片っ端から当たっていけばいい。
お金が足りなくなれば冒険者として活動して稼ごう。
そしてこの世界を知っていくのだ。
「きっと楽しくなる」
目の前に広がる大海原——その先にある可能性を確かに感じた。
まるで産み落とされたばかりの赤子が、初めて世界の光を目にしたときのように、ヒカルの目は輝いていた。
ほんとうの意味で自分は、この世界の住人になったのかもしれないと思った。
「ヒカル様! ラヴィアちゃん! こんなところにいたんですね!」
ポーラが甲板へと上がってきて、合流する。
(そう、この3人で行くんだ)
まだ知らない街、知らない景色、知らない知識がいっぱいある、この冒険にあふれた世界を歩んでいこう。
ヒカルたちを乗せた船はそれから2日後、新大陸に夢見る人々であふれかえる港町、ヴィル=ツェントラへと入港した。