作品タイトル不明
【アニメ第5話放送記念】残骸5 お嬢様とそれを誑かす悪い女について
エニチーデから戻ったフラムたちは、リーチにキアラリィを渡した。
彼はさっそく受け取った薬草を、屋敷に待たせていた薬師の老人に渡す。
薄暗い部屋の中、 薬研(やげん) でゴリゴリと薬草をすりつぶす老人を、部屋の片隅でウェルシーが見つめていた。
「手慣れてますねえ、腕が錆びてる様子もない」
ウェルシーがその手元を覗き込むと、ローブのフードを被ったままの老人は答える。
「そりゃそうだ、今でも貴族たちからの依頼はひっきりなしに届く」
「教会にはバレてるんじゃないですか?」
「教会も東区に住んでるような金持ちを取り締まったりはしない。もちろん、それを相手に商売してる私みたいなのもね」
「いいんですかね、正義の教会様としてはそれで」
「そっちの方が都合がいいんだろう、貴族たちを敵に回さずに済む。実際、王国と教会がこんなに腐った関係になっても、表立って教会に反抗する連中なんざいないじゃないか。教会はそのあたりのバランス取りがうまいんだ」
「嫌になっちゃいますねえ」
「そして理由はもうひとつ」
老人はウェルシーにちらりと視線を向け、何かを警告するように告げる。
「教会は医療のために薬草を独占してるわけじゃない。用途が違う。だから、少量の薬草が貴族の間で流通しても問題視しない」
「おやおや、きな臭い話です」
「もちろん、隠しもせずに堂々と使ってれば取り締まられるだろう。隠れてるうちは、ということだ」
ウェルシーが「ふーん」と相槌をうつ。
その後、老人は黙って黙々と薬作りに没頭した。
◇◇◇
こうして、無事にリーチの妻フォイエに投与する薬は完成した。
報酬の話もまとまったところで、フラムはふいにリーチに問いかける。
「リーチさんはアンヴォロっていう人をご存知ですか?」
まさかフラムの口からその名前が出るとは思わず、リーチは驚いた様子で聞き返した。
「なぜフラムさんが彼の名前を?」
「知ってるんですね! 実はエニチーデで名前を聞いたんです。その……私の知り合いがエニチーデから王都に出てくるきっかけが、アンヴォロって人だったみたいで」
フラムはなぜか苦笑いのような表情を浮かべた。
リーチはその表情から感じ取ったわずかな違和感を訝しみ、尋ねる。
「もしかして、その方の身に何か起きたのですか?」
「えっ……顔に出てました?」
「そういうわけではないのですが、どうやら予感は的中したようですね。よければ聞かせていただけませんか」
「あまり気分のいい話じゃありませんよ。その、奴隷絡みの話なので」
「でしたらなおさらです。実は、私も引っかかることがありまして」
ためらうフラムは一旦ミルキットの反応を確かめた。
しかし彼女がフラムの言葉を止めるはずもなく、彼女は自分自身でしばし悩んだ末にフィノとの出会い、そして彼女の末路について語ることにした。
「……人間を、食べる」
リーチは深刻そうな表情でそうつぶやいた。
「あの場所で奴隷を食べていたのは、グールだけではなかったんですね」
ミルキットも多少なりともショックを受けているようにも見える。
様々な奴隷の扱いを見てきた彼女からしても、人間を食すという行動は異常なのだろう。
また語ったフラム自身も、当時のことを思い出して険しい顔だ。
「普通の奴隷より高い値段で売れるからって、人間がそんなことするなんて、って今でも信じられないんです。フィノさんのこと、知ったって今さら何か変わるわけじゃないんですけど――どうしても忘れられなくて、だったらいっそ全部暴いた方がいいのかも、って」
「そのような経験をしたのなら、仕方のないことです。ですがそんな人間が東区に潜んでいるとは、あまり考えたくありませんね」
「東区の住人以外の可能性もあるんじゃないですか? 西区や中央区にもお金持ちはいますよね」
「奴隷制度は今やほぼ違法化された制度です。基本的に、よほど強引な手段を使わない限り〝新たな奴隷〟は生まれないはずなんです」
思い返せば、フラムは言うまでもなくかなり強引な手段で奴隷にされたし、フィノも――彼女の言動の信憑性はさておき、自ら望んで奴隷になったと言っていたはずだ。
「その所有を見逃されているのも、貴族という権力があってのこと」
名家の先代、あるいは先々代から奴隷を所有していたから。
もしくは代々この家の奴隷になるしきたりだったから。
そういう前例がある変わった家もあることにはある。
しかしそれらは例外なのである。
そして新たな例外は許されない。
現在も奴隷を所有している人間は以前から所有していた人間のみ、そして彼らも時と場合によっては裁かれる。
結果として、そう遠くないうちに奴隷制度は消滅するだろう。
「もはや制度は形骸化している、と言ってもいいでしょう。王都でも奴隷紋に対する反応は人それぞれのはずです」
「確かに……エニチーデなんかじゃ、ほとんど触れられなかったかも」
奴隷が奴隷として扱われない――その事実に頬に触れながら安堵するフラム。
一方でミルキットは、
「王都の外では意味を成さない制度なんですね」
そういう世界に違和感があるのか、抑揚のない声でつぶやいた。
「ええ、ですから自ずと奴隷商人と取引をするような犯人も絞られるというわけです」
リーチが東区の人間に絞った理由は理解できた。
だがこの会話の流れで出てくる〝東区の人間〟という単語には別のニュアンスも含まれる。
「でもリーチさん、今の言い方だと……アンヴォロさんって人のこと、疑ってるんですか?」
フラムの率直な疑問に、リーチは目を伏せる。
「彼は東区でも多くの人から尊敬される根っからの善人ですよ」
「あ、そうなんですね」
「ええ、私にはとても、彼がそのようなことをするとは思えません」
「じゃあ、違うんだ……」
ならばなぜ、リーチはアンヴォロを疑うようなことを言ったのか。
フラムはいまいちしっくり来ないまま、その話題は終わりを迎えた。
◇◇◇
リーチの屋敷を出て、フラムたちの新居に向かう道中。
馬車に揺られながら、フラムは一人ごちる。
「リーチさん、何かを隠してた気がする」
隣に座るミルキットがこてんと首をかしげる。
「アンヴォロという方に関する話でしょうか」
「たぶん。とはいえ、貴族の悪事を暴く……みたいな柄じゃないしなあ。その人がフィノさんに何かしたって確証もないわけだし」
「リーチさんに任せてもいいのではないでしょうか」
「だね。本格的に西区で拠点が手に入るなら、これから忙しくなりそうだし!」
フラムとしても、教会や新居のことで頭がいっぱいだ。
そこにフィノやアンヴォロのことまで入ってくれば、確実にパンクしてしまうだろう。
大人しくミルキットのアドバイスに従い、忘れることにする。
そしてふと、馬車の窓から外を見た。
ちょうど真横をドレス姿の、東区らしい女性が通り過ぎていく。
女性は帽子を深めに被っていたが――一瞬だけ見えた顔に、フラムは既視感を覚えた。
「あれ、今の……」
「どうかされましたか?」
「フィノさんに、すっごく似てる人がいた……」
それは他人の空似と呼ぶには似すぎていた。
フィノの姿はフラムの脳内に強烈に刻み込まれているため、多少の化粧をしていても判別できてしまう。
「死んだ方ですよね」
「うん……実は双子、だったのかなぁ……」
やはり釈然としないまま、馬車は進んでいく――
◆◆◆
フィノは自分の横を通り過ぎていったフラムたちの馬車に気づくはずもなく、平然と通りを進む。
そして約束の公園で、ベンチに腰掛け人を待った。
数分後、手を振りながら駆け足で、いかにも育ちのよさそうなお嬢様が近づいてくる。
「お姉さまーっ!」
フィノが立ち上がって迎えると、少女は容赦なくその胸に飛び込んだ。
「わっぷ。ちょっとアデリッサ、興奮しすぎよ」
「だって、だってだって、お姉さまともう会えないと思っていましたからっ!」
アデリッサは涙を浮かべた瞳をキラキラと輝かせながら、フィノの顔を見た。
それは胸が苦しくなるほど純粋な笑顔だった。
「……そんなに嬉しい?」
「はいっ!」
迷いのない返事。
まだ自分のことを欠片も疑っていないのだろうか?
それとも気付いた上で、なおこの表情を見せてくれるのだろうか――
フィノの心の中に迷いがよぎる。
それを誤魔化すように、彼女は慣れた動きでアデリッサの唇を奪った。
「ふわあ……」
顔を離すと、アデリッサは夢でも見ているかのようなぽーっとした表情で頬を赤らめた。
これだけでこんなにもとろけてくれるのだから、ちょろいお嬢様である。
「えへ、えへへ……お姉さま、お姉さまっ」
「なあに」
「やっぱりわたし、お姉さまのこと――大好きですっ!」
まあ、ちょろいのは――こんな単純な言葉で心を動かされているフィノも、かもしれないが。
そして二人は腕を絡めながら公園を出る。
「お姉さま、ドレス姿もとてもお似合いですね」
「そう? ふふ、まとまったお金が入ったから奮発してみたのよ。これなら東区でも浮かないでしょう」
フィノは奴隷商人の死後、彼のアジトに侵入して、逃げるために渡した金貨を回収していた。
それを東区に馴染むための服装に使ったということである。
決して、こういったドレスに憧れがあったわけではない。
「以前のお姉さまの服装もその、せくしーで好きでしたよ!」
「あなたは本当にキラキラした目で恥ずかしいことを言うのね」
「誰にだって言ってるわけじゃありません。お姉さまの前だと、気持ちが勝手に溢れてしまうんです!」
「それって、どんな姿でもそうなるってことじゃないの」
「それは……たぶん、そうなります」
「ふふ、それじゃあどんなことを言われても?」
「はい!」
「どんな理不尽な命令をされても?」
「それでも……お姉さま相手なら喜んでしまうかもしれませんっ」
本当に、アデリッサの好意は痛いほど真っ直ぐで、力強くて。
それを浴びるたびに、フィノは『あたしは何をしてるんだろう』という気分になった。
「じゃあもしも、私があなたをさらってどこか遠くに行ったら――それでも笑ってついてきてくれる?」
「はいっ!」
「ご両親が悲しむわよ」
「お父様やお母様と会えなくなるのは寂しいですが……お姉さまが隣にいてくれるのなら」
恋する乙女の表情で、腕にぎゅっと抱きつくアデリッサ。
フィノは、こういう好意を食い物にできる女でいたかった。
そうなったはずだった。
「今日はどこに行くんですか?」
「ホテルを取ってあるから」
フィノの言葉に、アデリッサの顔が耳まで赤くなる。
しかし恥じらい一辺倒ではなく、今度はどこか邪な欲望の混じった濡れた瞳で、彼女はフィノを見つめた。
「もぅ、お姉さまって……本当にお姉さまですよね」
「久々の再会だもの。お金払ってまで抱かれに来てた不埒な子に、たっぷりご褒美あげないとね?」
「ぁ……は、はぃ……」
弄ぶつもりだった。
けれど、その表情を心からかわいらしいと思うのなら、弄ばれているのは自分の方ではないか。
そこに騙している罪悪感が付随するのなら、もはや復讐の遂行は不可能なのではないか。
胸がちくりと痛む。
人間らしい情動。
憎しみで塗りつぶせ、憎しみで、黒で、真っ黒に。
そう言い聞かせている時点で手遅れだと、とうにわかっているくせに。
◆◆◆
フィノはシェンナ・フィニアースが仕切る娼館で働いているとき、彼女が店の外で誰かと話しているのを聞いた。
その会話で、本当の店のオーナーがアンヴォロであることを知った。
それを知った瞬間、彼女の脳裏に一つの可能性が浮かんだのだ。
そしてその可能性を 否定(・・) するために、彼女は暇な時間を使って調べた。
エニチーデを出て、王都で暮らしはじめて、今日まで続いたフィノの〝転落〟の物語。
その裏側にアンヴォロが存在する――そんな悪夢を否定するために。
かくしてフィノは知った。
自分は人形。
哀れな操り人形。
天真爛漫な少女が娼婦に身をやつし、破滅するまでを描いた喜劇の一部に過ぎないのだと。
そう、フィノの人生の裏側にはいつだってアンヴォロの影があったのだ。
田舎者だと馬鹿にして追い詰めた上司。
自分の不正行為の責任を押し付けてきた同僚。
暴力で彼女の感情を縛り付けた彼氏。
唯一の理解者だと思っていた友達。
その全てが、作り物だった。
それを知った途端に、フィノの胸に三つの感情が芽生えた。
ありきたりな絶望。
アンヴォロの異様な執着心に対する恐怖。
そして、彼に対する底しれぬ怒り。
三つの中でもっとも大きいのは、最後の一つ。
ゆえに彼女は復讐者となった。
胸に黒い炎をたぎらせて――こんなにも感情が滾るのは、希望を胸に王都に到着したとき以来だった。
娼館はフィノを薬漬けにしたがった。
そこそこの値段がする薬を客にタダで持たせ、それを〝仕事〟の最中に使わせたり。
客としてやってきた男が たまたま(・・・・) 売人だったり。
つまりアンヴォロは、フィノをさらなる奈落へと突き落としたかったのだろう。
一方で彼女は、同じく娼館で働いていた〝サンプル〟に目を付けた。
あれだけフィノに薬を使っているのに、一向に溺れる様子がない――それでは怪しまれる。
だから彼女は、サンプルを参考に薬に溺れた自分を演じることにしたのだ。
演技は徐々に上達していった。
その様は、シェンナから見れば徐々に薬に溺れていっているように見えただろう。
そして完璧な演技を身につけた頃、シェンナはフィノの〝終わり〟が近いことを疑わなかった。
だからこそ彼女は、自由に動くことができた。
油断、というやつだ。
完全に薬に溺れた人間が今さら想定外の動きをするはずがない、とシェンナの監視が露骨に緩んだのである。
その隙を利用した。
店がタダで渡してきた薬を密かに売り払って金に変える。
自分の稼ぎよりはるかに高い薬物を、こんな戯れのために渡してくるのだから笑い草だ。
客の情に訴えて協力者を増やす。
冒険者は英雄ぶりたい男ばかりだ、悲劇のヒロイン面をすればそう難しくない。
そして稼いだ金は薬に使ったフリをして、協力者経由で秘密裏に溜め込む。
全てはアンヴォロに反撃するために。
そうしているうちに、〝サンプル〟の娼婦は薬欲しさに自らの人生を売り払い、奴隷となった。
協力者にサンプルを追跡させた。
サンプルは食肉へと代わり、アンヴォロの胃袋に収まったと聞かされた。
フィノはそのとき初めて、自分たちの人生が何のために歪まされたかを知った。
武器が必要だ。
あれだけの異常者を相手にするためには、確実に喉元を引き裂ける武器が。
フィノは計画と並行して、アンヴォロの調査を進めた。
そこでわかったことだが、アンヴォロ・レデンプターという男は――どうしようもない善人だった。
ライバルとなる商人にすら無条件で信用され、慕われている。
東区で彼を嫌う人間など誰一人いないだろう、と断言できるほどに彼を取り巻く世界は優しい。
妻のデルーナ、娘のアデリッサからも当然のように愛され、仲も良い。
休日はボランティア。
主にタダで食事を配って過ごす。
人々の笑顔を見て「私も満腹です」と本心から言える男。
それが、アンヴォロである。
ああ、なんておぞましい――本性を知るフィノからはそうとしか思えなかった。
そして同時に、あれだけ他人から信用されている男ならば、娼婦風情が悪事を暴いたところで誰も信用しないだろう、とも。
だが、悪事を暴くことだけが復讐ではない。
幸いアンヴォロにはわかりやすい弱点があった。
――家族だ。
◆◆◆
アデリッサの人生は、順風満帆だった。
優しい両親に恵まれ、大好きな友人たちに囲まれ、東区の学校に通いながら品行方正に生きる。
いつかは父の会社を継げるように、と日々勉学に励み、それを嫌だと考えたことなどなかった。
親に敷かれたレールと言われればそれまで。
けれどそれが幸せならば、何も問題はないはずだ。
そう思っていた。
〝刺激〟を知るまでは。
学園からの帰り道、基本は友人と一緒に登下校をする。
この東区で誘拐を企てる不届き者などほとんどいないが、それでも一人で歩くのは危険だという認識はあった。
だがその日は不運にも、いつも一緒に帰る友人に用事ができてしまった。
本来なら使用人を呼ぶべきなのだが、こういうときアデリッサは一人で帰りたがる。
彼女は十五歳、背伸びしたくなる年頃なのだ。
そこに――女は現れた。
胸元の開いた露出の多い上着、短く際どいスカート、金色の髪に濃いめのメイク、そして甘い香水の香り。
東区では見ない出で立ちだった。
彼女はアデリッサの前に立つと、妖艶に笑いながら顔を近づけた。
「こんにちはぁ、お嬢さん」
アデリッサは「こんにちは」と丁寧に頭を下げて返事をする。
それがおかしかったのか、女性はけたけたと笑った。
「ふふっ、かーわいい」
「えっ……わたし、ですか?」
「他に誰かいる? 見た目がかわいいと思って声をかけてみたらさ、喋るともっとかわいいのね」
そう言って女性の指先が頬に触れる。
途端にアデリッサの頬は紅潮し、胸が高鳴る。
彼女はこれまでの人生で感じたことのない未知の感情に戸惑い、俯いた。
一方で女性は品定めをするように、そんなアデリッサの様子を観察している。
「……ふぅん、そっちの方でも行けそうか」
女性はそう呟いたが、アデリッサには何を言っているのかわからなかった。
「あたしはフィノ。あんたは?」
「アデリッサ、です……」
「アデリッサか、金持ちのお嬢様って感じの名前だね」
「そ、そうでしょうか……」
「うん、呼んでるだけで上品になれそ。もっと呼んでみていい?」
「どうしてそんなことを……ひゃっ」
フィノはアデリッサの耳元に口を寄せ、囁く。
「アデリッサ」
「っ、ぅ……」
「かわいいアデリッサ。ふふ、耳真っ赤にしてかわいー」
「あの、くすぐった……い、です」
「もっとくすぐったくしてあげるよ。アデリッサ。アデリッサ、ふふっ、どんな気分? アデリッサ」
フィノはとうにアデリッサに そういう(・・・・) 耐性がないことに気づいていた。
ここで押し切れば、手籠めにできるであろうことも。
だから容赦しない。
耳元で囁きながらぐいぐいと体を押し付ける。
アデリッサは少しずつ後退り、背中から壁に押し付けられる。
フィノは胸をアデリッサの体に押し付けて、熱を帯びた体温を重ねながら、なおも繰り返し耳元で囁いた。
「まだ赤くなってるね、アデリッサ。耳元で名前を呼ばれるだけでそんなになっちゃうんだ。本当にかわいい、アデリッサ」
「ちがっ、あの……こ、これは、どんな意味が……っ」
「アデリッサがかわいいからかわいいって言ってるんだよ。アデリッサ、かわいいかわいいアデリッサ」
「あぅ、ひあ……っ」
とうにアデリッサの思考はどろどろに溶けていた。
心臓はバクバクと破裂しそうなほど高鳴って、体は汗ばむほど暑くなって、ぜったいにおかしいのにちっとも逃げたいとは思わない。
むしろ、この甘くて柔らかな感触をもっと味わっていたいような――
「アデリッサ」
「ひゃ、ひゃい……」
「もっといいこと、しよっか」
フィノはアデリッサの足と足の間に膝を滑り込ませる。
「わかり、ません……それって、いけないことじゃ……っ」
「うん、いけないこと。アデリッサはかわいいから、お姉さんがいけないことを教えてあげたいの」
「……ダメ、です。そんなの、知ったら、ダメになります」
「ダメになろうよ。大丈夫……」
そしてフィノは、ひときわ優しい声でアデリッサに囁きかける。
「ダメになっても、あたしがちゃーんと愛してあげるから」
何もしなくても、心臓のバクバクがうるさい。
小刻みな呼吸は、心拍に合わせて無意識に繰り返される。
アデリッサが荒れ狂う感情に翻弄され、身動きも取れないでいると、フィノの顔が真正面にやってきた。
そのまま近づいて――唇に重なる。
しっとりとした唇が交わって、感情は臨界点を越えて真っ白になった。
そのままフィノは顔を近づけたまま、アデリッサの手を捕まえる。
指を絡ませ、逃さぬようしっかりと握る。
「さあ、行こっか」
地獄への誘い。
わずかに残ったアデリッサの理性がそんな言葉を発した。
一方で本能は言う。
甘い地獄なら、堕ちた方が幸せだと。
◆◆◆
それからフィノとアデリッサの秘め事は始まった。
お嬢様は友達に嘘をついて一人で学校を出る。
娼婦は恋人の仮面を被って少女を貪り食らう。
アデリッサは面白いほど簡単にフィノの術中にはまった。
フィノが望めばどんな姿だって見せたし、フィノが望めば尊厳の欠片もない言葉だって発した。
最初は『フィノさん』と呼んでいたけれど、気づけば『お姉さま』に変わっていた。
もっとたくさん会いたいからと、フィノが働く娼館に来るようになった。
金を払ってまでフィノの時間を自分のものにしようとした。
当然、金を無心しても嫌な顔一つせずに差し出してきた。
それが父親を殺すための金だとも知らずに。
いや、あるいは知っていたとしても渡したかもしれない。
望まれるがまま、望まれる形になること。
従属すること。
アデリッサは微塵の恐怖もなく、それに幸せを感じている様子だった。
フィノは愉しんだ。
自分の純朴さを利用し、いいように人生を破壊し尽くした クズ(アンヴォロ) 。
その娘が、自らの純朴さを利用され、愛情の毒に冒されて、無様な獣へと変えられていく。
爽快だった。
無論、これだけで復讐を終わらせるつもりはない。
「あの、フィノさん……わたし、フィノさんだから、いいと思ってます。誰とでも、こういうことしたいと思ってるわけじゃないですから」
もっともっとアデリッサを自分に心酔させるのだ。
「お姉さま、って呼んでもいいですか? よかった……だってフィノさ……お姉さんのこと、もっと身近に感じたくて。って、笑わないでください! 確かに言い出したのはわたしですけど、なのに間違えるのはおかしいですけどっ!」
そして彼女自身の手で、アンヴォロを破滅させる。
「ずーっといっしょにいましょうね、お姉さま。わたし、お姉さまさえいれば……他になにも必要ありませんから」
そう、フィノにとってアデリッサは最強の手駒だった。
「わたしは幸せです、お姉さまさえいてくれれば。そしてお姉さまも、わたしがいると幸せなんじゃないかなって……そうだったらいいな、って思ってます」
爆弾と言ってもいい。
いずれアンヴォロを殺すために、彼の懐でもろとも爆破するための。
「気づいてなかったんですか?」
便利で、無価値で、使い捨ての道具。
「最近のお姉さま、よく笑うようになりましたよ」
それがアデリッサだ。
そう、それだけの価値しかない。
そのはずだった。
◆◆◆
――そして現在。
事を終えて、フィノと同じベッドで並ぶ時間。
アデリッサは思う。
許されない関係性に溺れていたのは、最初だけだと。
正しく生きる人間ばかりが暮らす世界。
そんな場所から抜け出して、自分だけが知っている景色を見ている気分だったから。
けれど繰り返すうちに新鮮さは薄れていって、刺激だけを求めているわけではなくなっていって。
見える景色そのものを、感じる温もりそのものを、愛おしいと思うようになっていった。
「信じていたのに、会わない時間が長引くほどにその心が揺らいでいって。わたし、お姉さまに捨てられたんじゃないかって、すごく怖かったんです」
息遣い。
肌を濡らす汗。
張り付いた髪。
それに触れるあなたの指先。
何気ない言葉。
誰より近くで見る、あなたのごまかしようのない表情。
「捨てるわけないでしょ、こんなにあたしのこと好きでいてくれてる女の子を」
「わたしはそうです。でもお姉さま自身の気持ちは、どうですか」
慣れてくると、自分の口からめんどくさい女の子みたいな言葉が出てくるようになった。
きっと甘えられる相手と認識したのだろう。
心を許した証拠であると同時に、そのせいで離れていかないかと不安にもなる。
けれど今は、そういう甘えとかではないと思う。
明確に、理由があって問うた。
そう――だからフィノは答えない。
答えられない理由があるから。
「わかってますよ。お姉さまが何かをがんばってることも。そのために、わたしがここにいるってことも」
出会いは偶然だと思っていた。
けれど逢瀬を重ねるほどに、フィノが何かを求めているのだとアデリッサは気づき始めた。
自分がレデンプター家の令嬢であることを思い出したのはその頃だ。
遅すぎる。愚かだ。そう言われても仕方ないと思う。
学校の行き帰りすら一人で歩くことを許されなかったのは、フィノみたいな悪い人間に捕まらないためだったのだと、今さらになって両親の優しさに気づいたりもした。
けれど、気づくのが遅かったのはアデリッサのせいだけではないと思う。
だって――〝騙すため〟と呼ぶには、フィノと過ごす時間はあまりにやさしくて、愛情に溢れすぎていたから。
「奴隷の印」
アデリッサの指が、フィノの頬に触れる。
ここに来るまでの間は、上から布を貼って隠していたが、さすがにこうなると隠せない。
当然ながら以前はなかったものだ。
フィノが奴隷として売られ、会えなかった間に付けられたもの――彼女の身に何が起きたのか、そしてなぜ高価な衣服を着てまた現れたのか。
「お姉さまがそうまでしてやり遂げたいことって、何なんですか? もしお父様にまつわることなら――」
アデリッサは〝気付いた〟。
つまりもうこの時点でフィノの企みは失敗なのだ。
彼女が他者を利用して復讐に徹する鬼になるのなら、ここで高笑いでもしてネタバラシをしてしまえばいい。
だがフィノはそうできなかった。
それどころか、慈しむように頬に触れるアデリッサからそっと目を逸らし、唇を噛んでいる。
「わたし、自分が破滅することになっても、お姉さまの役に立ちたいです」
「アデリッサ、あなた……どういう意味かわかって言ってる?」
「どうせ壊れるのなら、ただ利用されるより、お姉さまの命令で壊れてしまいたい」
アデリッサは、最初に出会ったときそうされたように顔を近づける。
そして場違いな無邪気な笑みを浮かべた。
「そう思ってしまう女の子にされちゃったんです、お姉さまのせいで。はしたないですよね」
高笑いできないのなら、『うまくいった』とほくそ笑んでしまえばいい。
フィノだってそうしたいと思っていた。
しかしどうやら、長引かせすぎたようだ。入れ込みすぎたようだ。
森で死んでいたガウルにしたってそう。
利用したと言っていたくせに――本気で胸を痛めている。
フィノは目を閉じて息を吐き出すと、今にも泣きそうな顔で言った。
「少し、待って」
「それは、何の覚悟を決めるための時間ですか?」
「……わからないわ、あたしにも」
でもそれはきっと、フィノのためではなくアデリッサのための苦しみだから。
アデリッサは不謹慎と思いながらも嬉しくなって、胸がきゅうっとなって。
結果的に慰めになってしまったけれど、純粋な愛おしさからキスをした。