軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

夜の散歩

分厚い書類の束に最後の署名を落とすと、イシュラは静かにペンを置いた。

執務室には紙とインクの匂いだけが漂い、積み上がった書類の山は今日だけで何度崩れかけたか分からない。

「……っ、は」

イシュラは掛けていた眼鏡を外し、指先で目頭を押さえると、疲労の色が滲む吐息を零した。

長時間の細かな文字の読み書きで、鈍い頭痛が続いている。痛みを和らげるためにこめかみを軽く揉むが、ほんの僅か楽になる程度。

眼鏡を机に置き、背凭れに身を預けて、机の端に置かれている金具で綴じられている報告書を手に取った。

それには、王子宮殿で起こったこと全てが余すことなく記されている。

クリスとソレイルの件に、王妃が飼っている男爵令嬢とのこと。

「……」

そして、それら全てに対してリスティアがどう対処したのか。

イシュラは詳細に綴られた報告書に無言で目を通し、僅かに口角を上げた。

第一王女殿下は萎縮することなく、怯えることもなく、状況を見極め最善と思える行動をしていた。

報告書に記されたその異常さに、どれほどの者が気付くだろう。

「……これくらいでなければ、ここでは生きていけない」

報告書の一文を指でなぞり、ふっと鼻で笑う。

「誰に似たのか」

リスティアの部分だけを何度も読み返し、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

「本当に、誰に似たのだろうな……」

その声音には、普段の冷徹さとは違う、どこか穏やかな響きがあった。

「どちらへ?」

書類を纏めていたローガットがそう尋ねたのは、報告書を暫く無言で見つめていたイシュラが、ふいに立ち上がり外套を手に取ったからだ。

「……」

「珍しいことでございますね」

穏やかに微笑みそう口にするローガットに、イシュラは眉根を寄せて「何がだ」と返す。

「いえ、陛下が執務室を離れられるのは珍しいことですので」

そう口にするローガットの目はどこか愉しげで、どちらへ?と訊く代わりに、その視線が雄弁に語っている。

「……散歩だ」

「さようでございますか。散歩で王子宮殿へ向かわれるとは、実に健康的でいらっしゃる」

「誰が王子宮殿へ行くと言った」

「違うのですか?では、どちらに」

「……どこへ行こうと勝手だろう」

「もちろんでございます」

ローガットは微笑んだまま執務室の扉を開けた。その笑みはイシュラの行動を完全に理解しているかのようで……。

「散歩だ」

イシュラは吐き捨てるようにそう言い、執務室を出た。

統括宮の廊下はひどく静かで、イシュラが歩くたび、靴音が低く響く。

歩調はいつもより速く、向かう先は王子宮。

ローガットに見透かされていることに舌打ちし、ふと足を止めた。

「……」

視線の先には、ジュリアに与えた部屋であり、リスティアが使っていた部屋の扉が……。

「……」

朝食の席では食事を摂れと口煩く、庭園にあるガゼボでお茶を楽しんでいる姿を遠くに眺め、夜に顔を見に行けば、布団を蹴っていたり、眉を寄せて眠っていたりと――そんな些細なことまで妙に鮮明に思い出せる。

けれど、王宮へ戻って来てからは一度も顔を合わせておらず、この部屋も主のいない空の部屋となった。

イシュラは短く息を吐き、歩みを再開させた。

本人は急いでいるつもりなどないのだが、その歩調は先ほどよりも速いものだった。

***

イシュラが王子宮殿の前に立つと、騎士達は驚き姿勢を正す。それに軽く手を振って応じ、中へ入った。

久しぶりに足を踏み入れた宮殿は、昔と変わらず重い空気をまとっていた。懐かしさよりも胸の奥の小さなざらつきが先に立ち、眉を顰める。

「あまり、変わっていないな」

歩きながら、指先が無意識に壁をなぞる。壁越しに伝わるひんやりとした感触が、幼い頃の記憶を揺らす。

目的を忘れ奥へ奥へと知らず進んでいると、柔らかな光が視界に入った。

高窓から、月の光が廊下に落ちている。

まるで銀の帯のように、真っ直ぐ。

(満月か……)

吸い寄せられるように銀の帯へ歩み寄り、その上に立つと、月光が外套の裾を照らし影が長く伸びる。

『イシュラ、あれをごらんなさい。あの窓は、月がよく見えるように作られているの。満月の夜になると、廊下に月の道が出来るのよ』

『月の道、ですか?』

『ええ。貴方が怖くないように、月が道を照らしてくれるの』

今でも耳に残っているその声に目を細め、苦笑する。今の彼女からは想像もつかないほど、優しく温かなものだからだ。

忘れた筈の記憶が呼び起こされ、その不愉快さを振り払うかのように、イシュラは高窓を睨んだ。

すると、ふいに誰かの気配が近付いた。

「……すこしで」

「そう……あれが」

足音と、ここ最近よく耳にしていた幼い声が聞こえてくると。

「わあ……きれい……っ、え……!?」

喜びの直後にひっくり返った声が廊下に響いた。

イシュラはゆっくりと横を向き、リオルガに抱き上げられているリスティアを目にして、軽く目を見開いた。

「え、え……?」

驚くリスティアの顔があまりにも間の抜けたもので、イシュラは堪えきれず、ふっと吹き出し、

「っ……は、はは、ははは」

あろうことかそのまま声を上げて笑っていた。

「え、何で笑って……というより、どうしてここに?」

その珍妙な言葉がまたおかしくて、王子宮殿の静かな廊下にイシュラの笑い声が響く。

「……っ、散歩だ」

「散歩……?散歩って、ここは王子宮ですけど」

「ああ……っく、はは」

「何がそんなにおかしいんですか」

「その顔だ……ふっ、っ」

「顔?え、顔……!?」

リスティアがペタペタと自身の顔を触るのを見て、イシュラは深く息を吸い、ようやく笑いを収めた。

「まだ寝ていなかったのか?」

そう問いかけると、リスティアは目を瞬かせこくりと頷く。

「月の光を見にきたんです」

「……そうか」

「そうです」

笑われてむくれているリスティアに、イシュラはふわりと笑い、

「一緒に見るか……?」

と手を伸ばした。

その声は、驚くほど優しいものだった。