軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第4話 聖女様は忙しすぎる

あの人、立っているのがやっとでは?

そう思ったのは、たぶん私だけだった。

渡り廊下の空気は、聖女が現れた瞬間に少し変わる。

さっきまで薬の搬送許可で張りつめていた侍女も神官補佐も、反射みたいに道をあけて頭を下げた。ざわめきがひとつ低くなり、皆の声が自然と揃う。特別な人が来たときの、あの独特の静けさだった。

白い衣が、夕方の光をやわらかく返している。

細かな刺繍の入ったその布は、ただ歩いているだけで目を引いた。淡い金の髪は光をまとってやわらかく揺れ、伏せた睫毛の影さえ整いすぎていて、一瞬だけ人形じみて見えるほどだ。

けれど私は、綺麗だと思うより先に、別のことに気づいてしまった。

歩幅が小さい。

いや、小さいだけじゃない。ひと足ごとに、わずかに重心を探っている。裾を乱さないための歩き方ではなく、そうしないと身体がついてこないような、不安定な歩幅だった。

白い指先は衣の端を軽くつまんでいる。その手に、ほんの少しだけ力が入っている。頬の色は薄く、唇には笑みの形があるのに、その笑みを保つだけで精いっぱいに見えた。

神官たちは気づいていないのか、気づいていてもいつものこととして流しているのか、とにかく歩みを止めようとはしない。

侍女が一歩前へ出て、さっきまで揉めていた書類のうち一枚だけを恭しく差し出した。

「聖女様、北回廊で失礼いたします。小神殿への薬の件、加護薬の使用確認だけ……」

「はい」

返ってきた声はやわらかくて、澄んでいた。聞くだけで肩の力が抜けそうな、そういう声だ。

けれど、その返事のあとに、ごくわずかに息が乱れた。

私は思わず一歩前へ出る。

次の瞬間、フィリアの身体がほんの少しだけ傾いた。

大騒ぎになるほどではない。気づかない人は気づかない程度の揺れだった。

それでも、私は反射的に動いていた。

「危ない」

布巾の籠を床に置き、咄嗟に腕を支える。

細い。

まず、そう思った。

衣越しに触れた腕は驚くほど軽かった。体温も低い。冷たいとまではいかないけれど、ここまで歩いてきた人の温度ではない。手首に近いところへ指先が触れて、ひどく華奢だと分かる。強く掴んだら折れてしまいそうなくらいに。

フィリアは一瞬だけ目を見開き、それから、私を見上げて小さく笑った。

「……ありがとうございます。でも、大丈夫です」

大丈夫ではない。

そう思った。

大丈夫な人の手首は、こんなに細くない。

大丈夫な人の手は、こんなに冷えていない。

大丈夫な人の目は、こんなふうに一瞬だけ焦点を見失わない。

私は思わず口を開いた。

「少し、座った方が」

「少し立ちくらみがしただけですから」

「お顔の色も」

「聖女様」

私の言葉は、隣から入った神官の声でやわらかく遮られた。

「次の面会までお時間が押しております。こちらの確認だけ済みましたら、すぐに控室へ」

「ええ」

フィリアは頷く。

「では、この書類を」

もう次の仕事の話になっている。

私はフィリアの顔と、その周囲の顔を順に見た。

皆、心配していないわけではない。神官たちは気遣うように声を低くしているし、侍女も不安そうに眉を寄せている。けれどその気遣いの向きが、「休ませる」ではなく「早く次へ進める」ことに揃っていた。

それが、たまらなく怖かった。

誰も悪意なんて持っていない。むしろ、敬っている。大切にしているつもりだ。

だからこそ止まらない。

「あなたは……」

フィリアが私へ向き直る。

目の色は薄い水色だった。静かで綺麗で、その奥に疲れが沈んでいる。

「先ほども、薬の件で」

「レティアです」

「レティアさん。ありがとうございます。本当に、少しふらついただけですから」

「少しには見えませんでした」

つい言ってしまった。

周囲の空気がほんの少し止まる。

しまった、と思ったけれど、もう遅い。

フィリアは叱るでもなく、困ったように微笑んだ。

「ご心配をおかけしてしまいましたね」

「心配というか、その……」

言葉に詰まる。

下働きの私が、こんなふうに真正面から聖女へ言っていいのか分からない。それでも、今さら引っ込めるには遅すぎた。

「休まれた方がいいと思います」

フィリアは一瞬だけ睫毛を伏せた。

「皆さんを、お待たせしていますから」

その一言で、この人がどんな人か分かってしまった。

疲れているとか、つらいとか、今は無理だとか、そういう言葉より先に「待っている人がいる」を出してしまう人だ。

前世でも見たことがある。

昼も食べずに会議室へ走っていって、それでも「大丈夫」と笑う人。

自分の体調より、流れを止めないことを優先してしまう人。

そしてたいてい、そういう人から先に壊れていく。

「聖女様」

今度は護衛の騎士が一歩近づいた。

低く落ち着いた声。さっきの、アルフレッドだ。

「移動します」

「はい」

フィリアは私の腕からそっと身を離した。手が離れる瞬間、その軽さだけが強く残る。

「レティアさん」

去り際にフィリアがもう一度だけ私を見る。

「先ほども、ありがとうございました」

「……いえ」

「後ほど、きちんとお礼を」

「そんな」

そんな暇があるなら休んでください、と言いかけたけれど、さすがに飲み込んだ。

フィリアは神官たちに囲まれたまま、また歩き出す。

今度はふらつかなかった。

でも、ふらつかなかっただけだ。

周囲の人間は、それで十分らしい。よかった、では次へ進みましょうという空気で、また流れ始める。

私は床の布巾籠を拾い上げた。

手のひらに残っている、細い腕の感触が消えない。

仕事は、待ってくれなかった。

神殿へ布巾を返し、その戻りで茶器を下げ、西棟の控室へ水差しを補充し、次は南の廊下で足りなくなった燭台の受け渡し。王宮の一日は、誰かが立ち止まったところで都合よく遅くなったりはしない。止まって見えるのは流れだけで、仕事そのものはむしろ増える。

けれど私は、そのあとの時間をずっとフィリアのことを気にしながら動くことになった。

見ようとしなくても目に入るのだ。

西棟の控室へ水差しを届けたとき、フィリアは立ったまま薄いスープを飲んでいた。座る時間すらないのか、片手に小さなカップ、反対の手には次の面会札。神官が横から何か説明していて、侍女は「こちらのお菓子も一口だけでも」と勧めているのに、フィリアは「では移動しながら」と笑う。

移動しながら食べる。

その言葉だけで、胃のあたりが少し痛くなった。

前世で昼休みを潰しながらコンビニのおにぎりを口へ押し込み、でも同時に電話を取っていた自分を思い出す。食べているのに休んでいない。口に入れているだけで、身体も頭も止まっていない。あれは食事ではなく、補給だ。

フィリアが今しているのも、きっとそれだった。

「レティア、これ片づけて」

「あ、はい」

茶器を受け取りながら、私は卓上を見た。小さな焼き菓子はほとんど手つかずで、スープの器も半分しか減っていない。

次の面会へ向かうフィリアの背中は、やっぱり少し小さく見えた。

その次に見たのは、北回廊の角だった。

「聖女様、お時間が押しています」

「はい」

「ですが、こちらの書類だけ先に」

「それは今日中でなければ」

「一応、ご確認いただければと」

「……分かりました」

一応。

その言葉を、私は前世で何百回も聞いた気がする。

一応見てください。

一応確認だけ。

一応、後で問題になると困るので。

“念のため”は便利だ。

責任を小さく見せられる。今ここで決める怖さを上へ投げられる。しかも頼まれる相手が断りにくい人なら、なおさら通る。

フィリアは紙を受け取り、廊下で立ったまま目を通していた。

そのあいだにも、待っている人がいる。侍女はそわそわしているし、神官補佐は別の用事を抱えているのか落ち着かない。誰も彼女を急かしているつもりはない。ただ、皆が少しずつ「これもお願いできますか」を持ってくる。

そうやって一枚、一枚、一枚。

誰も刃物なんて持っていないのに、人は紙で人を削れる。

私は茶器を抱えてその場を離れた。

怒りに似たものが、胸の奥でくすぶり始めていた。誰かひとりを責めれば済む話ではない。たぶん、そういう種類の怒りではないのだ。

むしろ逆だ。

皆、この人を大事にしているつもりなのだ。神官は敬意を払い、侍女は丁寧に世話をし、騎士は護衛につく。だからこそ、安心して預けてしまう。

聖女様なら。

聖女様に一応。

聖女様が見てくだされば。

その積み重ねの先にあるのが、この細い手首と、立ったままの食事と、ふらつく足元なのだとしたら。

優しい人に、優しさの代金を払わせすぎだ。

その言葉が、喉の奥に熱く残った。

日が傾くころ、私は神殿側へ書類返却の木箱を運んでいた。

角を曲がった先、窓際の明るい回廊にアルフレッドが立っている。護衛についていないのかと一瞬思ったけれど、少し先に白衣の神官たちと話すフィリアの姿が見えた。完全に離れているわけではなく、でも常に真横にいるわけでもない。その距離感が、彼の役目なのだろう。

私が通り過ぎようとすると、アルフレッドのほうから声がかかった。

「雑用係」

ずいぶんざっくりした呼び方だ。

私は木箱を抱えたまま足を止める。

「レティアです」

「そうだったな」

「覚えていたんですか」

「変な答えをするやつは覚える」

ちょっと失礼だ。

でも、悪意はない。たぶんこの人は、言葉を飾るのが苦手なだけだ。

「何かご用ですか」

「お前」

アルフレッドは少しだけ視線を細めた。

「さっきから、聖女様のほうを気にしすぎだ」

「気にしますよ」

言ってから、少し声が強すぎたと気づく。

「だって……」

「だって?」

「大丈夫じゃないでしょう、あれ」

アルフレッドは沈黙した。

否定するかと思った。余計なことを言うなとか、護衛の前で軽々しく口にするなとか、そういう返事も覚悟した。

けれど彼は、意外なほどあっさり言った。

「大丈夫ではないと思っている」

私は思わず瞬きをした。

「……そうなんですか」

「見れば分かる」

「なら、どうして誰も止めないんですか」

「止めようとしていないわけではない」

「そうは見えませんでした」

「だろうな」

窓の外から夕方の風が少しだけ入ってくる。アルフレッドは廊下の先にいるフィリアを見たまま続けた。

「護衛騎士の役目は、聖女様を危険から守ることだ」

「今まさに危険でしょう」

「刃や矢や毒なら、俺は間に入れる」

声は低いが、曖昧ではない。

「だが、予定表と書類の山に剣は抜けない」

その言葉に、私は少しだけ黙った。

たしかにそうだ。護衛騎士が「今日は休め」と命じられる立場なら話は別だが、実際にはそうではないのだろう。神殿の運営、王宮との調整、面会の差配。そういうものに騎士がどこまで口を出していいのか、私には分からない。

「聖女様ご本人が、大丈夫だとおっしゃる」

アルフレッドが言う。

「次があるから、と」

「そう言うでしょうね」

「言う」

彼は短く頷いた。

「だから厄介だ」

その一言に、苛立ちが少しだけ混ざったのが分かった。

この人も見ているのだ。

気づいていないわけじゃない。

ただ、どう動けばいいのか分からない。もしくは、動ける形を持っていない。

私の中の怒りが、少しだけ形を変えた。

敵じゃない。

少なくともアルフレッドは敵ではない。答えがない側にいるだけだ。

「止める方法があるなら」

彼はふいに言った。

「俺が知りたいくらいだ」

その一言に、私は返事ができなかった。

私だって知りたい。

休ませたい。止めたい。けれど、ただ「休んでください」と言ったところで、この人はきっと止まらない。周囲も「では仕事を減らしましょう」とはならない。せいぜい、次の予定を少しだけ詰め直すくらいだ。

問題は、フィリア個人の根性でも、周囲の悪意でもない。

流れそのものだ。

「……ありがとうございます」

気づけばそんな言葉が出ていた。

アルフレッドがわずかに眉を動かす。

「何がだ」

「気づいている人が、自分だけじゃなかったので」

「それは安心なのか」

「少しは」

「そうか」

短いやり取りだった。

でも、さっきまで抱えていた息苦しさが、ほんの少しだけ薄れた気がした。ひとりで変だと思っているのではない。少なくとも、この人も見ている。ただ、まだ皆、見えているものに手を出す形を持っていないだけだ。

「レティア」

去り際に、アルフレッドがもう一度だけ私を呼んだ。

「はい」

「お前は、余計なことを考えすぎる顔をしている」

「ひどいですね」

「当たってるだろう」

「……まあ」

「転ぶなよ」

「誰がですか」

「お前も、聖女様もだ」

その言い方が少しだけ可笑しくて、私は小さく息を吐いた。

日が落ちるまでのあいだにも、フィリアの周りには小さな無理が積み重なっていった。

東棟では面会が押しているのに、「この案件だけは今日中に」と神官が紙を差し出した。

南回廊では侍女が「次の茶会の席順について、一応ご確認を」と面会の合間に札を見せた。

西の小控室では役人が「後で問題になると困るので」と封のされた報告書を上へ回していた。

一応。

念のため。

後で困るといけないから。

聖女様にご判断を。

前世でよく見た言い回しばかりだ。

責任を取りたくないわけではない。

ただ、間違えたくない。怒られたくない。できるなら、もっと偉い人の確認を取っておきたい。

その気持ちは分かる。

分かるからこそ厄介だった。

善意や慎重さを積み上げた先に、誰かひとりの机だけが埋まる。

その机の主が優しくて、断れなくて、責任感が強い人なら、なおさらだ。

控室から出てきたフィリアは、それでも人に向ける笑顔を崩さなかった。ひとりひとりに礼を言い、話を聞き、次へ進む。その姿はたしかに聖女らしいのかもしれない。

でも私には、別のふうに見えてしまう。

頑張っている、ではなく。

削られている、に近かった。

そう見えてしまうと、もう戻れない。

夜になって借り部屋へ戻ったあとも、私はしばらく寝台に腰を下ろしたまま動けなかった。

部屋の中は静かだ。石壁は昼間より冷えていて、窓の外ではどこか遠くの酒場から笑い声が小さく流れてくる。王宮の慌ただしさが、嘘みたいに遠い。

けれど頭の中では、今日一日の流れがまだ止まっていなかった。

私は目を閉じて、ひとつずつ並べる。

朝、渡り廊下で止まっていた薬の搬送。

あのとき聖女が見なければならなかったのは、実際には一枚だけだったこと。

残りは、倉庫や搬送係や神官長代理でも先に動かせたこと。

昼前、フィリアがふらついたこと。

冷たい腕。細い手首。無理に整えたみたいな笑顔。

立ったままの軽食。

押している面会の合間に増える書類。

「一応」と「念のため」で上がっていく確認。

役人も神官も、自分で決めないための丁寧な言葉を持っていたこと。

頭の中で、紙の束をもう一度仕分けるみたいに整理していく。

誰が何を持っていたか。

どこで止まっていたか。

聖女が見なくてもよいものは何か。

誰が代わりに動けたか。

何が“この人でなければならない”ことで、何が“この人にまで持っていく必要のない”ものなのか。

答えは、思ったよりはっきりしていた。

多すぎるのだ。

フィリア本人が見なくてもいいものが、多すぎる。

本人へ上げるべきではないものが、多すぎる。

そしてたぶん、皆それをおかしいと思っていない。

「……ひどい」

小さく呟く。

誰かひとりを指して言ったわけではない。構造そのものに対して出た声だった。

優しい人に、優しさの代金を払わせすぎだ。

その言葉が、また胸の内側で熱を持つ。

前世の私は、自分がやれば早いと抱え込んで、最後に倒れた。

でも今見ているのは、もっと大きい。ひとりの仕事の癖や、ひとりの性格だけの問題じゃない。周り中が少しずつ預けて、少しずつ任せて、その先でひとりが削れていく形だ。

止めたい、と思った。

でも、どうやって。

ただ「休んでください」と言うだけでは足りない。

フィリア本人が頷いたとしても、明日にはまた同じ紙が積まれる。

今日と同じように、一応の確認が入り、念のための判断が上がり、気づけば立ったまま軽食を取ることになる。

なら、必要なのは。

私は毛布の上に手を置き、ゆっくり息を吐いた。

奇跡じゃない。

奇跡で一時的に誰かを癒やしたところで、明日また同じ流れが来るなら、根っこは何も変わらない。

必要なのは、流れそのものを変えることだ。

誰がどこで持ち、どこで止まり、誰が見なくてもいいものをどこまで上げているのか。

それをほどかない限り、この人は休めない。

頭の中で、今日見た書類の山がまた分かれていく。

必要なもの。

重複しているもの。

待たせなくていいもの。

上げなくていいもの。

そして、今日見たフィリアの横顔が重なる。

綺麗だった。

でもあれは、休めている人の顔じゃない。

私は寝台へ倒れ込むように横になって、天井を見上げた。

石のひびを目で追いながら、初めてはっきりと言葉にする。

この人を休ませるには、奇跡じゃ足りない。

流れを直さないとだめだ。