軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 枯れ花と呼ばれる朝

朝の光は、残酷なほど平等に差し込んでくる。

昨夜どれほど傷ついても、世界は何も知らないように、東の窓から白い光を送り込んでくる。カーテンの隙間から一本の細い光の筋が伸びて、ミーナの寝台の端を、静かに照らしていた。

眠れなかった。

眠ろうとはした。目を閉じた。でも暗闇の中で、アルベルトの声が繰り返された。

——君は、もう三十歳だ。

その言葉は、深くて暗い、濁った灰色のようだった。胸の奥にゆっくりと流れ込んで、そこに沈んで、動かなかった。

ミーナは寝台の上で上半身を起こした。

窓の外、ヴェルダン家の庭が朝霧の中に浮かんでいる。白い薔薇が霧をまとって、輪郭が少しだけ曖昧になっていた。まるで夢の中の景色のようだった。

三十年間、自分はあの薔薇のようだと思っていた。

白く、端正で、見る人の目を喜ばせる存在。

でも今朝は、霧の中で形をなくしかけているその花が、妙に自分に重なって見えた。

薔薇は散るから美しいのだと、誰かが言っていた。

では、散り終えた薔薇は、何なのだろう。

朝食の席は、静かだった。

食卓は長い。楕円形のマホガニーのテーブルに、銀の燭台と白いリネンのテーブルクロス。ヴェルダン公爵家の朝食は、いつも形式通りに整えられていた。

父のエドモン・ヴェルダン公爵は、新聞を広げて向こう側に座っていた。六十二歳。白髪交じりの眉が太く、顎がしっかりとしていて、全体に重厚な印象を持つ人だ。公爵位に相応しい威厳を、長年かけて体に染み込ませてきた人でもある。

その父が、今朝は新聞をめくる手を止めた。

「……よく眠れたか」

「はい」

嘘だった。父もわかっているだろう。でも、それ以上は聞かなかった。

母のエリザ・ヴェルダンは、ミーナの正面に座っていた。薄い金髪に、青みがかった灰色の瞳。かつては社交界でも名の知れた美人だったと聞くが、今は静かな品の良さだけが残っている。その母が、紅茶のカップを両手で包むようにして、少し視線を落としていた。

三人分のカップの音だけが、食卓に小さく響いた。

(誰も何も言えないのだ)

ミーナは思った。

(慰める言葉も、謝る言葉も、誰も持っていない)

それは責めているのではなかった。ただ、そういうものだと思った。貴族社会において、女性が婚約解消されることは、本人ではなく家の問題だった。でも家として何かできるかというと、何もない。父が今更アルベルトに怒鳴り込むわけにもいかない。母が「あなたは悪くない」と言っても、社交界の現実は変わらない。

いつもなら笑い声にかき消されるはずのカトラリーの小さな金属音が、誰も口を開かないせいで、やけに鮮明に響いた。

パンを千切る。バターを塗る。紅茶を飲む。

それだけのことが、今朝は少し難しかった。

午前中、ミーナは自室に戻った。

窓際の椅子に座って、膝の上に何も置かなかった。ただ、窓の外を見ていた。

庭師が薔薇の手入れをしている。老いた庭師で、何十年もヴェルダン家に仕えている人だ。黙々と枝を切り、土を整えていた。薔薇に話しかけるように、時折口を動かしている気がした。

あの人は毎朝ああしているのだろう、とミーナは思った。

誰かに見られていても、いなくても。評価されても、されなくても。ただ、花のために、土に向かって、続けている。

十二年間。

ミーナも、続けていた。

戦争支援の物資集め。負傷兵への包帯と薬の手配。孤児院での読み書きの指導。補給管理の計算補佐。アルベルトへの手紙。毎月、一枚。

誰かに褒められたくてしたわけではなかった。でも、どこかで期待していた。

続けていれば、報われると。

良い令嬢でいれば、幸せになれると。

親がそう言っていたから。教師がそう言っていたから。社交界がそう言っていたから。

(あの頃の私は、どうしてそれを信じてしまったのだろう)

疑問は、責めるような鋭さではなかった。むしろ、霧の中を歩くような、柔らかい混乱だった。

間違っていたとは言い切れない。続けてきたことは、確かに誰かの役に立った。孤児院の子どもたちは文字を覚えた。負傷兵は手当てを受けた。補給は滞らなかった。

でも、その先に自分の幸せはなかった。

正しくしていれば幸せになれるというのは、誰が決めたのだろう。

そして、「正しい」とは、誰にとっての正しさなのだろう。

昼を過ぎた頃、母が部屋を訪ねてきた。

母・エリザは扉を小さくノックして、返事を待ってから入ってきた。いつもそうだ。母は決して、許可なく扉を開けない。そういう人だった。

「少しいいかしら」

「どうぞ」

母は椅子を引いて、ミーナの傍に座った。二人で窓の外を見た。しばらく、何も言わなかった。

庭師はまだ薔薇の手入れをしていた。

「あなたのお祖母様のことを、覚えている?」

不意に母が言った。

「……ぼんやりと、ですが。私が六歳の時に亡くなったりましたよね?」

「そう。あなたはよく懐いていたわ。膝の上に乗って、本を読んでもらって」

ミーナは少し、その頃の記憶を探した。白い髪の、小さな老女。暖炉の前の椅子。本のページをめくる、節くれだった指。

「お祖母様は、若い頃に一度婚約破棄されているの」

ミーナは母を見た。

「知らなかったでしょう。誰も話さなかったから。でも、あったのよ。十九歳の時に。相手の家の事情で、一方的に」

「知りませんでした。それで、どうなったのですか?」

「それで、二年後に今度はお祖父様と出会って、結婚した。お祖父様はよく言っていたわ。あの人の目が好きだったと。何があっても折れない目だと」

ミーナはそれを聞いて、少し沈黙した。

「お母様は、もしかして私を慰めようとしているのですか?」

「そうかもしれないわね」

母は正直に言った。

「でも、それだけではないの。あなたに伝えたいことがあるの」

母はミーナを見た。灰色の瞳が、静かで、でも揺れていた。

「私はあなたに、言われた通りに生きなさいと育てた。礼儀を守りなさい、婚約者を待ちなさい、良い令嬢でいなさいと。それが正しいと思っていたから」

「……はい」

「でも今、あなたを見ていて、思うことがあるの」

母は少し間を置いた。

「あなたの価値を、誰かの値踏みに委ねさせてはいけなかったわ。貴族としての矜持さえ胸にあれば、あとの生き方はあなた自身で決めてもいいのだと……もっと早く、教えてあげるべきだったのに」

ミーナは何も言えなかった。

窓の外で、白い薔薇が揺れた。風が吹いたのかもしれない。霧は晴れて、今は柔らかい秋の日差しが庭に落ちていた。

薔薇は揺れて、でも根は動かなかった。

「お母様」

「なあに?」

「私は……まだ、自分の価値が何なのか、わかっていません。わからないんです」

「そうね」

母はゆっくりと頷いた。「でも、わからなくていいと思う。今はまだ」

「えっ?分からなくても、いいんでしょうか?」

「わからないまま、それでも立っていられることが、今のあなたには必要なことだと思うから」

ミーナはその言葉を、胸の中でゆっくりと転がした。

わからないまま、立っている。

それは、今のミーナにできる、唯一のことかもしれなかった。

午後になって、外出した。

馬車は使わなかった。歩いた。ひとりで、帽子を被って、ヴェルダン家の裏門から王都の通りに出た。

王都の午後は、舞踏会の夜とは別の顔をしていた。

商人が荷車を引いている。子どもが走り回っている。パン屋の窓から焼けた香りが漂ってくる。石畳が、秋の光を反射して、くすんだ金色に輝いていた。

誰もミーナを「ヴェルダン令嬢」とは見なかった。帽子を被った、地味な色のコートの女性として、ただそこにいた。

それが今日は、少し楽だった。

値踏みされない。品定めされない。若いかどうか見られない。ただ通りを歩く、一人の人間として、石畳の上に立っていられる。

ミーナは孤児院へ向かった。

王都の北側、少し入り組んだ路地の奥にある、小さな孤児院だ。石造りの建物で、庭には子どもたちが植えた野菜が育っている。ミーナが十二年間、週に一度通い続けた場所だった。

門を入ると、すぐに声がした。

「ミーナ様!」

七歳のルカだ。茶色い巻き毛に、少し大きすぎる上着を着た男の子。孤児院に来て三年になる。最初は口をきかなかった子が、今はこうして飛んでくる。

「ルカ、走らない」

「でも来てくれたから! 昨日も来てくれると思って待ってたのに」

「昨日は少し、用事があって。ごめんなさいね」

ルカはミーナの手を両手で掴んだ。小さくて、温かい手だった。

「怒ってる? ミーナ様、顔が怒ってる顔じゃないけど、でも少し違う顔」

ミーナは思わず笑った。子どもの観察眼は、鋭い。

「怒っていないわ。ただ、少し疲れただけ」

「疲れた時は、ここに来るといいよ。僕がいるから。ねっ?」

七歳の男の子が、真面目な顔で言った。

その言葉が、不思議なほど、胸に沁みた。

大人の慰めではなかった。社交辞令でもなかった。ただ、「僕がいるから」という、真っ直ぐな言葉だった。

(この子は、私の年齢を見ていない)

ミーナは思った。

(魔力も、婚約も、家柄も、関係なく。ただ、ミーナ様、と呼んでくれる)

「そうね。ありがとう」とミーナは言った。「今日、ここに来てよかったわ」

読み書きの時間が始まると、子どもたちが円になって座った。

ミーナはいつも通り、板書きの文字を指しながら読み方を教えた。今日は「秋」という字だった。

ルカの隣に座る五歳のエナが、文字を書こうとして何度も止まっていた。手が小さくて、炭の棒をうまく握れないのだ。

ミーナはそっとエナの隣に膝をついて、後ろから手を添えた。

その瞬間、自分の指先が、ほんのわずかに温かくなった。

気のせいかと思った。でも違った。エナの手を包むように添えたミーナの指先から、かすかな光が漏れていた。琥珀色の、ごく淡い光。炭の棒が、吸い込まれるように紙の上を滑った。

エナが書き上げた「秋」の字は、五歳の子のものとは思えない、丸くて温かい線をしていた。

「ねー!見てっ!書けたよぉっ!」

エナが顔を上げた。ミーナはそっと手を引いた。

光はもう、なかった。

(……なんだろう、今のは)

誰も気づいていなかった。子どもたちは自分の紙に夢中だった。

ミーナは自分の指先を見た。

変わったところは何もない。ただの、三十歳の女性の手だった。

でも、確かに何かが、そこにあった。

夕方、孤児院から帰る道で、ミーナは立ち止まった。

西の空が、深い色をしていた。

橙でも赤でもない、もっと複雑な色だった。燃えているようで、でも静かで。沈んでいくようで、でも消えない。

その空の色が、今のミーナの気持ちに、少し似ている気がした。

全部が終わったわけではない。

でも全部が始まるわけでもない。

ただ今日が終わって、また明日が来る。

婚約解消された翌日も、世界は動いている。噂は飛び交っている。でも孤児院の子どもたちは今日もルカは走っていた。庭師は薔薇の手入れをしていた。母は紅茶を飲んでいた。

そして今日、自分の指先が、少しだけ温かくなった。

それだけのことが、今日は少し、助けになった。

ミーナは空を見上げたまま、深く息を吸った。

秋の空気は、すこし冷たくて、透明だった。

明日のことは、まだわからない。

でも今夜は、眠れる気がした。昨夜よりは、少しだけ。

その夜遅く、ミーナは文机の前に座った。

燭台の光の中で、便箋を一枚、引き出した。

書こうとして、止まった。

誰に書くのだろう。

十二年間、毎月アルベルトに手紙を書いてきた。今月分は先週書いた。あれが最後になった。

ミーナは便箋を見つめた。

白い紙。何も書かれていない紙。

誰かに送る手紙ではなく、自分のために書いてみようと、ふと思った。

今の気持ちを。今日感じたことを。わからないことを。

ペンを取った。

インクをつけた。

しばらく考えてから、一行だけ書いた。

『私の価値は、まだわからない。でも、今日私はここにいた。それだけは、確かだ』

書いてから、少しおかしくなった。

こんな手紙を誰かが読んだら、何と思うだろう。

でも、誰にも読ませない。これは自分のための言葉だ。

ミーナは便箋を折って、引き出しの奥にしまった。

燭台の火を消した。

暗くなった部屋で、窓の外を見た。

昨夜と同じ月が出ていた。

でも今夜は、昨夜より少しだけ、遠くに見えた。

遠くて、でも、消えていなかった