作品タイトル不明
61.薬師協会専属の冒険者の実力(2)
――ガサリ。
茂みの奥で、明らかにさっきまでとは違う重い音が鳴った。瞬間、背筋を撫でるような悪寒が走り、私は反射的に顔を上げる。
「……来るぞ」
低く、鋭い声。
次の瞬間、アルビスさんの腕が私の肩を掴んだ。そのまま強く引き寄せられたかと思うと、ぐるりと視界が回り、私は近くの太い幹の陰へと押し込まれていた。
「ここから出るな。何があってもだ」
有無を言わせない声音。そして、アルビスさんは一歩前に出る。
茂みを押し分けるように現れたのは、灰黒色の毛並みを逆立て、黄色い瞳をぎらりと光らせた狼の魔物が三体。いや、その後ろからさらに二体。
合計五体が低く唸り声を上げながら半円を描くように広がっている。獲物を逃がさぬようじりじりと距離を詰めてくるその姿は、ただの獣ではなく明確な殺意と連携を持った狩る者そのものだった。
「フォレストウルフか……群れで来たか」
アルビスさんは背中の槍を、滑るような動作で引き抜く。その動きに一切の無駄はなく、長い柄が空気を裂いて前へと構えられた瞬間、森の空気がぴんと張り詰めた。
――ギャウッ!
先陣を切った一体が、地面を蹴り上げて一直線に飛びかかる。速い。私の目には、灰色の影が弾丸のように迫ったとしか見えなかった。
だが。アルビスさんは、わずかに体を傾けただけでその牙を紙一重でかわす。すれ違いざまに槍の穂先を翻して狼の喉元へと吸い込ませるように突き入れた。そのまま捻りを加えて引き抜くと、血飛沫が弧を描く中、最初の一体は声を上げる間もなく地面へと崩れ落ちた。
速い、なんてものじゃない。洗練されすぎている。
続けざまに左右から二体が挟み込むように飛びかかる。すると、アルビスさんは一歩踏み込み、槍の石突で右の狼の顎を打ち上げた。
その勢いのまま柄を滑らせて穂先を反転させると、左から迫る狼の腹部を横薙ぎに切り裂く。地面に叩きつけられた顎砕けの狼がもがくより早く、回転するような動きでとどめの一突きを喉へと叩き込んだ。
槍が、まるで生き物みたいだ。長いはずの得物が、アルビスさんの手の中では羽のように軽やかに舞い、突き、払われ、弾かれ、常に最適な軌道で急所を貫いていく。
残る二体が低く唸りながら同時に回り込み、背後を取ろうとする。けれど、アルビスさんは振り返らない。
代わりに、足裏で地面を強く踏み込み、体を軸に大きく円を描くように槍を薙ぎ払う。唸りを上げて振るわれた穂先が一体の前脚を切断し、体勢を崩して転倒したところへ間髪入れずに心臓を貫く。
最後の一体が恐怖に目を見開いて後退しかけた瞬間には、すでに間合いを詰められていて、喉笛に一直線の突きが突き刺さっていた。
すべてが、ほんの数呼吸。森に再び静寂が戻る。倒れ伏す五体の狼。血の匂いが湿った空気に混ざり、赤い雫が槍の穂先からぽたり、と落ちた。
アルビスさんは、軽く槍を振って血を払うと、何事もなかったかのように周囲へ鋭い視線を巡らせ、残党がいないことを確認してから、ようやく肩の力を抜いた。
「……もう出ていい」
その声に、私ははっと我に返る。いつの間にか、息を止めたまま見入っていた。胸がどくどくと鳴っている。怖さよりも、圧倒的な感嘆が勝っていた。
木の陰からそっと出て、倒れた狼と、その中心に立つアルビスさんを見る。
血に濡れた槍を携えたその姿は、森に溶け込みながらも確かにそこに立つ強者そのもので、無駄なく、迷いなく、確実に命を刈り取ったその一連の動きは、美しいとさえ思えるほど完成されていた。
「……すごい」
思わず、声が漏れる。
「流石だね!」
尊敬のまなざしを向けると、アルビスさんは少しだけ眉を上げ、照れくさそうに鼻を鳴らした。
「狼程度で感心するな。森じゃ日常茶飯事だ」
そう言いながらも、その足取りは油断なく、すでに次を見据えている。その姿勢が私の心にわずかに残った不安をかき消してしまう。
この人と一緒なら、この森も怖くない! ちゃんと、素材が集められそうだ! 良い人を雇えて、本当に良かったよー!
◇
その日の夜。
森を少し外れた開けた場所に野営地を作り、周囲に簡易の結界を張り、焚き火に火が入る。ぱちぱちと弾ける音とともに橙色の光が揺れ、昼間の緊張が嘘のように穏やかな空気が辺りを包み込んでいった。
鍋からは、ことことと優しい音を立てながら湯気が立ち上る。鼻をくすぐるのは、骨からじっくり煮出した旨味と野菜の甘みが溶け合った濃厚な香り。
さらにその横では串に刺した肉がじゅうじゅうと脂を滴らせながら焼け、表面はこんがりときつね色に色づく。溶けかけたチーズがとろりと絡みついていて、その光景を目にした瞬間、私は思わずごくりと喉を鳴らしてしまった。
「……すごい」
思わず漏れた声は、感嘆そのものだった。
焚き火の明かりに照らされながら、アルビスさんは慣れた手つきで鍋をかき混ぜ、塩をひとつまみ。味見をしてから小さく頷き、木の器へとスープをよそっていくその一連の動作があまりにも自然で、まるで長年それを日常としてきた人の所作そのものだった。
「ほら、できたぞ」
差し出された器から立ち上る湯気の向こうに、透き通った琥珀色のスープ。柔らかく煮込まれた根菜。ほろほろに崩れそうな肉の塊が見えた瞬間、私は完全に目を輝かせていたと思う。
「いただきます!」
まずはスープを一口。
じんわりと舌に広がる優しい塩味と、骨の旨味が凝縮された深いコク。それに野菜の自然な甘みが溶け込んでいて、体の芯から温まるような感覚が胸いっぱいに広がり、思わず目を閉じてしまうほど美味しかった。
「おいしい……!」
次に焼きたての肉をかじれば、外は香ばしく中は驚くほどジューシー。噛んだ瞬間に溢れ出す肉汁と、とろりと溶けたチーズの塩気が絶妙に絡み合っている。
そこへ素朴だけれど小麦の甘さをしっかり感じる焼きたてのパンを合わせると、もう言葉にできないほどの満足感が押し寄せてきて、思わず頬が緩みっぱなしになる。
「……もしかして、普段より美味しいかも」
屋敷で食べる食事ももちろん悪くないけれど、森の夜。焚き火の前で食べるこの温かな料理は、それとはまったく別の、心まで満たされる味がした。
「アルビスさん、すごいよ! 素材採取もできて、魔物討伐もできて、こんな美味しいご飯まで作れちゃうなんて、完璧すぎない!? 伝説級の冒険者って、料理スキルまでカンストしてるの!?」
大げさなくらい身を乗り出して褒めちぎると、アルビスさんは一瞬きょとんとしたあと、慌てたように咳払いをした。
「お、おい、そんな大層なもんじゃない。ただの野営飯だ。腹が満たせりゃ十分だろ」
「十分どころじゃないよ! これ、普通にお店出せるよ!? 森の中でこのクオリティってどういうこと!?」
「肉を焼いて、スープを煮ただけだ。誰でもできる」
「誰でもはできないよ!」
思わず即答すると、アルビスさんは少しだけ困ったように視線を逸らし、焚き火の火をいじりながら小さく呟く。
「……一人で森に入ることも多かったからな。生き残るには、食えるもんをうまく調理する技術も必要だった。それだけだ」
その何気ない一言に、長年の積み重ねが滲んでいるのが分かる。戦えて、採れて、守れて、そして食べさせてくれる。頼もしさの塊みたいな人だ。
スープをもう一口飲みながら、私はしみじみと思う。
今日の狼との戦闘も、昼間の素材採取も、そして今こうして温かい食事を囲んでいるこの時間。全部が想像していたよりずっと順調で、森に入る前に胸の奥にあった不安が、焚き火の炎と一緒に少しずつ溶けていくようだった。
「アルビスさんと一緒に来られて、本当に良かった」
素直にそう言うと、彼は少しだけ目を丸くし、それから照れ隠しのように鼻を鳴らす。
「雇われた以上、仕事はする。それだけだ」
でも、その口元はわずかに緩んでいる。焚き火がぱちりと音を立て、星空が木々の隙間からのぞく。
森の奥からは遠く獣の声が響くけれど、今は怖くない。隣には、できる冒険者がいる。
素材採取も、魔物討伐も、食事の用意までこなしてしまう頼もしい同行者。温かなスープを分け合うこの状況は、旅の不安をかき消してしまうほどに心強い。
私は器を両手で包み込みながら、明日もきっと大丈夫だと、自然にそう思えていた。