作品タイトル不明
199話 スラリンなしでは無理ですよ
スカーレット嬢が血相を変えて、それでも優雅に早歩きで近寄ってきた。
さすが公爵令嬢だなぁと感心する。
「インドラ君!」
血相を変えたスカーレット嬢が、動転して私の呼び名を間違えた。
「と、と、と、と、トイレが! 水洗!」
「魔術って偉大だよな」
肩をすくめて答えた。
スカーレット嬢、ぶるぶる震えたと思ったら、唐突に叫んだ。
「やだー! ここに住んだら、もう後戻りできなくなりそうー!」
おいおい、素に戻りすぎだ。
「例えて言うなら、別世界で、外国人が私たちの国に来てトイレに入ったと考えればいい。自国に戻ったら、また不便なことになるが、すぐ慣れる」
なだめたら、上目遣いでおずおずと尋ねてきた。
「……ちなみに、アレを頼んだとして、可能ですか?」
「無理だな。この屋敷を買い取り住む前に、かなり大規模な改修工事を行った。排水から全て考え、ほぼ作り直しのように工事したのだ。当時は時間があったが、今はいろいろ手がけていて時間が取れない。そもそも私は冒険者だからな。大体のことが軌道に乗り屋敷の住人に完全に任せられるようになったらまた出かける予定だ」
キッパリ言ったら、肩を落として意気消沈。
だけどどうしようもない。
単に水の流れる便器を作ればいいだけじゃなく、流した先とその処理を考えないととんでもないことになるだろう。
自分の屋敷なら自分でルール付けも出来るが、他人の屋敷ならそれも無理なので、間違いなく破綻すると思う。
「別世界では、汚水処理は下水を流れて汚水処理場に流れ、そこで浄化される。私たちはそれを意識せず、単に使っていた。――だがな、この世界にはそんなものはなく、つまりは自分の屋敷のどこかに汚水処理場を作らねばならない。もちろんメンテナンスが必要で、詰まらないように定期的に掃除していた。メンテナンスの方法すらも理解して利用しなければならないのだ。それが貴女の屋敷の住人に出来るかもわからない。だから、不可能なのだ」
スカーレット嬢、しょげてるけど理解したようで小さくうなずいた。
「…………わかりました。表面の便利さだけじゃ、駄目ってことですね?」
「その通りだ。私は、清潔な生活を望み、そのためのメンテナンスをいとわない。屋敷の住人もそれに応えてくれている。だからこそ可能だ」
そうなんだよね、よくやってくれてると思うよ、うちの住人たちは。
快適なのは使ってるときだけで、メンテナンスの大変さはむしろ住人たちが身に 沁(し) みてると思う。
まぁ、排水溝の掃除は愛するスラリンがやってくれてるんだけどー。
それから時間が経過し、夕方にテラスの前を通りかかると、リラックスした服で柑橘水を飲んでいるショートガーデ親子を見かけた。
風呂を堪能したらしい。
「……やはり、お風呂は極上ですわね。うちの屋敷にもほしいですけど……」
「うーむ。確かに素晴らしいが、あれだけの湯を用意するのはかなり大変だぞ?」
「そうなんですよね……。湯脈でも引き当てられれば良いのですけど」
そんな会話をしていたので、近寄って話しかけた。
「堪能して頂けたようで何よりだ。もう少し後に夕食になる。期待していてくれ。我が料理人は、かなりの腕の持ち主だ。きっと満足頂けると思う」
「あら? インドラ様が作るのではなくて?」
スカーレット嬢が首をかしげた。私は首を横に振る。
「当初は一緒にいろいろと実験しつつ作っていたが、さすがに最近はやらないな。使用人たちの仕事を取り上げると怒られる。私はこの屋敷の主人ではないのだが……」
それでも怒られるのだ。
しょうがないからやらないけど。
でもね、本当は同じ立場なんだよ?
そう言うと、泣かれたりものすごくガッカリされるので言わないけど。
――彼らにとっては私こそがスプリンコート伯爵なのかもしれない。
幻影で幻想だが、それがなくては貴族の使用人だった者たちはやっていけないのかもしれない。
平民に仕えるのは無理だから。
もう、そういうことにしておく。