作品タイトル不明
183:飴と鞭とが上手い人
リゼルの敬愛する王には兄がいる。
かつて王位継承権第一位であった彼は、弟が王位を継いだことを“己の運の良さ”だと言った。
王位を継ぐことを憂いたことなどない。継いだとして十分に公務をこなせただろう。
けれど彼はそれ以上に、魔術研究への並外れた執着と才を秘めていた。前者については秘めきれず、度々だだ漏れてはいたが。
だからこそ彼は、弟の王としての資質を知るや否や継承権を放棄した。
周囲の期待を裏切り、負うべき責任を投げ捨て、それら全てを幼い弟へと押し付ける覚悟を決め、歓喜と狂喜で震える体で父の元へと向かった。
秘めた衝動は濁流となり、溢れ、己の理性をも呑み込んで国王である父の元へと歩を急がせたのだ。
結果として、継承権の放棄を告げた途端に父にぶん殴られたのだが。
『そう、そういう魔物使いがいるの』
そんな彼に、リゼルは異形の支配者のことを伝えたことがある。
女性的な口調に反して、仕草は何処までも紳士的。継承権を放棄しようが、いまだ王族然とした風格がある。
彼は低く落ち着いた声で、旧友との穏やかな時間を楽しむようにそう告げた。
サルスに来て、不定期ながらも現れるようになった窓。それは国王との近況報告、あるいは情報交換、もといプライベート全開雑談のために主に用いられるが、そこには度々かの王兄が顔を出すことがあった。
体調に異変がないかの近況報告、あるいは世界同士を繋げるための情報交換、もとい趣味全開魔法技術トークのため主に用いられている。
似た者兄弟、というのはリゼルが常々思っていることだ。
「気になりますか?」
『そうね』
リゼルがそう尋ねた時、王兄は特に感慨もなくそう告げた。
言葉に反し、強い興味を抱いたようには見えなかった。
あったのは手慣れたような値踏みの色。うっそりとした笑みを浮かべた瞳に宿る色は、継承権を放棄しようが何処までも王族らしいものであった。
それは、魔術研究の道を行きたいのなら成果を以て周りを納得させろと。そう実の父に設けられた二年という期限の間に、公務と並行しながらも莫大な国益を挙げてみせた真の天才の姿でもあった。
「ああ、それなら」
だからこそ、リゼルは思いつきで告げてしまった。
他を圧倒する才を前に、そんな彼と懇意であるという安心感と信頼感が故に、戯れでそれを口にした。
「支配者さんに窓の研究を一部、横流ししてみても面白そうですね」
『あら、私だけじゃ足りないかしら』
「いえ、お二人の共同研究をただ見たくて」
王兄が上品に笑う。リゼルもまた、可笑しそうに頬を緩めた。
昼下がりのティータイムのように和やかな雰囲気に包まれながら、しかし王兄は告げる。
仕方なさそうに、悪戯した子供を窘めるように優しく言葉で紡いだ。
『リゼルちゃん、随分甘えん坊になっちゃったのね』
リゼルは一度だけ目を瞬かせた。
そして自らの失言を辿る。確かに、貴族時代よりは他者の力を借りることに慣れただろう。
あちらでは誰かを頼るというよりも、業務的に役割配分を行っているだけだった。
あれはあちらに任せて、これはこちらに任せて、そこには情も私情もなく、ただ適した仕事を割り振っているに過ぎなかった。
それを思えば、頼ることに躊躇がなくなったのかもしれない。
あるいは人を選んで場を選んで、そうしてようやく頼ることのできる環境から解放されて、少しばかり羽目を外してしまっているのかもしれない。
だが、彼が言いたいのはそういうことではないのだろう。
「そうですか?」
『そうよ』
リゼルは言葉の続きを待った。
『私だったら気付くわ』
言葉少なめにそう告げる王兄に、リゼルもようやく悟った。
どれほど大元の研究を隠そうが、一部でも与えられれば目の前の天才たちは気づく。いずれ独力で研究の本筋に辿り着いてみせるだろう。
すると、どうなるのか。
自らの住む世界と、ほとんど変わらない別世界が存在することを知った天才たちは。
『気づいたら、“使い尽くす”わよ』
魔法、魔術、それらの研究者たちは理想のオケージョンだと歓喜する。
悪意なく、悪びれず、彼らは自らの実験に利用するだろう。
発見を公にさえしなければ、非人道的だと咎める人間もいない。あらゆる生物を検体とし、あらゆる環境を踏み台とし、それらが齎す影響をリアルにシミュレーションできる絶好の空間だ。
「貴方も?」
『まさか。リゼルちゃんがお世話になっているもの、そんなことしないわ』
「けれど、やる方がいる?」
『そう。だって、実感がないもの』
窓の向こう側で、王兄が優美な仕草で頬杖をついた。
『これ、今はこうして窓の形をとっているでしょう?』
「敢えてこうしているんですよね」
『そう、ガラス一枚隔てて確かに存在する世界。認知での存在証明に近いわね』
リゼルは目前の窓へと手を伸ばした。
窓枠に見える世界の境目をなぞると、触れると同時に指先にひりついた感覚がある。
高濃度の魔力に魔力中毒を起こしたのだろう。目に見えるままの物質ではない。
『けれど、これが鏡だったら?』
「迷い込んだ少女は夢を見ていたにすぎませんか?」
『大人はそう言うものよ。私や、その支配者とかいうのは特にね』
「 現実主義者(リアリスト) ですね」
『証明できなければ存在しないのと変わらないでしょう?』
王兄はそう言って、魔術研究所の所長という職位に相応しい笑みを浮かべた。
彼こそ魔術研究の最高峰、王城に併設された組織の最高責任者。
元王族故の忖度なのだと陰口を叩く者がいたところで、それこそが無知の証であると数多の異才に言わしめるほどの権威。
リゼルはそれを、分不相応だと自覚しながらも誇りに思う。
『私はリゼルちゃんがいるから証明できる。けれど、彼は違う』
鏡越しに目の当たりにする世界を、支配者はどう扱うのだろう。
他者を己の探求心の糧としか思えないほどの傲慢、己の研究こそが何より優先されるべきだと疑わない執着。彼は自らの研究環境が失われない限り、どれほど犠牲を出そうが些事だと言い切るのだろう。
ならば自ずと答えは限られる。
地続きである 隣国(マルケイド) すら蹂躙したのだ。何をしようが罪に問われない、つまり支配者にとっては研究の手を煩わすような雑事が起こりえない、そんな世界の存在に気付いたのなら。
『目の前に現れた絶好のサンプルを逃すような研究者がいるかしら』
「それは」
いずれ貴方もそうなるのかと、そうリゼルが問いかけようとした時だ。
『オラどけ。さっきから関係ねぇ話ばっかしやがって』
『いいじゃない、たまには私にも……ちょっと、尻で押すんじゃないわよ!』
『たまにっつってもちょいちょい喋ってんだろうが!』
敬愛する国王の乱入により、椅子を巡っての兄弟喧嘩が勃発してしまった。
窓の向こう側にある椅子を巡って押し合いへし合いしている二人に、リゼルは可笑しそうに笑みを零す。
口にしかけた問いは、今更聞くまでもないことに過ぎなかった。
それを敢えて尋ねようなどと、やはり少しばかり甘えたになっているのかもしれない。
リゼルはそう思案するも、まぁ休暇中だから良いかと、好きにしていろという国王の命に忠実な結論を出したのだった。
そんな王兄との会話が、クァトとの会話でふと思い浮かんだ。
それからすぐにリゼルは行動を起こす。向かったのは、最近馴染みの魔法学院だ。
無論、馴染みになっているのはリゼルだけだが。ジルとイレヴンは用事がなさすぎて全く寄り付かないし、クァトも初回訪問時(魔物の骨大集合)に、もみくちゃにされて以来避けているようだ。
それでも尚、一切の躊躇なくついてきてくれたクァトにリゼルは感謝の笑みを浮かべる。
「ふむ、あの時の」
「あれどうやったの刃ぁ出してどっから出してんのマジで体から生えんの?」
「ちょっとだけ私の研究室行こっか……大丈夫だよぉ……怖いことしないよぉ……」
以前の騒動の際、魔法学院のほぼ全員に目撃されていたのが運の尽きか。
老若男女に囲まれて震えているクァトだったが、それでも後悔している様子はない。
ならば良かったとリゼルが頷いていると、「冒険者先生」と声をかけながら数人の子供が隣に並んだ。
ギルドからここまで、リゼルは常の歩調を変えていない。
急いてはいないが立ち止まりもしない。よって並んで歩くクァトを囲む研究員らは、器用に横歩きしながらついてきている。
「どうしました?」
「あのさぁ、あの人」
喋りかけた子供の声が止まる。
リゼルの眼差しはいつもどおり暖かで、笑みは向けられたほうが安堵してしまうほど柔らかい。歩調もせっかちな大人のほうが余程早く、一緒に散歩するとしたらこういう感じなのだと思わせるほどに悠然としている。
けれど、いつもは足を止めて目線を合わせてくれる大人がそうしてくれない。
「やっぱいいや」
「あと少しなら話せますよ」
「ううん、また今度聞いて」
得意分野において、大人と対等に話してみせる子供たちは素直に引き下がった。
急いでいるらしい、と察したのだろう。リゼルはそれに気付き、自らを見上げる幼気な瞳に快く頷いてみせた。予想外に気を遣わせてしまった、という謝罪も込めて。
元の世界では特に急ぎという訳でもなく、ただ声をかけてくる相手がリゼルに足を止めさせる気がないということもあり、並んで報告を受けることも多かった。
よって他意はなくとも、少しばかり邪険にするような対応をとってしまったかもしれない。
リゼルは反省しつつ、並んで歩く子供たちの声に相槌を打つ。
「こっちだと別棟のほう行くの?」
「あんま奥のほうって本とかないよ」
「そうなんですか?」
幸い、賢い子供たちはリゼルの言動に不快感を抱かなかったようだ。
用事にとりかかるまでなら良いよ、というリゼルの言葉をそのまま受け取ってくれたらしい。
それもそうか、とリゼルは納得する。
子供たちの周りにいるのは、遠回しな物言いを好まない大人たちばかり。
結論までの最短の道を模索する、そんな研究者たちばかりなのだから。
「歩きながらでいいから両手両足の魔力測定だけさせてくれんか」
「なぁなぁ出してた刃物とか欠けたりしないの余ってたら欲しいんだけどお願い」
「私上手だから痛くしないよぉ……ちょっと血くれたらお菓子あげるよぉ……」
当の大人たちは、全力で自らの欲を満たそうとクァトに絡み続けているが。
彼らは決してリゼルとクァトの歩みを邪魔しない。リゼルたちは何か用があって学院に来ていると察している。むしろ本人たちにしてみれば十分に気遣った結果が今だ。
だからこそこうして、少しの移動時間も無駄にしまいと詰め寄っていた。
「無理……無理……」
クァトはすっかりとその勢いに押されているが。
リゼルはまだ大丈夫そうだとそちらをフォローするでもなく、子供たちを見下ろした。
「じゃあ用事が済んだら……いえ、また今度俺が来た時にお話しましょうか」
「うん」
「クァトは多分、次は一緒にいませんけど」
「えー」
息継ぎの間もない質疑に襲われているクァトを尻目に、リゼルと子供たちは大変穏やかだ。
そうして暫く歩くこと、およそ二分。見えてきたのは子供たちが別棟と称した建物だった。
「ご案内、有難うございました」
優しく告げたリゼルに、子供たちが素直に返事をしながら足を止める。
同時に研究者たちも、未練たらたらな声を上げながらリゼルたちを見送った。彼らは子供たちに纏わりつかれながら、やがて各々の研究へと戻っていくのだろう。
リゼルは過去に一度だけ歩いた廊下を、再び歩く。
以前は出迎えがあり、案内があった。けれど今日はリゼルとクァトの二人きりだ。
やや冷ややかな印象の廊下を歩く内、正面に見えたのは一つの扉と一人の衛兵。衛兵は驚いたように頤を上げ、重苦しい靴音を響かせながらリゼルの元へと近づいてきた。
「本日は面会の予定を伺っていませんが」
「ああ、以前の」
前回、リゼルを目当ての人物に取り次いでくれた相手だった。
今日のリゼルの目的、異形の支配者。その警備、もしくは見張りに立つ衛兵だ。
そこでようやく、リゼルは歩みを止める。クァトもそんなリゼルを一度だけ窺い、一歩下がった位置で足を止めた。
場を見渡すことができ、何かあればすぐに反応できる立ち位置。クァトが意図してそうしたのかは分からないが、そうでないのなら戦奴隷の本能の凄まじさを垣間見た心地だった。
「面会の許可をいただけますか?」
リゼルは問いかけた。
「今から、ですか?」
「ええ、すぐに」
「申し訳ございません、事前に確認をとっていただかないと」
「失礼ですが、急用で」
「それでも私の裁量では許可を出しかねますので」
「仕事熱心ですね」
衛兵は一歩も引かない。
当然だ、リゼルは頷く。抱いた称賛も純粋なものであり、少しの皮肉も込めていない。
だが、リゼルとて急ぐべき案件だ。可能な限り決められた手順を踏みたい気持ちはあるが、それでは間に合わない可能性もゼロではない。
懸念が杞憂であろうが、どちらにせよ釘を刺す必要はある。
支配者の性格を思えば、行動は早いに越したことはないだろう。
よってリゼルは躊躇わなかった。己のポーチに手を差し込む。
「なら、これを貴方の上役に」
「は……」
差し出したのは、黄金の腕輪。
「許可を貰ってきてください」
あっさりと告げられた言葉に、衛兵は絶句した。
穏やかな相貌、柔らかな物腰、威圧的なところなど少しもない相手に気圧される。
彼は震えそうになる手を堪え、どこか茫然と差し出された腕輪を受け取った。感じる重みは、それが本物の金なのだと如実に伝えてくる。
それは輪の一部が扁平となり、そこに刻まれた紋様はアスタルニア王族を象徴するもの。扁平の裏側に刻まれた“Ⅱ”の数字は、一体何を表すのか。
衛兵が描いた予想はただひたすらに現実味がなく、彼はそこから意識を逸らすように、無理やり視線をリゼルへと戻した。
「どうしました?」
優しい笑みだ。冒険者らしさのない、知性の滲んだ柔らかな笑みだ。
だがその問いかけは、上位者特有の疑問を孕む。立ち尽くす衛兵に、他に聞きたいことがあるのかと促している。つまりは、衛兵が己の願いで即座に動き出すことが前提にあった。
冒険者が。
冒険者が国王に仕える衛兵を相手に、己の意見が通ることを当然としている。
「俺、行く?」
クァトがリゼルの後ろから問いかけた。
その声に衛兵は我に返る。無機質な鈍色は、何かを探るように己を捉えていた。
「有難うございます。けど大丈夫ですよ、なるべく穏便に許可を貰いたいので」
「ん」
一歩下がったクァトの視線は、衛兵から離れない。
何故衛兵が動かないのか。リゼルが頼んでいるのに、何故それに従おうとしないのか。
純粋に疑問を抱いた視線に、衛兵は汗の滲みかけた喉を震わせる。どうして自らが気圧されているのかも自覚できぬまま、彼は乾ききった喉でつばを飲み込んだ。
そんな衛兵を一瞥し、リゼルが用件は済んだとばかりに踵を返す。
「コーヒーを一杯、いただきながら待ってますね」
「お、お待ちを……っ」
衛兵は引き留めるように声を上げた。
その一杯を嗜んでいる間ならば待つ。つまり、それを過ぎたら押し通ると告げている。
「……私に、脅しに屈せと?」
「まさか。さっきも言ったとおり、なるべく穏便に事を進めたいので」
「面会許可を強請っておいて何を」
「俺が、貴方が望まないことを強要していますか?」
困ったように微笑まれる。
衛兵は怪訝に思いながらもその言葉の真意を探った。
「貴方に、職務から逸脱した真似をさせていますか?」
その言葉を頭の中で反芻、衛兵の思考が我に返ったかのように平静を取り戻した。
確かに、リゼルの言うとおりだった。
そもそも衛兵が望む望まないの話ではないのだ。
面会許可を求める者が現れれば、上に判断を仰ぐのが本来の役割のひとつ。当日中とは無理を言うが、それが上に話を通さない理由にはならない。
学院に所属している研究者が面会を望めば、何度だってそうして来た。
つまりは、いつもどおりの仕事だった。
「……失礼いたしました」
衛兵の肩から力が抜ける。
どうやら相手の雰囲気に呑まれていたようだと、そう自覚してからは早かった。
冷静になれば分かる。先程から、リゼルが伝えているのは一つだけだった。
「その」
「はい」
急げと、それだけ。
火急の用件ではあるが、ルールに従う意思がある。無理を通そうとも、必要な許可をとる。
無理を通すためのお膳立ても、全て自ら用意していると。最初からそう告げていた。
可能かどうかの問答など今更だ。すでに済んでいる話を蒸し返しているに過ぎない。これほど状況が整えられているなか、手続きの必要性を主張する男はさぞかし的外れであっただろう。
衛兵はそれを理解し、バツが悪そうに首元を擦る。
そうしながらも、己の脚の早さに一抹の不安を抱いて口を開いた。
「あー……二杯目のコーヒーに興味は?」
「いえ、これから頂くコーヒーは少し癖が強いので」
「……承知しました」
急がなければならない。
でなければ清廉で風変わりな冒険者が、真に手段を選ばず扉を開く羽目になる。
まさしく全ては己次第なのだと、そう改めて気付いた衛兵はすぐさま動き出した。
背にした扉の向こう、研究室内に立つもう一人の衛兵へと声をかけて、困惑の声を返されながらも長い廊下を駆け出した。
「腕輪は許可と一緒に貰いますね」
すれ違いざま、寄越された言葉に衛兵は了承の意を示す。
願わくば二人がゆっくりとコーヒーを味わってくれるよう、そんなことを祈りながら。
そうしてリゼルたちは今、馴染みの教授がいる研究室で寛いでいた。
「わはははっ、成程、それでここに来たのか」
「はい、許可待ちです」
「それにしても、二度目の面会にも厳密な許可が必要なのかい?」
「厳重ですよね」
「ふむ、これは……彼もついに何かやったな? いや、一度もやらかしたことのない好奇心控えめな者など学院にはいないけれどね。わははははっ」
椅子に腰かけ、肩を揺らして笑う教授にリゼルも苦笑する。
普段から本の貸し借りにアポイントを必要としない教授は、今日もいきなり顔を出したリゼルを歓迎してくれた。とはいえ、いつにも増して歓迎されたのは、間違いなくクァトの存在があるのだろうが。
そんなクァトは教授の視線を存分に受けつつ、リゼルの隣で所在なさげに座っている。
彼は向けられた視線を避けるかのように、テーブルに積まれた本を捲っては断念していた。
簡単な読み書き計算を不断の努力でマスターしたクァトだが、本も内容が専門的になると流石に難しい。
「教授も何か?」
「いやいや、小生ほど品行方正な研究者はいないとも」
「以前の準一級指定魔道具については……」
「おや、忘れてくれなかったか」
教授がまったく悪びれずに笑った。両目に、クァトを映し続けながら。
リゼルも可笑しそうに頬を緩め、隣を向いた。
「クァト」
「ん」
鈍色の瞳が、間を置かずにリゼルを映す。
「教授が何か聞きたそうですよ」
「何?」
クァトは割かしあっさりと頷いた。
外で研究者数人に囲まれていた時は腰が引けていたが、リゼルが懇意にしている相手というのが大きいのだろう。多少は気が緩んだらしく、平然と教授からの問いかけを待っている。
無機質な瞳に射抜かれ、教授は片頬を笑みに歪めた。
「素晴らしい。あれほどの強者だというのに、こうして面と向かおうと気圧される感じがない。冒険者というのは、どうにもこうにも誰も彼もが気迫に満ちているだろう? ああ、いや、戦う人間というのは基本そういうものであり、そうでない者は意識して無害を装っているのかもしれないね」
「ジルとイレヴンはそういうところがありますね」
「だろう?」
教授の両目が笑みに撓り、そして強い好奇心と共に見開かれた。
「けれど、君は違うようだ」
彼はまるで、獲物までの距離を測るかのようにクァトを見据える。
教授はクァトの本質を目の当たりにした一人だ。自らにとって抗いがたい脅威である魔物の大群を、机上の埃を払うかのように薙ぎ払ったのを目に焼き付けた。
それでも尚、恐怖を感じていない。あるのは溢れんばかりの知識欲のみ。
学院の研究者たちは、何よりその欲に正直に生きている者たちばかりだ。
生存本能が薄いとも言う。ちなみにこれはイレヴンの談。
「さて、何から聞こうか」
教授は足を組み、肘をつきながら告げる。
その顔は既に、いかにも子供に物を教えるのが上手そうな、そんな人好きのする笑みに戻っていた。
「前は何も聞けないまま姿を消したからね。聞きたいことは湖ほどあるんだ」
「勢い、凄かった」
「わははっ、勇み足だったのは認めよう」
胡乱な目をするクァトとは裏腹に、教授からは朗らかな笑い声が上がる。
骨格標本襲撃事件では、探求心溢れる面々にクァトはもみくちゃにされていた。
その際は騒動が国にバレないよう、バレたとしても可能な限り事態を小さく見せられるよう、必要に駆られた研究者たちが事後処理に入った隙を見て逃げている。
ちなみにリゼルもクァトに抱えられるようにその場を後にした。
「でも、多分、無駄」
「うん?」
「知らない。体の……理由、んん、仕組み?」
「自らの体から刃物を生み出せるのが何故か分からない、ということかい?」
「ん」
頷くクァトに、教授は感心したように口元を押さえながらも思索に耽る。
黙り込んでしまった姿を、クァトが気にする様子はない。
リゼルも時折同じように考え込むし、ジルは元々の口数からして少ない。イレヴンなど話している途中でどこかに行くこともある。
そんな三人に囲まれたクァトは、会話ペースを相手に任せることに慣れていた。
「クァトは知りたくないですか?」
「別に」
微笑んで問いかけるリゼルに、クァトが興味なさげに首を振る。
彼にとっては、生まれた時から当たり前にあったものだ。それを敢えて調べたいと思うほど、頭で考えなければ動けないタイプでもなければ好奇心旺盛な質でもない。
拳を使って戦う冒険者が、掌の仕組みなど気にしないのと同じことだろう。
リゼルがそう納得していると、ふいにクァトが扉のほうを見た。
「失礼しまぁす」
食器の擦れる音が聞こえると同時に、扉が開いた。
現れたのは、コーヒーを携えた子供が一人。最近、空間魔法使いだと判明した少年だった。
彼は照れ隠しのように、少しばかり不遜な声色で入室を告げる。
肩で扉を押さえ、コーヒーの載るトレーのバランスをとる少年に、歩み寄ったリゼルは扉を押さえてやった。
「どうぞ」
「あ、りがとう」
少年は唇を尖らせながら、研究室に足を踏み入れた。
時を同じくして教授がクァトに質問を始める。クァトはそれに一つ一つ律儀に答えていた。
質問をして思考に沈む、それを繰り返す教授の姿に、少年が仕方なさそうに口を開く。
「ああなると長いよ」
「未知の探求には時間がかかりますよね」
「オレも、まぁ、気になるけど」
そう告げた少年の目も、彼の師と同じくクァトを凝視している。
骨格標本襲撃事件の日には少年もいたはずだ。無数の刃を振るうクァトをどこかで見ていたのかもしれない。
「あれどうなってるんだろ」
「本人も分からないみたいですよ」
「知らないの、怖くないのかな」
「彼にしてみればただの体の一部ですからね」
覚束ない手つきで、傍の机にコーヒーが置かれる。
リゼルはそれに感謝を告げながら、少年の胸元を一瞥し微笑んだ。
「君の空間魔法みたいなものです」
少年が以前、首にかけていたペンダントは見当たらない。
「怖かったですか?」
「最初だけ……今は、そうでもないけど」
「空間魔法なんていう解明しきれない魔法でも?」
「それは、でも、そういうものって思えばいいのは分かったから」
そこまで言葉にして、少年は納得がいったように頷いた。
リゼルも褒めるように目元を緩め、薄っすらと湯気の立ち上るコーヒーを持ち上げる。一口味わえば、以前よりは随分と飲みやすくなっていた。
「コーヒー、淹れ方を変えました?」
「うん。……不味い?」
「いえ、とても美味しいです。腕を上げましたね」
冗談めかして称賛を口にしたリゼルに、少年も満更でもなさそうだった。
彼はクァトの前にもコーヒーを置く。ミルクと砂糖をたっぷりと入れてもらったそれを、クァトは教授との質疑応答の合間を縫って美味しそうに飲んでいた。
「そういえば」
リゼルは優しく問いかける。
「ペンダント、役に立ちましたか?」
「あー……うん、役に立った」
「体調は崩しませんでしたか?」
「ううん、めちゃくちゃスッキリした」
「良かった。なら、心配していた質問攻めは?」
少年は少しばかりげんなりとした顔で頷く。
どうやら危惧していた事態に陥ったようだ。とはいえ最も彼が不安に思っていたこと、周囲の人間に距離をとられるのでは、という不安は杞憂に済んだのだろう。
何よりだ、とリゼルは微笑ましく思いながら言葉の続きを待つ。
なかなかにデリケートな話題だ。詳細を無理に聞き出そうとは思わないし、口を噤まれても深追いはしないつもりだった。
けれど少年は既に質問攻めに遭い、微に入り細に入り説明させられたおかげで吹っ切れたらしい。意外にも全く躊躇することなく言葉を続けた。
「吐い……ええと、魔力出したの、家だったんだけど」
「はい」
「すっごい魔力出て。目で見えるくらいのが、口から。すぐ魔石に吸われたけど」
「ご家族の方、びっくりしたでしょうね」
「うん、慌てたおじさん達に学院に担ぎ込まれた。……二人共、ああなるの知ってたのに」
むず痒そうに消えていく語尾は、心から心配されたことへの喜び半分照れ半分か。
少年が森の空間魔法使いたちを訪ねた時は、当然ながら保護者同伴だった。
勿論、体内の魔力を吐き出す方法も教えられている。よって少年の伯父や伯母も、いずれ同じようなことが起こると承知していただろう。
それでも、煌めく魔力の塊を吐き出す甥の姿は衝撃的だったらしい。
「大切に思われてるんですね」
「そ……う、だと、思う、多分」
口ごもりながらも、小さく頷く姿が微笑ましい。
保護者らは大混乱のまま少年を抱え、魔法学院へ走ったという。そして。
「たまたま通りがかった天秤先生の魔力測定器が振り切れてあっという間にバレた」
少年はやや投げやりに話を切り上げた。
「あれ、魔石から魔力が漏れました?」
「魔石用の測定器だったから」
「ああ、成程。流石ですね、魔道具については数も種類も他の追随を許さない」
「まぁ、うん」
「ペンダントは、今は?」
「一応持ってるけど……」
少年は少しばかり後ろめたそうに、ポケットから真っ黒な魔石を取り出した。
あまり人目に晒したくないと思っているのが一目瞭然だ。リゼルは、空間魔法使いの魔力放出を吐しゃ物に例えたイレヴンを思い出して苦笑する。
ただの魔力なのにとリゼルは思うも、少年の気持ちも分からなくはなかった。
「嫌ならもちろん、断ってもらっていいんですけど」
彼の気持ちは尊重したい。
けれど、リゼルは敢えてそれを口にした。
「その魔石、貰うことってできますか?」
「え……、……、……やだ……」
だいぶ葛藤があったあたりに、少年の恩義を感じる。
リゼルは微笑ましそうに、そして納得したように頷いた。
見せるのすら戸惑いがあったのだ。譲渡ともなれば、居た堪れなくて仕方ないだろう。
だが、そんな少年の様子に待ったをかける者がいた。
「君の気持ちも分かるけれどね」
クァトとの会話に熱中していた教授だ。
彼は前のめりになっていた体勢を起こし、咎めるような口調にならないよう、意図して優しく少年へと語りかける。
「それが、とても希少なものだというのは分かるね」
「……うん」
「君がそれに救われたのが、どれほど幸運な巡り合わせなのかも」
「…………うん」
少年は不貞腐れた子供のように俯き、小さく頷く。
リゼルは教授を見た。そこまで無理強いするつもりはない。
嫌がると知りつつも打診したのは、魔石の返却を求めてというよりも、むしろ他者の手に渡ることを防ぐためだ。少年が魔石を手放そうとした時、彼の優先順位の一番上にリゼルを置いておきたかった。
けれど、教授はリゼルへと片眼を瞑ってみせる。
どうやら、少年にもっと考えさせるべきだと判断したらしい。つまりは教育の一環だ。
「渡せってこと?」
「まさか。それは小生が口を挟むことじゃないさ」
「なら、お金払う?」
「わはは、小生が子供に金銭的価値を説くほど大人げなく見えるかい?」
「なら分かんない」
「さて、それはどうだろう。考えなさい、小生の助手は賢いよ」
その光景を、リゼルは懐かしそうに眺めていた。
魔法学院の生徒は分からないことに素直だ。分からなければ知ればいい、それをよく理解しているのだろう。子供らしく見栄を張ってしまう、そんな場面をここでは見たことがなかった。
とはいえ、勉学に関係しなければ甘えも出るのだろう。
答えを求めるようにこちらを窺う少年に、リゼルはにこりと笑ってみせた。教授の言わんとすることは、リゼルも既に察している。
「考えて考えて、それで出した結論なら小生も何も言わないさ」
「今言ってるのに」
「そうだね。つまり?」
「……オレが、考えてない?」
「もちろん、ただ嫌だという気持ちもとても大切だ。だが小生たちは研究者、全ての可能性を潰し尽くしてこそ、真に正しい解答を得られるというものだろう?」
ようは、考えさせること自体が目的だった。
魔石の価値を説いたのは、そのための材料を用意したに過ぎない。
この非常に研究熱心な教授が、加えて教育熱心なのは、今までの会話からもリゼルにも伝わってきていた。面倒見の良い性分というよりは、教育もまた彼にとっては打ち込むべき“研究”の一環なのだろう。
「ゆっくり考えるといい。おっと、それで良いかな、冒険者先生」
「はい、勿論です」
唸り始めた少年に、教授は楽しそうに笑う。
その時、二人のやり取りをぼんやりと眺めていたクァトがリゼルを見た。
リゼルを、というよりはその手元。鈍色の視線が向けられたのは、もうすぐで空になるコーヒーカップだった。
「行く?」
「いえ」
問いかけるクァトに、リゼルは考えるように扉を見る。
「遅いですね」
「何か待っているのかい?」
「はい、許可を待ってます」
「うん? ここで時間を潰してもう一度訪ねる、という話だったけれど」
「いえ、それよりも大切な」
教授のもっともな疑問に、リゼルが可笑しそうに笑みを零した時だ。
ノックもなく扉が開く。現れたのは、長い前髪で両目を隠した一人の青年だった。
彼はリゼルを見つけると、うなじを掻きながら口を開く。
「あ、どうも。お待たせしました」
青年はまるで、通い慣れた部屋を訪れたかのように気負いなく立っていた。
こんな研究者がいたかと、師弟が一瞬でも記憶を辿ったほどだった。
一方、クァトは何も言わない。ここまで一切の物音を立てない相手だろうが、リゼルから紹介されたこともあるので特に警戒はしていなかった。
「どうでしょう」
「オッケーらしいです」
リゼルの問いかけに、青年は手で言葉どおりのマークを作ってみせた。
「良かった。嫌そうにしてませんでした?」
「や、全然ですね。『俺が嫌っつったら即やめるだろうから逆にオッケー』らしいんで」
なら良かったと、伝えられたリゼルは頬を緩めて席を立つ。
最も必要な許可がとれたのだ。コーヒーでの一服も終え、もはや待つ必要などないだろう。
もっとも、必要な許可というならばもう一人分足りないのだが。
「クァト、そろそろ」
言いかけ、歩を踏み出そうとしたリゼルは動きを止めた。
視界に捉えたのは小さな光。光をも吸い込む漆黒、幼い掌にのる魔石の内側から光が灯る。
「うん?」
同時に、教授のテーブルに置かれた魔力測定器が大きく針を揺らした。
教授がそちらに気を取られた、その一瞬のことだ。少年の手が書類の積まれた机に伸び、そこにあったペーパーナイフを握る。
銀色が煌めき、まっすぐにリゼルへと向けられた。
「、」
リゼルに逡巡は一瞬もなかった。
そんな暇はない。扉の前にいたはずの精鋭が、今まさに少年の傍らに立っている。
彼はまるで握手を求めるかのように、気迫もなく幼い手首を切り落とそうとしていた。
精鋭は止められない。何を言おうと止まらない。
止められる理由が理解できない彼は、何を伝えようと己への言葉だとは取らないだろう。
「守って」
だから、呼びかける先はクァトに。
既に少年とリゼルの間に立ちはだかっていたクァトは、ペーパーナイフを掌で受けようとしていた動きを中断。呼びかけに応え、向かってくる少年の手首を握って止める。
直後、その手の甲で精鋭のナイフが跳ね返った。それは鋭い音を立て、折れた刃先が跳ねる。
「あ?」
あまりにも予想外だったのだろう。気の抜けたような声が精鋭の口から零れた。
だが彼はそのまま、先の欠けたナイフをクァトへと向けた。
何かを考えてのことではないだろう。流れで、とりあえず、そんな雰囲気さえ漂わせて。
しかしそれも、クァトの背から伸びた鈍色の尾に阻まれる。
「なんだ⁉ 何が……ッ」
あまりにも事が一瞬で起こりすぎていて、ようやく現状に追いついた教授が声を上げる。
そんな彼が見たものとは、撓る鈍色がみぞおちに直撃して吹き飛ぶ精鋭と、クァトの手をなんとか振りほどこうと暴れる教え子の姿だった。
彼はしきりに精鋭と少年を見比べ、混乱しながらも己の教え子へと駆け寄る。
「何を……ッ、いや、待ちなさい、落ち着いて、それを置きなさい」
「教授、大丈夫ですよ。彼に危険はありません」
「なんだ、何があった? すまない、こんなことをする子じゃ……」
「分かっていますよ、大丈夫。原因も心当たりがあります、落ち着いて」
リゼルは常より一層穏やかに声をかけ続けながら歩を進める。
横目で確認した少年は、表情が抜け落ちたように呆然と、しかし体は精一杯クァトに抵抗していた。しかし己の体を壊すような暴れ方はしておらず、蹴られ引っ掻かれているクァトも全く効いている様子がない。
ならば最優先すべきは。
そうリゼルが歩み寄ったのは、壁に寄りかかる精鋭だった。
「動いてくれて有難うございます」
「なんか余計でした?」
「いえ、俺が個人的に気に入ってる子なので」
「ああ、そうなんですね、了解です」
両目の見えない精鋭は、リゼルの最も分かりやすい理由にあっさりと頷いた。
リゼルにはクァトの尻尾が直撃したように見えたが、飛びのいて衝撃を殺していたのだろう。軽く腹を押さえているものの大したダメージはないようだった。
「このまま、もう一つお仕事を頼んでも?」
「まぁ、全然。どうぞ」
そうしてリゼルは、至って和やかに精鋭を送り出す。
その光景を、弱弱しい脚に蹴られながら眺めていたクァトは思い出した。以前にジルが、精鋭と言葉を交わしているリゼルを眺めながら「罠だらけの地雷依頼とか楽勝なんだろうな、あいつ」と呟いていたことを。
成程これが地雷処理、とクァトはまた一つ賢くなった。
「冒険者先生、そろそろ何が起こってるのか聞いていいかい?」
「すみません、お待たせしました」
足早に少年へと近づくリゼルを、クァトの刃の尾が阻んだ。
それに、咄嗟に口を開きかけたのは教授だった。彼は怪訝そうにクァトを問いただそうとして、しかし未だに暴れている少年を見て言葉を飲み込む。
リゼルは苦笑し、目の前で揺蕩うように揺れている鈍色に手を滑らせた。
「クァト、そのペンダントを拾って、握り込んでください」
喜びに撓る尾をそのままに、クァトはリゼルの視線を辿る。
その先には、少年の足元に落ちているペンダントが一つ。薄ぼんやりと光を宿したままの魔石が、無造作に床に転がっていた。
クァトは暴れる少年をいなしながら、少しばかり不気味なそれを躊躇なく拾った。
そして、隙間なく握り込む。
「あ、えっ?」
直後、少年の体から力が抜けた。
驚いた声を上げ、つまずいたようにクァトへと倒れ込む。
それをクァトが支えるのを見て、無意識に観察に回っていた教授が動き出した。
「大丈夫かい? 体に異変は?」
「はっ? 別に、こけただけだし……」
クァトの腕に支えられていた少年は、羞恥を隠してぶっきらぼうに告げた。
それはまさしく転びかけた時の反応で、今の今まで続けていた凶行の余韻など微塵もない。
あまりにも不可解な現象に、教授は困惑半分考察半分で黙り込んだ。
だが、それを少年が訝しむより前にリゼルが動く。
「手に怪我は?」
「え?」
傍らに膝をつき、手を取られた少年が目を丸くする。
リゼルに触れられた手が握っているペーパーナイフ。少年は今初めてその存在に気づいたようだった。
「君が転びかけた時、手をついた机にあったんでしょうね」
「危な……気づかなかった」
「怪我がなくてよかったです」
落ち着けるように声をかけながら、リゼルは視線だけを教授に向ける。
そして、思考に沈みかけている教授へと微笑み、小さく首を振ってみせた。
気づいた教授が、我に返ったように目を瞬かせる。
「教授は随分と驚いたみたいですけど」
「うん? ああ、そうだよ、当然そうだ、なにせペーパーナイフをそこに置いたのは小生だからね。怪我でもさせてしまったら、君の心配性な保護者の方々に怒られてしまう!」
「別に、おじさんたちもそこまでしないし……多分」
大げさに肩を竦めてみせた教授に、少年は照れたように視線を逸らした。
リゼルも頬を緩め、少年の手からペーパーナイフを抜き取る。それを机の上に戻せば、教授が密かに肩から力を抜いたのが見えた。
「さて、何もないところで転ぶだなんて、もしやまた夜更かしでもしたのかな」
「し……てなくもないけど、でも、そんなにはしてない」
「自覚はなくとも疲れは溜まるものだ。仮眠室で寝ておいで」
「寝なくていいってば。あとちょっとで講義だし」
「冒険者先生もそう思うだろう?」
教授の問うような視線が、羽毛交じりの白髪の下から覗く。
実際に問うているのは、少年から目を離すことの是非だろう。意識なく肉体を酷使したならば休息は必須、可能であれば休ませたい、加えて詳しい事情も聴いておきたい。
だが、目の届かない場所に追いやっていいものか。その判断が欲しいのだ。
「そうですね」
リゼルは正しくそれをくみ取り、平静のままに頷いてみせる。
「立ち眩みにも見えましたし、少しだけ休んだほうがいいかもしれませんね」
「でもさぁっ」
「じゃないと俺も、心配で本が読めなくなるかも」
少しばかり揶揄うようなリゼルに、少年はなんとも言えない顔をして口を噤んだ。
大人びた少年には珍しいことに、彼は暫くいかにも不満そうな表情を浮かべていたが、やがて諦めたように肩を落とす。
よく口の回る大人二人を説得することなど不可能、そう判断したのだろう。
「……寝てくる」
「はい、おやすみなさい」
「小生の助手が冷静な判断のできる優秀な助手で喜ばしいことだ」
「大人はさぁ、これだからさぁ!」
軽い体重で、強く足を踏み鳴らしながら少年は研究室を出て行った。
その途中、狭い研究室内を泳ぐクァトの尻尾をペシペシと堪能していったのは八つ当たりか、それとも気が強くなって遠慮なく発散された好奇心だろうか。
目を白黒させるクァトに、教授が声を上げて笑い、リゼルも可笑しそうに慰める。
「わははっ、すまないね、触れる時は事前に許可をとるよう後で言っておこう」
「別に、いい」
「教授、仮眠室というと」
「ああ、応接間のことでね。学院で一番いいソファがあるんだ。だが客人など滅多に来ないものだから、小生たちの絶好の昼寝場所になっているんだ。そのせいで、時たま客人を案内することがあると仮眠中の誰かとかち合ったりもするけれどね」
いかにも冗句っぽく語っているが、恐らく事実であるのだろう。
くたびれた白衣を揺らしながら笑った教授は、ふいに話を切り替えるように足を組み変えた。細い棒のような脚の先で、履き古された革靴が何から切り出せばいいかと悩むように揺れる。
「さて……まずは礼を言おう。彼を止めてくれて有難う」
リゼルは教授の手に促され、近くの椅子に腰かけた。
腰の尾をしまったクァトも、握り込んだペンダントをそのままに傍に立つ。
「お礼を貰っていいのか、悩んでしまいますね」
「うん?」
「俺達が、原因の一端ではあると思うので」
そう告げたリゼルにも、教授は少しも胡乱な様子を見せない。
確定条件が揃うまで結論を出そうとしない、それが酷く研究者らしかった。
「どこから説明しましょう」
正確には、どこまで説明していいのか。
支配者について触れようと思うと制約が多い。だが助手を害された教授に、国の保身を理由にすべてを隠すのは憚られる。
元の世界では幾らでも隠した。そうしなければ損害が大きすぎる場合に限ってだが。
ならば今くらい、情を理由に秘密の一端を明かしてもいいだろう。
勿論、教授を変に巻き込まないように配慮はする。国の裏事情に巻き込まれて研究の時間を失うのは、教授にとっても少年にとっても本意ではないだろうからだ。
「この前、支配者さんに会いに行きましたよね」
「ああ、そうだね。空間魔法について確認をとってくれた時かな」
「実はそれ以前に、一度だけ彼に会ったことがあったんです」
「そうなのかい?」
リゼルはふむ、と数秒だけ考え、口を開いた。
「支配者さん、魔物だけでなく人間の支配についても研究していて」
「彼は多大な才能の代わりに倫理観と愛想をなくしたらしい」
「なりゆきで俺が支配されて」
「うん!?」
「その支配はなんとか解けたんですけど」
「未知の魔法を解除したのか……素晴らしい!」
「支配者さん的には納得のいかない結果だったみたいで」
「彼は相当な完璧主義者だからね、失敗だと思えばそのままにはしないだろう」
教授はそこで言葉を切った。
まさか、と言いたげな目がリゼルを射抜く。
「今回のは、多分そのリベンジですね」
はく、と教授の唇が何度か開いては閉じた。
本来ならば、助手を害された事実に強い怒りを抱いてしかるべきだ。しかし、研究者として支配者に共感してしまいかねない己もいる。そのジレンマに責め立てられているのかもしれない。
リゼルとしては両立していいと思うが、それを良しとするかは個人の気質によるだろう。
何を選べば楽なのか、何を選んで己を律するのか。他人が口を挟むことではなく、教授ならば何を選ぼうが倫理を外れることなどしない。
よってリゼルは彼の小さな葛藤に気付かなかったフリをして、言葉を続けた。
「支配者さん、今の環境だとあまり大きな実験はできないでしょう?」
「……そうか、成程。人の支配、それが理由で彼は正しく監視環境にあるのか。なら、そうだろうとも。実験に使える魔力量が制限されかねない。ああ、だからか、外部の魔力を利用しようとした」
「膨大な魔力を溜め込んだ魔石、さらにはそれを持っているのが俺だと思えば」
「マーキングにも利用できる。成程、リベンジとは言いえて妙だ!」
調子を取り戻した教授に微笑み、リゼルはクァトの片手へと視線を向ける。
握り込まれたペンダント。その魔石。遠隔で利用した手腕は流石の一言だ。
「(問題は、条件が揃ったことを支配者さんがいつ知ったのか)」
以前に空間魔法について相談した時、確かに話題には出した。
だが、それだけでは知りえないことも支配者は知っているのだろう。予想で進めるには、仕掛けが繊細で大掛かりに過ぎる。
逆に、支配者が把握しかねたことについてだが。
「支配者さん、魔石は俺が持ってると思ったんでしょうね」
「それはそうだろう。あんな品、早々手放せはしない。あれだけの魔力が一つの魔石に集約している、ならばやりたくてもできなかった研究の十や二十は容易にできてしまうだろうからね」
そういうことだろう。
「支配者さんに使われたので、もうそれほど魔力は残ってませんね」
「そうだろうね。残念だ、と言ってしまっていいものかな」
「あの子が持っていたいのなら喜ばしいことですよ」
「ああ、それもそうだ」
リゼルはクァトからペンダントを受け取った。
吊られた魔石はもはや光らず、世界にインクを落としたかのように黒々としている。
「ただ、状況が変わったこともあって……何日か借りたいと思います」
「そのペンダントをかい?」
「はい。直接お願いする時間はなさそうなので、教授から伝えていただければと」
「それはいいが……このまま面会に向かうのはどうかと思うけれどね」
色々あったが、現在は支配者の面会許可待ち中。
従属魔法で狙われながらも会いにいくのかと、教授は渋い顔をしてみせた。
その顔がいかにも教師らしく、腕を組んで眉を寄せながらも心配の表情を浮かべているので、リゼルは思わず笑みを零してしまう。
「どうしましょうね」
リゼルはそのまま、隣に立つクァトを見上げた。
視線を受けたクァトは特に同意も拒否もしない。行くのなら共に行く、行かないのなら共に帰る、ただそれだけのことなのだろう。
支配者が何をしようが問題にならない、そんな自信でもあった。
だが――。
「止めておきましょうか」
「ん」
リゼルの判断に、クァトもあっさりと頷いた。
「おや、意外とあっさりだね」
「教授も止めたじゃないですか」
「それもそうだが、わざわざ急ぎ面会をとりつけたと言っていただろう? 元々、それほどの用があったと思っていたんだが」
「そうですね、その用事も残ってはいるんですけど……」
リゼルは目を伏せ、頬に落ちた髪を耳にかけながら思案する。
本来の用件は、今となっては特に急ぐ必要もなくなった。このまま支配者の元を訪れ、実験の成否について尋ねられるのも少しばかり興味深いが、今回は見送ったほうが良さそうだ。
何せ、当初の用事をより確定的に済ませることができそうなので。
想定よりも手間はかかるが、ここで手抜きをする気もリゼルにはなかった。
「最近、人に甘えるようになったと指摘されたんです」
ぽつりと呟けば、教授が意外そうに眼を見開いた。
「そうなのかい?」
「思えば、そんな気がします」
「君にとってはいい変化かな?」
「どうでしょう。褒められてはなかったみたいですけど」
苦笑する。
敢えて指摘されたことを思えば、元の世界に戻ってから苦労するという忠告か。
王兄である彼は、時に痛いほどの正論を突きつけてくる。気楽に言い返せる相手ではない点を抜いても、リゼルが何も言えなくなってしまうほどの正論だ。
「言いにくいことでも、相手のためになると思えば真っすぐに伝えてくれるので」
「冒険者先生は随分とその相手を信頼しているようだ」
「はい、勿論」
小さく首を傾けるように頷き、頬を綻ばせる姿は尊敬する師を褒められたかのようで。
初めて見る笑みに、クァトは目を瞬かせながらなんとなくリゼルの傍にしゃがんだ。間を置かず髪を撫でてくれる手はいつもどおり優しく、それに不思議と落ち着いて目を細める。
「ただ、今の俺は冒険者なので」
撫でられるのを堪能しているクァトを見下ろし、リゼルは言葉を続ける。
好きにしろと言ってくれた相手にも、後々のことを思って敢えて自らを律してくれた相手にも、どちらにも同じくらい感謝をしながら口を開いた。
「これを機に全力で甘えてみようと思います」
「それが冒険者らしいと小生は覚えていいのかな?」
言われてみればそうだなと、とリゼルは少しばかり考える。
だがリゼルの中では矛盾しなかったので撤回はせず、例外として覚えておいてもらうことにした。
その後、支配者の研究室前廊下にて。
滑り込みで駆けてきた息も絶え絶えの衛兵から、腕輪を返却されながらリゼルは告げた。
「やっぱり今日は面会を止めておきます」
「は……」
「代わりに明日、貴方が先程まで確認をとっていた方の元に伺いますね」
「は……?」
「明日の昼、十二時の鈴が鳴る頃に国王像の前で待ち合わせしましょう」
「は!?」
そうしてリゼルとクァトは魔法学院を後にした。