軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第11話 薬庫の数字は嘘をつく

空気が悪い場所には、声より先に気配が出る。

その日の神殿薬庫の前を通った時、私はそう思った。

薬草の匂いはいつも通りだった。乾いた葉の青っぽい香りと、土に近い根の匂い、少し甘い樹皮の匂い。けれど、その奥に混じる人の気配がよくない。ぴんと張って、尖って、じわりと湿っている。怒鳴り声になる一歩手前の空気だった。

雑用口から薬庫へ回す確認札が、朝から妙に多い。

治療用薬草の再確認。

儀礼用乾燥葉の在庫照合。

使用記録の再提出。

棚番号三番の見直し。

数量相違の確認依頼。

私は確認札を三枚ほど見比べてから、板の前で小さく首を傾げた。

「また薬庫?」

横を通ったナラが、私の手元を覗き込む。

「今朝から何度か来てますね」

「さっき書記見習いの子が、泣きそうな顔で走ってたよ」

「泣きそう」

「“僕じゃありません”って顔」

「それはかなりよくないですね」

「よくないねえ」

ナラは布束を抱え直しながら、少しだけ声を落とした。

「盗った盗られたの話になってるかもよ」

「……そういう空気?」

「そういう空気」

私は手の中の確認札をもう一度見た。

数量相違。

再確認。

再提出。

数が合わない時、人はだいたい二つの方向へ走る。

ひとつは、帳簿を書き直す方向。

もうひとつは、誰かを疑う方向。

後者へ行きかけている時の空気は、すぐ分かる。

「見てきます」

「巻き込まれすぎないでね」

「善処します」

「善処って言う時、だいたいしないよね」

「今日はするかもしれません」

「しない顔だなあ」

ナラの声を背中で聞きながら、私は薬庫へ向かった。

神殿薬庫の前には、三人の若い薬師見習いが立っていた。

普段なら、彼らはもっと静かだ。棚から袋を下ろし、乾き具合を確かめ、必要な量を量って包み直す。薬庫という場所にいる人らしく、声も動きも少し控えめだ。

今日は違った。

「だから、勝手に多く出してませんって」

「でも帳簿では足りないんだ」

「足りないなら薬庫記録の方でしょう」

「薬庫記録では十ある」

「現物は六しか見えない」

「六って、何の六ですか」

最後の言葉は、少し震えていた。

薬師見習いのひとりが、私に気づいて振り向いた。まだ十代半ばだろう。いつもなら穏やかな顔をしている子なのに、今日は目の下に薄く影ができている。

「レティアさん」

「どうしました」

「……数が、合わなくて」

その言い方は、事情説明というより、助けを求める響きだった。

私は薬庫の中へ視線をやる。棚の前には薬庫番の老人、帳簿を抱えた書記見習い、そして薬師見習いたちが、それぞれ微妙に距離を取って立っている。誰も露骨に責めてはいない。けれど、誰もが「自分ではない」と思っている顔をしていた。

「何が合いません?」

「治療用の乾燥薬草です」

薬師見習いの少年が答えた。

「帳簿では十あるはずなのに、棚には六しかないって」

「四つ足りないと」

書記見習いが慌てたように言い添える。

「だから再確認を」

「確認はもう三回しました」

別の見習いが言った。

「でも数え方が」

「数え方?」

「……そこが、うまく言えなくて」

私は少しだけ眉を寄せた。

数え方。

そこに引っかかる。

「帳簿、見せてください」

「え、はい」

書記見習いが急いで帳簿を開く。乾燥薬草の欄に、きれいに数字が並んでいた。

治療用乾燥葉 十

儀礼用乾燥葉 八

使用記録 四

補充待ち 二

一見すると、きちんとしている。

けれど、私はそこで妙な違和感を覚えた。

「……これ、十って何の十ですか」

「何の?」

書記見習いが目を瞬く。

「ええと、十は十で」

「束ですか。袋ですか」

「……」

「一回分ですか」

「……」

沈黙が落ちた。

私はその沈黙で、だいたいを理解した。

薬庫番の老人が、少し苛立った声で言う。

「十は十だろう。袋だ」

「袋で入れてますか?」

私は棚へ目を向けた。

「束のままのものもありますよね」

「束で来るものを袋に分ける時もある」

「その時、帳簿は」

「そのままだ」

「治療側は」

今度は薬師見習いたちを見る。

「何で数えます?」

「……一回分、です」

少年が答えた。

「患者さんに出す時は一回分で見ます」

「儀礼用は?」

「祭具の分は、小袋です」

「小袋」

「はい」

私は帳簿を机へ置いた。

足りないのか。

それとも、足りないことになっているのか。

まだ断言はできない。

けれど、少なくとも今の帳簿の数字は、何を数えているのかが揃っていない。

「盗られたわけじゃないかもしれません」

私がそう言うと、全員の視線がこちらへ集まった。

「何が」

薬庫番が低く問う。

「数字です」

「数字?」

「たぶん、数字が合ってないんじゃなくて」

私は帳簿を指で叩いた。

「数字の意味が揃ってません」

薬庫の中へ入り、私は棚の前へ立った。

ここは広くはない。けれど天井が少し高く、壁際の棚が上まで続いているせいで、数字で管理できているように見えやすい場所だ。袋、束、小箱、小瓶。見た目の似たものが並んでいると、余計にそう見える。

私は棚から薬草袋をひとつ下ろし、次に束ねた乾燥薬草を持ち、さらに隣の小袋も机へ並べた。

「確認します」

誰に向けた言葉でもなくそう言うと、薬庫の中が少し静かになった。

「これ」

最初に大きい袋を持ち上げる。

「倉庫番さんは、これをいくつで数えます?」

「一袋だ」

「はい」

次に、中身を少し出して、小分けした包みを見せる。

「でも薬師見習いさんは、ここから何回分取れます?」

「え……四回か五回です」

「治療用は一回分で見る」

「はい」

「じゃあ同じ袋でも、一と四になる」

薬師見習いが小さく息を呑む。

私は次に、束ねた乾燥薬草を持ち上げた。

「これは?」

「一束」

書記見習いが答える。

「記録は束で入ることがあります」

「でもこれをほどいて小袋にしたら?」

「……小袋の数になります」

「儀礼用は?」

「小袋で出します」

「はい。つまりここでも、一束と三袋とか四袋が混ざる」

皆が少しずつ嫌な顔になる。

もう答えが見え始めているからだ。

「さらに」

私は帳簿を開いた。

「この欄、治療用と儀礼用で別名になってますけど、中身は同じ薬草ですよね」

「ええ」

「でも使用記録は別欄」

「はい」

「補充はまとめて」

「……はい」

「なら、同じ草を、倉庫は袋で見て、薬庫は束で見て、使用側は回数で見て、書記側は用途で分けてることになります」

私は薬草袋を持ち上げたまま言う。

「数字が嘘をついてるんじゃなくて、数字の意味が揃ってないんです」

その一言で、空気が変わった。

さっきまでは“誰が四つ減らしたんだ”へ向かっていた視線が、今度は“そもそも四つって何だ”へ変わる。

薬師見習いのひとりが呆けたように呟く。

「四つって……袋の四じゃなくて」

「たぶん違います」

「束かもしれないし、小袋かもしれないし、一回分のことかもしれない」

「そうです」

私は頷く。

「足りないのか、“足りないように見えてる”だけなのか、先に分けないと」

薬庫番が不機嫌そうに腕を組んだまま言う。

「だが現物は六だ」

「はい」

「帳簿は十だ」

「はい」

「なら四足りない」

「だから、その六と十の単位が違うかもしれません」

「……」

老人は言い返さなかった。

言い返したくても、さっきまでの“絶対に足りない”より、自分でも説明しにくくなっているのだろう。

書記見習いが恐る恐る聞く。

「じゃあ、どうすれば」

「まず分けましょう」

「分ける」

「棚も、分類札も、数え方も」

私はすぐに棚の前へ回った。

「治療用と儀礼用を一緒に置くの、やめます」

「場所が」

薬庫番が言いかける。

「あります」

私は棚の端を指した。

「開封済みをここへ寄せる。予備在庫を上。未開封のままの束は左。治療用小袋は下。儀礼用は別段」

「……」

「それから分類札です」

私は余り紙を引き寄せ、炭で書く。

「治療用。儀礼用。予備。開封済み。未開封」

さらに帳簿の余白へ追記する。

「束単位。袋単位。一回分」

薬師見習いの少年が、まだ半信半疑の顔で言う。

「そんなので変わりますか」

「変わります」

「本当に」

「少なくとも、“十って何の十?”って顔で睨み合うよりはずっと」

少年は少しだけ口元を緩めた。

ようやく、責められるだけの時間が終わりそうだと感じたのかもしれない。

整理は、派手には見えない。

棚から棚へ移す。

分類札を書く。

束を束のままの場所へ戻す。

開封済みを別箱へ移す。

帳簿の欄外へ単位を書き足す。

でも、やればやるほど、薬庫の空気は変わっていった。

「それ、儀礼用だったんですね」

「こっちへ混ざってたのか」

「開封済みが未記録扱いになってた?」

「一袋を一回で数えてたら、そりゃ足りなく見える……」

薬師見習いたちの声が、少しずつ“言い訳”から“確認”へ変わっていく。

私はその変化が好きだった。

人は疑い始めると、同じものを見ても相手の落ち度ばかり探す。

でも、整理が始まると、同じものを見ても“どこが揃っていないか”を見るようになる。

それだけで、ずいぶん違う。

「レティアさん」

さっきの少年が、小さな袋を持ち上げた。

「これ、儀礼用棚に置いてたけど、中身は治療用と同じです」

「使い方が違うだけですね」

「はい」

「じゃあ分類札に“用途別”って書きましょう。中身同じ、使い方違う、って」

「そんな細かく?」

「細かい方が後で疑いにくいです」

私は炭で新しい分類札を書く。

中身同じ、用途別。

束単位で入庫。

袋単位で使用。

一回分は別記録。

横で書記見習いが感心したように呟く。

「ここまで書くんですね」

「書かないと、また来月同じ顔します」

「同じ顔」

「“誰が減らしたんだ”って顔」

「……それは嫌です」

その言い方が少しおかしくて、私は思わず笑いそうになった。

薬庫番の老人はまだ機嫌がいいとは言えない顔だったが、作業自体は止めなかった。むしろ最初より手つきが早い。自分でも分かっているのだろう。曖昧なまま回していた部分が、思っていた以上に多かったのだと。

「よし」

私は一歩引いて棚を見た。

「じゃあ、今の基準で数え直しましょう」

それからが本番だった。

治療用を袋単位で。

儀礼用を小袋単位で。

未開封束は束のまま。

開封済みは一回分換算もつける。

薬師見習い、書記見習い、薬庫番、全員で数える。

さっきまで疑っていた相手と同じ棚を見て、同じ分類札を確かめて、同じ言葉で数を読む。

「治療用袋、六」

「開封済み換算で四回分」

「未開封束、一」

「それを袋にしたら三」

「儀礼用小袋、四」

「予備棚に同じ草束、二」

数字が揃っていく。

いや、正確には、数字の意味が揃っていく。

「……あ」

最初に声を漏らしたのは、薬師見習いの少年だった。

「足りてる」

「何が」

書記見習いが顔を上げる。

「治療用。帳簿の“十”は、束換算で見てたら足りなく見えるけど、袋と開封済み換算も入れると」

「……十を越える」

薬庫番が低く言った。

「いや、儀礼棚へ紛れてた分まで戻すと、ほぼ帳簿どおりだ」

「盗まれてない」

別の見習いが、その言葉を恐る恐る口にする。

「本当に」

「たぶん最初からな」

薬庫番はぶっきらぼうに答えた。

「数えてるつもりで、揃ってなかっただけだ」

その瞬間、空気がほどけた。

薬師見習いのひとりが、その場にへたり込みそうになって棚へ手をつく。

「……よかった」

「疑われる筋合いはないけど、でも怖かったです」

別の見習いがそう言った。

「勝手に出したんじゃないかって顔、されてたので」

「されてたというか」

書記見習いが顔を伏せる。

「私、少し思ってました」

「僕も」

「すみません」

謝る声が、いくつか重なった。

私はそれを聞きながら、胸の奥で静かに思う。

整理は、物を見やすくするだけじゃない。

人を疑わなくて済む形も作れる。

それは、思っていたよりずっと大きい。

報告を受けたフィリアは、しばらく薬草袋の分類札を見つめていた。

私は整理し直した帳簿の控えと、簡単な説明札を持って控室へ上がっていた。薬庫不足の疑いは解けた。盗難ではなく、数え方の違いだったと。

「不足では、なかったのですね」

「はい」

私は答える。

「少なくとも、盗まれたわけではありませんでした」

「そう……」

フィリアは静かに息を吐いた。

「よかった」

「ただ」

私は少し迷ってから続ける。

「“足りない”として上がってくる報告の中には、実際の不足じゃなくて、混乱が作ってるものもあるかもしれません」

「混乱」

「束で数えて、袋で使って、回数で減らしているのに、帳簿の欄がひとつだったので」

「……」

「だから、数字は足りなく見える。でも実際にはある」

フィリアは指先を小さく動かした。

「それが、私のところへ“在庫不足です”と来ていたのですね」

「たぶん、かなり」

「そうですか」

彼女は目を伏せた。

“緊急”とされてきたものの中に、本当の緊急ではないものが混じっていた。

それは、フィリアの机を軽くする話でもある。

でも同時に、自分が見てきた“急ぎ”のいくつかが、混乱由来だったと知る話でもある。

「急がなければならないものを、見誤っていたかもしれないのですね」

「全部じゃないです」

「ええ」

フィリアは頷いた。

「でも、混ざっていた」

「はい」

「それもまた、聖女へ何でも上げる仕組みのひとつ、ですね」

「……そうだと思います」

フィリアは整理札を見つめ、それから小さく笑った。

「薬庫の数字は、少し怖いですね」

「揃ってないと、すごく怖いです」

「人まで疑わせるのですから」

「はい」

私はうなずいた。

あの薬庫でいちばん危なかったのは、薬草が足りないことそのものじゃない。

誰かが盗んだかもしれない、勝手に使ったかもしれない、記録を誤魔化したかもしれないと、人の目が変わり始めていたことだ。

数字が曖昧だと、それだけで人は壊れる。

薬庫の空気が落ち着いた頃、バルドが来た。

遅い登場だった。

けれど遅いぶんだけ、彼はすでに“何が起きて、どう片づいたか”をある程度聞いてきた顔をしている。

薬庫の棚へ目をやり、分類札を見て、帳簿の追記を確認する。

治療用。

儀礼用。

予備。

開封済み。

未開封。

束単位。袋単位。一回分。

現場目線では、ほとんど成功だった。

薬師見習いたちは安堵している。

薬庫番も「次からこれで数える」と言った。

書記見習いも帳簿欄の書き換えに納得している。

なのに、バルドの表情は冷えたままだった。

「不足ではなかったそうですね」

彼は帳簿を閉じながら言った。

「はい」

書記見習いが少し緊張しながら答える。

「単位が揃っていなかっただけで」

「だけ」

バルドがその言葉を繰り返す。

「在庫不足として上がるところだった案件を、“だけ”で済ませるのですか」

「でも、盗難では」

「結果としては、でしょう」

薬庫の空気がまた少しだけ固くなる。

私は内心で息を吐いた。

この人は、現場が助かったこと自体を否定したいわけではない。

ただ、曖昧なまま流せていたものが、曖昧ではなくなっていくのが嫌なのだ。

どこが曖昧だったか。

誰が何を揃えていなかったか。

どうすれば防げたか。

それが見えるようになるほど、書記側の運用も透けて見える。

「見やすくはなりました」

バルドは分類札を見ながら言う。

「そうですね」

私は答える。

「次からは同じ勘違いは減ると思います」

「勘違い」

「単位の不一致です」

「言い方を変えただけでしょう」

「変えていません」

私は彼を見る。

「誰も盗んでいないのに、人を疑いかけていました」

「だから?」

「だから、数字の意味を揃えました」

「……」

バルドはしばらく黙っていた。

その沈黙は、怒鳴る代わりの沈黙だった。

彼は感情で当たってくる人ではない。

もっと厄介だ。理屈と冷たさで、じわじわ削る。

そして最後に、彼は静かに言った。

「見えるようになりすぎるのも、問題です」

その言葉は、薬庫の棚よりずっと広いものを指していた。

私はすぐには返さなかった。

見えるようになりすぎる。

つまり、いままで曖昧なまま回っていたものが、曖昧でいられなくなる。

誰が困っていたか。

どこで止まっていたか。

何が不足で、何が混乱だったか。

それが見えるほど、流してきた人間はやりにくくなる。

「見えないままの方が、怖いと思います」

私はようやく言った。

バルドはそれに答えなかった。

ただ一度だけ、薬庫の分類札へ目をやってから踵を返す。

残された薬庫は静かだった。

けれど、その静けさはもうさっきまでの疑心暗鬼の静けさではない。

整理されたあとに残る、少し疲れて、でも息のしやすい静けさだ。

薬師見習いの少年が小さく言う。

「……見えた方が、僕もいいです」

「私も」

別の見習いが頷く。

「疑われるの、嫌なので」

「ですよね」

私は分類札を見ながら答えた。

整理は、便利のためだけじゃない。

安心のためにも要る。

でも、その安心が誰かの不快になることもある。

たぶん、これから先はそっちの方が増える。

私は薬草袋を棚へ戻し、分類札の位置を少しだけ整えた。

治療用。

儀礼用。

予備。

未開封。

開封済み。

数字は、揃えば怖くない。

揃っていないと、人まで壊す。

そのことを、たぶん私は、またひとつこの王都で覚えてしまった。