作品タイトル不明
180:餞には酒でも置いてくもんだぜ,Savvy?
いつも騒がしい冒険者ギルドが、今日は殊更騒がしい。
誰も彼もが、ギルドにやってきた途端に飛び出していく。そんな彼らが口々に言うのは。
「“海賊船”が出た」
それを聞いて、依頼に来ていたリゼルたちは顔を見合わせた。
とはいえ不思議そうな顔をしているのはリゼルのみ。ジルやイレヴンは訳知り顔で、そんな時期かだの、今回は早いかもしれないだのと話している。どういうことかと会話に耳を澄ますリゼルに、気付いたジルたちはひとまずギルドの扉の前から離れた。
他の冒険者たちは、依頼ボードになど見向きもしていない。
三人は、珍しくも閑古鳥の鳴く受付前に移動する。すぐにギルドを飛び出せない面々による、臨時パーティを組むための交渉がそこかしこで行われているため、そこが最も落ち着いて話せそうだったからだ。
「“海賊船”っつうのはァ」
どう説明しようか、とイレヴンが受付カウンターに腰で寄りかかりながら口を開く。
今まさに作業中である机に腰かけられても、馴染みのある職員の笑顔は少しも揺るがない。
「何年かごとにランダムで出る迷宮」
「それそれ。しかも、いろんな国で一斉に出てくるやつ」
端的に説明したジル、それに次いだイレヴンの言葉にリゼルは目を瞬いた。
全く同じものなど一つとして存在しないはずの迷宮。扉のデザインでさえ、使い回しなど一度も見たことがない。とはいえ普段、内部では同時進行で潜っている冒険者の姿が存在しないのを思えば、扉自体は何個あろうが他と変わりがないはずなので。
「扉だけが複数現れる、っていうことですか?」
「お、さっすが」
「入っちまえばいつもと変わんねぇしな」
「迷宮は出現のたびに消えるんですよね。踏破が条件ですか?」
「それか何日か経ったら消えてるっぽいけど」
「つっても毎回、知らねぇとこで踏破されてる可能性もなくはねぇだろ」
「あ、成程」
あらゆる国に扉が現れるなら、それこそ膨大な数の冒険者が潜ることになる。
迷宮の消滅に心当たりがなくとも、知らない国の冒険者が踏破しているかもしれないし、本当に時間制限があるのかもしれない。ギルドが本気を出して探れば分かるかもしれないが、そこまで気にするような冒険者はいないようだ。
受付カウンターに座り、三人の会話に時々頷いている職員へとリゼルは窺ってみる。すっかりと顔に刻まれた華やかな笑み、それが途端に申し訳なさそうな笑みへと変わった。
「申し訳ございませぇん、当ギルドは存じ上げず……必要でしたらお調べいたしますがぁ」
「いえ、大丈夫ですよ。有難うございます」
リゼルは微笑み、ふむと一つ頷いた。
「なら、新迷宮の出現よりもよっぽどお祭り騒ぎになりますね」
「見りゃ分かんだろ」
「ギルドに全然人いねぇのウケる」
早い者勝ちは新迷宮と変わらない。
だが競争相手の数が段違い。しかも誰かが踏破した瞬間に消えてしまう。
何年かに一度しか現れない迷宮だ。手に入る迷宮品も、変わり種は高値で取引されるだろう。何より踏破すれば、他の迷宮とは一線を画した冒険者としての栄誉が手に入る。
それに心動かされない冒険者はいない。だからこそ、誰もが我先にと迷宮へ向かうのだ。
「潜るぞ」
珍しく、どうするとリゼルが問う前にジルが口を開いた。
見れば好戦的に細められた瞳。更にはイレヴンも、同意するように楽しげに牙を剝き出す。
リゼルも笑みを浮かべ、しかし急くことはなく潜ったばかりのギルドの扉へと帰っていく。
「二人共、潜ったことないんですか?」
「前とか五年前? くらいじゃん。俺あんま迷宮潜ってなかったし」
「タイミング合わねぇ」
「言われてみればクァトも今は迷宮に潜りっぱなしですしね」
そんな三人の姿を見送り、ほとんどの冒険者が姿を消したギルドでは。
絢爛華麗な職員たちが、依頼が捌けないことを嘆いて一斉に溜息をついていた。
通りのそこかしこから聞こえる噂、そして人の流れに沿うように三人は進む。
辿り着いたのはサルス北都のやや大橋寄り。“湖中のバザール”のものより立派な桟橋は、普段は釣り人などが集まるのだろう。いつもならば数艘の小舟がロープで繋がれ、目前の広大な湖にぽつりぽつりと小舟が浮かぶ。そんな安穏とした風景が見られるはずだ。
けれど今は違う。桟橋の先、煌めく湖面を挟んだ向こうには、一隻の巨大船。
所々に破れのある帆は、薄汚れながらも立派にマストを飾っている。柵の壊れた甲板、穴の開いた船体は、けれど少しも傾かない。その船首では、美しい人魚像が太陽光を反射して煌めいていた。
いかにも襲撃を受けた後の海賊船。けれど欠けぬ威容に、本来ならば見惚れていただろうが。
「こっち五人乗れんぞぅ、ほれ、ほれ、銀貨一枚払えんなら乗っけるぞぅ」
「防水布売ってるよ防水布ー、ないと困るよ防水布ー」
「そこどいてどいて、船通るよ!」
絶好のチャンスとばかりに稼ぎに走るサルス国民らのお陰で、物凄く賑やかだった。
「商魂たくましいですね」
「あれ普通にそこらの釣り人だろ」
「折角乗せんだから小遣いぐらい欲しいんじゃねぇの?」
普段はのんびりと釣りをしている面々が、運んでやるからと片手を出す。
飯屋や布屋も集まって、更に商機と見たのか何処からか小舟を運んでくる者もいた。それに加えて見物客も集まり、見物客を狙った物売り船が集まれば、そこはもう一つの祭り会場と変わらない。
それ急げやれ急げと、我先に巨大船に向かう冒険者の背中に応援とヤジが飛んでいる。
「こん中行くのかよ……」
「見世モンじゃん」
片や辟易と、片やケラケラと笑う二人を尻目に、リゼルは周囲を見渡した。
野次馬や商売人の他、しきりに海賊船のスケッチをする職人らしき姿や、魔法学院所属らしい白衣の面々がちらほらと見られる。決して理屈に合わぬ迷宮の不思議、学院関係者はもう触れはしないだろうと思っていたが、それはそれとして気になるらしい。彼らは「はっはっはっ訳分からん」と言いながら未知の巨大船を眺めている。
「ああいう船が、王都やアスタルニアにも出るんですか?」
「アスタルニアで海にでっかいの出たのは見たことあるかも」
「王都の水路に小せぇのが出たっつうのは聞いたことある」
流石は迷宮、環境に合わせて海賊船を用意してくれているらしい。
ちなみにアスタルニアに現れた時は、本物の海賊船だと誤解されて軍が投入されかけた。更に王都では中心街と外周を隔てる堀に現れ、最初は誰の悪戯だと憲兵が対応しようとした。だが今は定番化し、関係者間での引き継ぎも欠かさず行われているお陰で、迷宮“海賊船”が出たなぁで済むという。
「じゃあ俺たちも、乗せてくれる船を探しましょうか」
「桟橋で待ってりゃ乗れんだろ」
「これ、帰りはどうなるんですか?」
「あそこから手ぇ振りゃ迎えに来てもらえんじゃねッスかね」
そうしてリゼルたちは、野次馬の隙間を縫うように桟橋へと向かった。
甲板にある一つの扉。
迷宮へは、そこから足を踏み入れる。まるで乗組員のように甲板に集まった冒険者、彼らに続くように三人も扉を潜れば、とりわけ特別なところのない船内が目に飛び込んできた。
数人で固まっても歩きやすいように、だろうか。通常の船よりは幅が広めに作られているも、それでも天井が低く狭い通路は得物によっては苦労しそうだ。所々木の朽ちた廊下は歩く度に軋み、木材に染みついた潮の香りが微かに漂う。
足元からは、凪いだ湖面に浮かんでいたとは思えない揺れを感じた。海上を思わせるそれは、やはり迷宮の外と中は別の空間なのだと納得させる。壁に刻まれた刀傷はさて、仲間割れの跡なのか、それとも攻め込まれた後なのか。
「外観も襲撃を受けた跡があったし、放棄された船なんでしょうか」
「迷宮の演出だろ」
「まぁ綺麗なままじゃ普通の船とあんま変わんねぇし。それっぽいってだけじゃん?」
それもあるな、とリゼルは壁の刀傷を掌でなぞりながら思う。
同時に、そもそも放棄されているのだろうかという疑問も抱いた。
何故なら、足音がするからだ。靴音にしては硬質で、足音というより杖をつくような音に近い。不規則に扉の向こうを右往左往している音は、間違いなく誰かが歩き回っている音だろう。
閉め切られた扉の数々、その前を通りがかるごとに聞こえる靴音。それが船の住人だとしたら、リゼルたちは間違いなく彼らの敵であり、無作法な侵入者だった。仲間として歓迎してもらえないか、というのは希望的観測が過ぎる。
「襲われるのに納得がいくっていうのも貴重な経験ですね」
「また変なこと考えてんな……」
「この場合って俺ら何なんだろ。敵海賊? セーギ側とか?」
「正義ではねぇだろ」
「海賊っていうのはいいですね」
「リーダー前にでかい本の中で海賊判定アウト食らったの気にしてんの?」
「気にしてはないですけどリベンジはしたいです」
失敗を失敗のままにしない男、それがリゼル。
ジルは呆れたように溜息をついた。いつか本だらけの迷宮で、巨大本の中で完璧に海賊を演じきったリゼルは、なんかそれっぽくないという理由でアウトを食らっていた。アウト判定の基準は不明だが、台詞は完璧だったので間違いなくそれが理由だろう。
それを思えば、リベンジは不可能な気もするが。だがジルは同情半分、放置半分でそれを口にはしなかった。やりたいなら好きにすれば良いと思ったからだ。少しばかり面白がっているともいう。
「あ」
「お、やっぱスケルトンだ」
ふと、何個目かの扉を通りがかった時だ。
偶然なのか罠なのか、開けっ放しの扉の向こうにいるスケルトンと目が合った。頭蓋骨から落ちたバンダナが鎖骨に引っかかっている。腰に巻いていただろうサッシュが骨盤で揺れている。死してなお船内を徘徊していたことを証明するように、擦りきれた靴底からは踵の骨が覗いていた。それが床とぶつかって、硬質な音を立てていたのだ。
魔物はリゼルたちの姿を見つけるや否や、錆びたサーベルを手に襲いかかってくる。
「スケルトンはおしゃれですよね」
「まぁ迷宮ごとに違ぇな」
「得物とか変わんのが地味に厄介っちゃ厄介だけど」
とにかく迷宮の特色を強く反映するのがスケルトンという魔物だった。
森っぽさのある迷宮では狩人の恰好で弓を射たりする。城っぽさのある迷宮では鎧を身につけ両手剣を振り回したりする。単体で向かってくることもあれば、部隊を組んで囲んでくることもある。
迷宮ごとに戦い方を変えなければならない、という理由で苦手とする冒険者も少なくない。
とはいえ今は迷宮の浅層。さらに相手が一匹ともなれば、三人が苦戦することはない。襲いかかられたイレヴンがさっくりと斬り捨てれば、バラバラになった白骨が床に散らばった。
「中、何かありますか?」
「まだねぇだろ」
「そう思わせて、とかねぇかな」
三人は家主を失った部屋に足を踏み入れる。
生活圏、というより倉庫だろうか。崩れないよう固定された積み荷、蓋のない空の宝箱には埃が積もっている。床に落ちたロープを拾い上げれば、少し引っ張っただけで千切れてしまった。
そうした確認もすぐに終わり、何もないなと結論づけて先に進もうとした時だ。
「(あ、伝声管)」
ふと、リゼルが部屋の隅にあるそれを見つけて歩み寄る。
ここまでの短い道のりでも、廊下の上に張り巡らされた金属の筒を何度も見た。随分とたくさんの伝声管があるみたいだな、と扉のすぐ隣にあるそれに手をかける。
金属の伝声管はくすんだ色をしていた。指先で触れるとひんやりとしている。ぴたりと閉じられた蓋に指先をかけ、何か呼びかけてみようかと開きかけた時だ。
「あ、リーダーちょい」
「え?」
気付いたイレヴンに声をかけられた時には既に、リゼルは蓋を持ち上げていた。
『だから何処だっつってんだよそれは!!』
響いた怒号に、少しばかり驚いて手を離す。
横から伸びたジルの手が、中途半端に開いた伝声管の蓋を閉じた。怒声の余韻が残る室内で、リゼルが説明を求めて振り返れば、眉間に皺を寄せたジルと訳知り顔でニヤニヤと笑うイレヴンがいる。
いかにも情報を持っているようなイレヴンに、リゼルたちは向き直った。
「おい何だ今の」
「誰の声ですか?」
「あ、ニィサンも知んねぇ? この迷宮、同時進行で潜ってる奴らと話せんの」
リゼルは目を瞬かせ、同じく不可解そうな顔をしているジルと顔を見合わせる。
つまり、今聞こえたのはどこかの国の冒険者の声。そんな迷宮があるのかと、リゼルは思わず感嘆の息を漏らす。パーティの垣根を超えて迷宮が攻略できる、というのは確かに楽しいかもしれないが。
「できたところでどうなんだよ」
「そんなん俺も知らねぇし」
今は、誰が一番早く攻略できるかの競争状態。
有利な情報を不特定多数に流すことに意味などない。デマを流しても後の冒険者活動に支障をきたす。後者については、良心が咎めるというより「そんな時間はない」という理由が大半を占めるのだが。
「迷宮の外で協力者を作っておけば活用できる、とかでしょうか」
「俺らが聞けてる時点でダダ洩れだろ」
「ですよね」
リゼルはもう一度、今度は少しだけ伝声管の蓋を持ち上げてみた。
先程はその瞬間の最大音量に意識をとられたが、こうして聞いてみると複数人の声が聞こえる。数多の国の、数多の冒険者たちが話しているのだろう。耳を澄ませると「ここはどこだ」という迷子を始め、「こんな罠嵌ったけどどうしよう」という救援要請、「宝箱見つけたワッショイワッショイ」と煽る声や、ひとまず叫んで遊んでみている声などが聞こえる。
「あったら使ってみたがる冒険者のツボはついてんのか」
「船っつったらコレだし。実際リーダーも釣れたし」
「ロマンです、ロマン」
とはいえリゼルは幼い頃、外遊で乗った船で、船長らに見守られながら使ったことがある。
あの時はたしか、見張り台にいた船員が返答をくれたのだったか。今まさに交わされている無秩序なやりとりとは裏腹に、非常に平和的な会話だったのは確かだ。
そうして思い出に浸りながら耳を澄ましていれば、ふと聞き覚えのある声を捉えることができた。
「あ、知ってる冒険者の方が何人かいますね」
「分かんのか」
「人の顔と声、あまり忘れないので」
「職業病ー」
二人の揶揄うような視線に、悪いことではないだろうにと苦笑する。
そして、少しだけ考えて伝声管の蓋を全開にした。途端、大音量の怒声や奇声が部屋に響く。魔物が寄ってきそうだ、と考えながらリゼルは唇を喋り口へと寄せ、声を張り上げることなく穏やかに告げた。
「王都パルテダの冒険者の方々、一つだけ質問させてください」
無機質な伝声管の向こう、鳴り響いていた喧噪がぴたりと止まる。
もしかして何処かおかしくなったのでは、とリゼルは無言でジルたちを振り返った。だが大丈夫だと頷かれ、ほらほらと促されて再び伝声器へと向き直る。
数秒だけ落ちた沈黙から、徐々に騒めきが復活し始めていた。聞こえ始めた「誰だ今の声」「貴族さんいる?」「今の穏やかさんじゃね?」という声に、本当に色々な国に迷宮の扉は現れているんだなと感心しながら唇を開いた。
「スタッド君、無事に王都に着きましたか? 昨日、サルスまで遊びに来てくれたんです」
『あー……よく知らねぇが、朝にギルドで見たぞ』
「ん、良かった」
スタッドならば何があろうと問題なく帰るだろうとは思っていたが、一応の確認だ。
ならばジャッジも何事もなく道具屋を開いているだろう。そう納得して頷くリゼルの後ろでは、ジルが何とも言えない視線をリゼルの背中に注ぎ、イレヴンが隠そうともせずに爆笑している。
「それだけ気になったので。有難うございました」
『お、おう……』
まさか用件はそれだけかと、伝声管ごしに奇妙な空気が漂う。
それを全く気に掛けることなく、用事は済んだとばかりにリゼルが蓋を閉めかけた時だ。
『リゼルさーーーんリゼルさんリゼルさん! いる!? 間に合った!?』
『リゼルさーーーーーーん!!』
「はい、まだいますよ」
何やらひと際騒がしい物音と同時に、喋り口で押し合いへし合い叫ぶ声がした。
アインたちの声だ。リゼルはどうしたのかと下ろしかけた蓋を引き上げる。そろそろ飽きてきたのか、それとも何かが気に入らないのか。イレヴンに後からついついと髪を引っ張られるのに微笑み、賑やかな呼びかけに応える。
「君たちの紹介してくれた店、美味しかったです」
『あ、良かったっす!』
『あそこの肉マジで美味ぇから!』
『俺らもすっげぇ食って! マジ美味すぎて!』
匿名性は地に堕ちたが、別に知られて困ることもないと会話を続けた。
いいからさっさと本題に入れ、と何処かの冒険者の声が離れた位置から聞こえた。何だか普通に会話を聞かれているようだ。迷宮攻略に戻らないのだろうかと思うも、伝声管を使いたくて待っているのなら独占するのは申し訳ない。
「それで、何か用がありましたか?」
『あ、そうなんすよー!』
ならば、久々の会話は少し惜しいも手短に済まそう。
そう考えて促すリゼルに、伝声管に近付きすぎ故の爆音でアインたちは元気に告げた。
『なんかコレぜってぇ何かあんなって部屋で宝箱見つけて、でも開かねぇんすよ』
『カギが鍵挿すタイプで、あーっと……トカゲかコレ、トカゲの形しててー』
『こう、尻尾がぐねってて。錠前のあのカーブのトコなってて』
『でもカギ全ッ然ねぇし。適当なモン穴に入れても開かねぇし、全力で引っ張っても開かねぇし、箱は投げてもぶっ叩いてもぶち壊せねぇし、これマジどうすりゃ開くんだっつう』
おいそれ何処だと他の冒険者が叫ぶなか、リゼルは可笑しそうに笑った。
「トカゲの尻尾は切れるものでしょう。剣で切れませんか?」
『え、でもこれ普通に金属だしすっげぇ硬……切れた!』
『開いた!』
『ねじ切る勢いで引っ張っても開かなかった癖にすっげぇ簡単に切れた!』
『リゼルさん圧倒的感謝ーーー!!』
どうやら伝声管の蓋を開けっ放しで、宝箱へ駆けて行ってしまったらしい。
遠くから大歓声が聞こえる。直後、何やら部屋に乱入してきた魔物と戦闘になったらしい音も聞こえたが。それはそうだろう、というのは今までの会話を聞いていた冒険者の談。
宝箱の中身がアインたちの喜ぶものなら良いのだが、とリゼルも伝声管の蓋を今度はしっかりと閉める。よって、その後の冒険者たちの会話など知る由もなかった。
『穏やかさん相変わらずだな……つか一刀いんなら初踏破望み薄か?』
『つうか貴族さん今サルスだろ。サルスにも船出てんのかよ競争率やべぇな』
『は? ああ、一刀……なら助教授さんか今の。そりゃそうか』
伝声管コミュニティはやや和やかになり、どうせ一刀いんなら協力しようぜと本来の役割を取り戻していた。
船の所々にある伝声管には、蓋が開きっぱなしのものがある。
リゼルたちは最初以降、特に気に掛けることはなかったが、時々そこから何らかの仕掛けに行き当たった相談だったり、やはり罠に嵌った冒険者のSOSだったりが聞こえてくることがあった。
折角の機会だから、とリゼルは気付いた時に、分かることについては答えている。ちなみに罠については全く分からない。嵌った後の対応はジル基準の力業になりがちだ。
『お、助教授さんじゃねぇか。こりゃアタリ引けたな』
それにしても、応えるたびにアタリ扱いされるのは何故なのか。
そうしながら三人は迷宮の奥へ奥へと進んでいく。船は外観から考えられないほど広く、ひたすら階下へと向かう構造のようだった。もはや何度階段を下りたのか。とっくに船底についてもおかしくはないというのに、迷宮らしく全貌が読めない造りになっている。
ただジルとイレヴン曰く、手応えとしては深層に入っていてもおかしくはないという。
「ここ、そんなでかい迷宮じゃねぇかも」
「これまでも数日で踏破されたらしいですしね」
「そうそう。ニィサンじゃあるまいし」
「あ?」
どういう意味だ、とジルが微かに眉を顰めた。
とはいえイレヴンが的外れなことを言っている訳ではない。どんな迷宮も数日あれば踏破してしまうジルが例外だ。多くの冒険者は一つの迷宮を踏破するのにひと月単位で挑む。それ以前に踏破を目指せる者が少なく、大半が自らの力量に見合った階層で攻略が止まるのだが。
そんなことを話していると、ふいに先頭を歩くイレヴンが一風変わった扉を見つけた。
「お、見て。ちょい違う扉」
「本当ですね。船長室とかでしょうか」
「ボスが船長じゃねぇのかよ」
T字路の右手突き当たり。他とは違う、少しばかり重厚な扉があった。
派手な装飾がある訳ではないが、朽ちて隙間だらけになった他の扉に比べて綺麗に残っている。元々、厳重に閉めきられた部屋だったのだろう。
襲いかかってきた“生きた縄”をジルが踏みつけ、リゼルが固結びにしている隣で、イレヴンが扉を開いて中を確認する。魔物の姿はない。けれど、彼は含みのある顔をして二人を振り返った。
「はい、どーぞ」
「何かありました?」
二人を、というよりリゼルを、が正しいか。
招き入れるように開かれた扉を潜ったリゼルが見たのは、決して多くはないものの棚に雑多に並べられている本の数々。中央に置かれた机には航海図が広げられ、床には筆記具が落ちてインクが飛び散っていた。
すぐさま棚に向かうリゼルを見送り、ジルも部屋に足を踏み入れる。零れたインクで黒く変色した絨毯は、すっかり乾ききって踏むとシャリシャリと音を立てた。革製の航海図も、表面がすっかりとひび割れている。
全体的に、酷く埃っぽい部屋だった。
「読めませんでした」
「だろうな」
「リーダー残念」
「何処かに航海日誌でもあれば、と思ったんですけど」
それは船長室にあるのかな、とリゼルもジルに倣って室内を探索する。
航海図に描かれた地図は見たことのないものだった。こちらの世界のものではなければ、勿論あちらの世界のものでもない。二つの大陸と、無数の島々。ペンで書き込まれたバツ印に、中継地を挟みながらそこへと伸びる矢印。バツ印が目指していた場所なのだろうか。
その隣に小さな文字を見つけ、リゼルは頬に落ちる髪を耳にかけながら目を凝らす。
「(“クラーケ”……?)」
海賊といえば略奪、といってしまうと夢がないか。
ここは宝を目指して航海していたと仮定して、その宝の俗称か、それとも宝が眠るとされている島の名前だろうかと当たりをつける。地図が全く違うというのに、文字だけ読めるというのも不思議ではあるが。
「おい、ここ」
「は、何?」
ふと、ジルがイレヴンを呼んだ。
ジルはそのまま数度、絨毯の敷かれていない床を靴裏で叩く。そのままズボッと嵌るんじゃないかとリゼルとイレヴンは思ったが、迷宮仕様で無事だった。迷宮破壊は不可能、それこそ冒険者の常識である。
「あー、はいはい。こっちっぽい」
「地下でもあるんですか?」
「知らねぇ。音は違ぇだろ」
靴音のないイレヴンが、わざと靴先で床をノックしながら歩く。
向かった先は航海図の広げられた机だった。その隣にしゃがみ、机の下を覗き込んでいる。
「多分ここらへん……机どかせっかな」
「残念ながら固定されてるので……はい、明かりです」
「あんがと。どっか別に入り口あったりして」
「本棚動かせって?」
「それで裏に隠し扉があるんですよね」
揺れる船内でも問題なく使えるよう、机の脚は床に固定されている。
三人は揃って机の下を覗き込みつつ、戯れに浪漫を交わしながら床を観察した。机の脚に何かないか、裏に何かないか。そう言いながら隅々まで注意深く目を凝らし、ようやく床の木目に沿った細い隙間を見つけた。
「これ隙間? 隙間ある?」
「あるんですか?」
「あ、あるある。触るとある」
「それをどうすんだよ」
「何か差し込むとか……そうですね、海賊だしサーベルとか」
「俺持ってたっけ」
「ある」
ジルが空間魔法から一本のサーベルを取り出す。
間違いなく最上級の迷宮品だが、彼は躊躇なくそれを隙間に突き立てた。何かが外れる硬質な音がする。同時に、床が抜けたと錯覚させるほど勢いよく下向きに開いた。
足元に空いた真四角の穴。リゼルが明かりを近付ければ、底まで伸びた梯子が見える。
「梯子腐ってねぇだろうな」
「結構深め? まぁ、こんくらいなら落ちても大したことねぇけど」
「奥のほうに横道がありますね」
そうして三人は、見つけた隠し通路へと身を潜らせた。
梯子を下りた先には、身をかがめて進むような横道が一つ。緊急時の避難通路のようなものだろうかと明かりを先行させると、横道の先に一つの扉が現れる。
扉には血文字があった。赤黒い文字で、【正義とは何か 言破れ】という文言のみ。
「海賊船らしくはねぇな」
「そうですか? 船長にもなると交渉事に強いイメージがありますけど」
「何で?」
「ほら、国との交渉が必須になるので」
船一隻でちまちま悪事を為すなら良いが、船団を組んでとなるとそうはいかない。
まず莫大な量の補給がいる。それこそ略奪では追いつかず、定期的かつ長期的に利用できる補給港が必要だ。よって海軍の弱いところに戦時の戦力を約束したり、勝手に海に関所を作って関税を巻き上げて何割か納めたりと、国を相手にそういう交渉事が必ずあった。
「お前んとこはどうなんだよ」
「交渉するよかさっさと取り込んでそう」
「そこはほら、陛下の領分なので」
リゼルは微笑んで流した。
それで色々と察したのだろう。ジルたちは半笑いだ。
「じゃああの向こうには船長がいるわけね」
「これがボス戦とか言わねぇだろうな」
「流石にないと思いますけど」
三人とも、屈みながら狭い横道を進む。
そして先頭を進むイレヴンが扉に手をかけた途端、予想が当たったとばかりに片眉を上げた。彼は二股の舌を唇に這わせ、リゼルたちを振り返ると親指で扉の向こうを指す。何かいる、という合図だ。
言破れというなら、その相手がいるのだろう。それは分かっていたが、魔物にしてはどうにも奇妙だ。だが開けないことにはどうしようもなく、イレヴンも一応知らせたという体で躊躇なく扉を押し開く。
直後、スケルトンの姿を捉えて双剣を振るおうとした彼は、いつの間にか鞘に収まっている剣に思わず口を開いた。柄を握って引き抜こうもするも、刃は走らずピクリとも動かない。
「はァ!? 抜けねぇし!」
「言葉で戦うのが決まり、ってことですね」
「なら襲われはしねぇだろ」
扉の先にあったのは、いかにもな船長室だった。
扉の脇に立つ二体のスケルトンが、カタカタと顎を揺らしながら笑う。彼らは少しも錆びていない剣を腰に佩き、生前に身につけていただろう破れたシャツから肋骨や背骨を覗かせていた。船内を歩き回るスケルトンよりも良い身なりをしている。
そしてリゼルたちの正面。部屋の中央に据えられた重厚な机の向こうに、金銀財宝を背にして座るのは、キャプテンハットと傲慢な座り方がよく似合う骸骨。軍服にも似た海賊服を纏い、机に片ひじを乗せて三人を見据えていた。
間違いなく、この海賊船の船長だ。
『よう、命知らず共』
カタ、カタ、と彼の白骨化した顎が動く。
同時に、じわりと机に文字が滲んだ。こちらもまた、血文字のようだがそれらしい匂いはしない。鷹揚と滲み出る文字からは、不思議な迫力と威厳が伝わってくるようだった。
リゼルは左右に立つスケルトンに目を向けることなく、船長であった骸骨に向けて掌を胸に当てる。腰は折らず、微かに顎を引いて微笑み、下手には出ないまま友好的に振る舞った。
「お招き有難うございます、マスター」
『随分と行儀のいい奴が来たもんだ。そりゃあどこの礼だ、ギルウェか、バイクィーンか?』
「どちらでも」
リゼルは微笑んだまま、首を傾けるようにジルへと視線を流す。
首を振られた。船長であった骸骨が口にした国名は、存在しないものだった。ならば彼らは、何処から来たのか。自身のことをどう認識しているのか。迷宮なのだから、それを考えることに意味などないのかもしれない。
そんなことを考えながら、挨拶もそこそこに本題を切り出す。
「この度のディベートはどういった意図で?」
『退屈しのぎにゃちょうど良い』
白骨の人差し指が机をノックする。座れ、と言っているのだろう。
硬質な音。同時に、指につけた指輪が擦れ合う音。純金に大振りの宝石、身につける相手を選ぶようなデザインだが、船長であっただろう骸骨にはよく似合っている。
椅子は一つだけ。きっと相手は、何百と部下を率いた海賊船のトップだ。ならば三人だけのパーティとはいえ、頭である自身が座るべきだろう。組織としての隙は見せないほうがいい、リゼルはそう考えて敢えて二人に確認をとらず椅子に座る。
とはいえジルもイレヴンも、最初からリゼルに丸投げする気なので疑問は抱かない。彼らは扉を挟んで立つスケルトン、その手に握られたサーベルを一瞥しながらリゼルの後ろに立った。
船長は顎の骨を揺らして笑い、年季の入った机に言葉を吐き出した。
『正義なんてのは、俺の敵だ』
存在しない眼球に見定められているようだ、とリゼルは思う。
相手の一挙一動には、数多の部下を束ねてきた自負が浮かんでいた。後は土に埋まるだけの骸が、生前の覇気をそのままに目の前に存在している。その姿も偉業も(あるいは悪行も)知らないが、疑うべくもなく傑物であったのだろう。
宰相であった頃に相手取ってきた他国の重鎮から感じていたものを、目の前の相手からも感じる。懐かしいなと、それだけを内心で零して口を開いた。
「それは、何故?」
『悪逆非道の限りを尽くす俺を殺しゃ、どんな悪党だろうがそいつは英雄に早変わりだ』
「あなたは、あなた自身を絶対的な悪だと?」
『そりゃあそうさ』
船長の骸骨は笑う。
がらんどうの眼でリゼルを見据えたまま、背骨を反らし、ピアノを弾くように机に乗せた指を跳ねさせる。小指から親指まで、一巡だけ奏でられた硬質な音色が、扉を守るスケルトンの顎を打ち合わせる音と共振していた。
イレヴンが不快げに鼻を鳴らす。彼の手は抜けない剣の柄を握ったままだ。
『お行儀よくしなさい、なんて初めて聞いた時には子供心に憤ったね。人を殴っちゃいけません、なんて言われた日にゃあ吐き散らかしたもんだ。こんな俺らが楽しく生きようと思いや、悪党でいんのがちょうど良い』
リゼルは机に刻まれていく赤黒い声を視線でなぞる。
その声が途切れるのを待ち、そして続かないのを確認して、視線を合わせるように薄暗い眼窩を見た。不思議にもそこから頭蓋骨の裏側は見えず、深い闇に満たされている。
こういう場で相手の表情が読めないというのは、思った以上にやりにくい。だがそれをおくびにも出さず、リゼルは可笑しそうに目を細め、机の上に置いた両手の指を絡めた。
「スリルがお好きなんですね」
『大好きだね。抱いてやりたいくらいだ』
「うちにも一人、命を賭け金にギャンブルに興じる 仲間(クルー) がいますよ」
『Arrrr! そりゃあ逸材だ。ぜひともスカウトしてぇもんだが』
「もちろん許しません」
規模は違うも組織の頭同士、通じ合うものはある。
戯れの会話を本気にせず、互いの冗談に笑っていれば、リゼルの即答での引き抜き拒否にイレヴンの機嫌がやや回復した。上手いこと同時進行するものだ、とジルは呆れながら室内に存在する全ての武器を把握していく。
「じゃあ今度は、俺が正義について話しましょうか」
リゼルは船長だった相手を見つめ、唇を開いた。
生粋の悪党に正義を説くなど、皮肉以外の何者でもない。精鋭に“なぜ人を殺していけないのか”を理解させるのと同じこと。つまりは時間の無駄であり、いくら言葉を尽くそうが無意味だった。
もし精鋭にそれを説いたとして。もしかしたら、彼らは感銘を受けて涙するのかもしれない。心からの感動をもって嗚咽を零すのかもしれない。嘘偽りのないスタンディングオベーションを贈ってくれる者もいるだろう。恐らく半数は納得し、理解し、向けられた言葉を受け入れるはずだ。
けれどきっと、その数秒後に「あ、そういや飯買わねぇと」などと言いながら相手を殺す。
抱いた感動も感銘もすべて本物、だからこそ心からの感謝を込めるかもしれない。そうして、話も済んだしそろそろ行こうかなと、意味も理由も動機もなしに相手の命を奪うのだろう。
目の前の海賊も、きっとその手の存在だ。だが、迷宮がやれと言うならやるしかない。
さてどういう切り口で行くべきか。リゼルは一瞬考え、ひとまず軽めの一般論で試してみることにした。
「正義とは、好感度なんでしょう」
『つまり?』
「主観ですね。人は正義を好む訳ではなく、好んだものを正義だと思い込む」
『えげつねぇこと言いやがる』
「そうですか? 身近な話題を選んだつもりですけど」
リゼルは不思議そうに告げる。
「国がそうでしょう。王が民の支持を集めるのは、そうでないと大義名分を失うからです。どんなに素晴らしい政策を打ち出そうと、民に嫌われていれば悪しき独裁者ですよ」
船長だった骸骨の肋骨が数度、跳ねた。
首の骨にぶら下がる黄金のネックレスがその上で踊る。表情もなく、声色から窺うこともできないが、恐らく楽しげに笑っているのだろう。鼻で笑われなかっただけ上出来だ。
「それに、勧善懲悪の物語にさえ悪を支持する読者はいます」
『俺らよりよっぽど捻くれてやがる』
「知人の作家曰く、“反骨精神を身につけた証拠であり誰もが通る道でありつまりは成長”らしいですけど」
リゼルは可笑しそうに笑った。
幼い容姿で、そう大人びたように語った彼女は元気にしているだろうか。何やら少しばかり気恥ずかしげに語っていたが、そういう経験のないリゼルは非常に興味深く聞いたものだ。
「例えば、正義と悪で主人公を入れ替えたとしましょう。人物配置や物語、互いの主義主張はそのままに、物語のメインの視点だけを悪側に据えた場合です」
『読んだ奴は悪党を応援するって?』
「少なくとも、入れ替わる前よりはずっと増えるでしょうね。悪の“主人公”を擁護して、正義の“敵”の主張を綺麗事だと切り捨てる」
入れ替える前、入れ替えた後。
それらが両方存在するのなら両論あるだろうが、元々後者しか存在しないのだとすれば悪の支持者は格段に増える。正義と悪の主張は変わらないのに、主人公の軌跡を文章で辿ってきた読者は、お前の行いは間違っていると主張する正義に「何も知らない癖に」と悪を擁護する。
まぁ読者層の違いなどはあるだろうが、今この論争には関係のないことなので置いておく。本題に関係のない部分に突っかかって無駄に時間をかけるような、そんな単純な相手ならばよっぽど楽だったろうに。
「主人公は読者側のキャラクターです。そこに自身を重ねる方は勿論、仲間意識も芽生えやすいので無条件に好感を抱く方が多い」
『例外がさっきの、ひねっくれたガキって訳だ』
「物事を多角的に見られるようになった証拠ですよ。つまりは成長です」
リゼルは少しばかり悪戯っぽく、小説家の言葉を引用してみせた。
ちなみに某劇団の団長にも、小説家との会話について話したことがある。他意はない。リゼル自身が純粋に「そういう考え方もあるのか」と感心したものだから、劇の役作りの参考になるのではと思っただけだ。
だが、成程成長かと結論づけたリゼルの言葉に返ってきたのは「ただの 癖(へき) だ」という一言のみ。団長にはそれで会話を切り上げられてしまったが、あれは一体何だったのだろうか。
「あなたは、正義と称する敵対勢力全てを愛している訳ではないでしょう?」
これで、両者の言い分が並んだ。
さてどう出るかと微笑むリゼルに、骸骨の船長が頤を持ち上げる。
カタリ、と顎骨が揺れた。何かを思案するような、何かに本腰を入れる直前のような姿。
ちなみに後ろでは、ジルたちがもの言いたげな目でリゼルを見ていた。リゼルは堂々と自分の意見のように口にしているが、実のところ世間の意見の一部を一例として挙げただけだ。なにせ、三人とも物語の登場人物に感情移入しない派なので。
とはいえリゼルの元教え子の存在を思うと、全く心当たりのない意見を口にしている訳ではないのだろう。二人はそう納得した。あれが好意故の贔屓なのかは全くもって不明だが。
『悪を悪のまま愛する奴はいねぇって?』
「悪に大義を見出すのなら、正義と変わらないでしょう。呼び名が変わっただけです」
『よく口の回る野郎だ』
緩く開いて揺れていた顎骨が、笑いに歯を打ち合わせてカタカタと音を立てる。
船長の骸骨は、クッションの効いた背凭れに勢いよく凭れかかった。豪華絢爛な指輪をランプの明かりに煌めかせながら、両手を広げるように扉の横に立つ部下たちへ向け、彼らを示すようにひらひらと揺らしてみせる。
『なぁ、聞け。俺はこれでも、こいつらに最高の船長だなんて慕われてんだぜ』
二体のスケルトンが同調するように足を踏み鳴らした。肉を纏わぬ身だ。だが、体重の乗らない靴音は酷く威圧的で脅迫的。それらは生前の彼らを思わせる。
船長も自ら分厚い靴底を床に打ちつけ、それに応えながら豪快な仕草で身を乗り出した。真っ暗な眼窩がリゼルを覗き込んだ。
ジルとイレヴンが同時に牽制の視線を向ける。迷宮のルールだ、手など出そうとしても出せないだろう。けれどすぐに動けるよう、少しも揺るがず相手を見返すリゼルの出方を待つ。
『こいつらにとって俺は正義か?』
「違いますか?」
『違ぇな。こいつらは俺を、悪党の中の悪党だと知っててついてくる命知らず共だ。大義だ? そんな大層なもんに縋らなきゃ何もできねぇ臆病者は、とっくにサメの餌にでもなってるさ。なぁ、それともだ。邪道もまっすぐ進みゃあ正道だなんて吐いてみるか?』
吐きつけるように机に文字が綴られていく。
真っ暗な眼窩の中で闇が波打っていた。夜の海にも似た、呑み込まれそうな闇だった。
リゼルは荒々しい筆跡を追っていた視線を持ち上げる。顔の角度を変えずに瞳だけを動かし、瞳孔を机の上から船長へと向けた。
白骨の指が、大ぶりの宝石をランプに煌めかせながら机を叩く。
ココココ、と軽やかな音がした。本人の機嫌どおり、なのかはまだ分からない。
『そりゃあ“綺麗事”ってもんだぜ、お嬢ちゃんよ』
つまり、お前は綺麗ごとを用いる正義側であり己の敵だと。
そう言われてしまった。持論を利用され、綺麗にやり返されたと言っても良い。更にはお嬢ちゃん扱いだ。これだけ舐められきっているというのも、最近はとんとなかった気がした。
リゼルはうっそりと笑みを深める。ああ、楽しいと。そう思ってしまった。
それを表に出しても許されるというのだから、余計に浮足立ってしまいそうだった。何より、後のことを考えず純粋に叩き伏せればいい論争など、あちらでは決して許されないのだから。
「失礼」
ふいに零した声色は、物柔らかなまま一切の感情を読ませない。
「大海賊と相対するのに、礼を欠く真似をいたしました」
さて、百戦錬磨の大海賊と相対するに、相応しい礼儀を示さなければ。
リゼルは愉しみに目を細め、伸ばしていた背筋を緩めて背凭れに預ける。指を組んだ両手を膝の上に置き、ゆっくりと足を組んだ。椅子が小さく軋んだ音を立てる。敢えて煽るように、微かに頤を上げて相手を見据えた。
その瞳は穏やかであり、けれど惹き込まれれば破滅しかねない誘惑がある。悪党ほど惹かれて止まない誘惑。身に纏う清廉には、それとは裏腹の命の取り合いにも似た殺気が滲んでいた。
「(うっわ、贅沢)」
イレヴンは、歓喜に背筋を震わせる。
魔物に向けるには過ぎたものだ。あの骸骨が、本当に魔物かどうかは知らないが。
ただ、これに歓喜を覚えられることを贅沢だと感じた。命の取り合いに魅力を感じられるなら、きっとこの身が竦むような殺意に煽られて仕方がない。ジルも同じものを感じているだろうが、きっと己ほどではないはずだ。僅かな優越感に小さく息を吐く。
イレヴンは、逸る自身を落ち着けるように視界を広げていった。ジルを見れば、微かに眉を寄せている。扉の両隣に陣取るスケルトンが二体、見失いかけた理性を手繰りよせるように、手にした剣の背で己の大腿骨をノックしていた。
『礼なんざ気にしたことがねぇ。リーゲンベングの頭でっかち共と違ってな』
「望まない交渉事があったようですね」
船長は酷く機嫌が良さそうに、鼻歌代わりに数度だけ顎を鳴らした。
乗り出していた身を起こし、少年が格好つけるように傾いていた海賊帽を元の位置に戻す。背を反らすように背凭れに身を預ける姿は堂に入り、さぁ貫いてみせろとばかりに肋骨を張った格好には、相手の出方を存分に楽しんでやろうという鷹揚とした気概があった。
「あなたの持論は、あなたが絶対悪であることが前提ですね」
『なら俺を正義にでもするか? そりゃあ無理だぜ』
「何故ですか?」
『生まれてから今まで、正しいことなんざ一回もできた覚えがねぇ』
「正義と正しさはイコールではないでしょう」
『イコールだって言う奴が大半だと思うがね』
「罪を許し、罪を吞み改心するのが正しい行いです。けれど、正義はそれを罰します」
『正しい人間は泣き寝入りしろって?』
「できませんよね。全ての人が正しくあるのは難しく、だから正義という秩序が悪を裁く」
一人は声で、一人は文字で、互いの隙を狙うそれらが途切れることはない。
どちらも揺るがず、引く気もない。それは両者共に、背負うものがあるからだ。
自身が舐められたら配下が舐められる。海賊も冒険者もそういう世界だ。リゼルにとってジルたちは配下でも何でもないが、それでもパーティという括りにおいて己が頭であることに変わりはない。
一秒たりとも間の空かないやりとりは、剣での斬り合いにも劣らぬ舌戦だった。
「あなたは船の中に法を作り、守らない者を断罪したんでしょう。そうして秩序を守った」
『だから正義だ?』
「少なくともあなたの法、あなたの船の中で生きる部下たちにとっては」
『詭弁でしかねぇ。それで俺らを殺す奴が悪になるって思ってんなら、随分と』
リゼルは言葉を切った。
決して嘲らず、見下さず、敵意も含まず。慈愛すら含んで、頬を綻ばせる。
そして、まるで愛する者に心を誓うように。囁くように、そっと唇を開く。
「スリルを愛するあなた。死後も尚、配下に慕われる偉大なひと」
星座をなぞるようにそっと視線を流す。
がらんどうの眼窩から、文末の途切れた血色の声へ。頤を持ち上げるように後ろを振り返り、剥き出しのサーベルを手に扉の前に立つスケルトンを見据え、にこりと笑う。
「この船はあなたの国に外ならず、ならば配下はあなたの民に外ならない」
『それで、どうするって?』
机上の文字に警戒が滲む。
歪な線の隙間を所々、滴り落ちた血痕にも似た赤が埋めた。船長である骸骨はならず者であり、だからこそリゼルの言葉の意図を察している。リゼルが何を言おうとしているのか、しようとしているのか、予想がついているからこその警戒であった。
けれど、だからこそ骸骨はふてぶてしく、海賊服に包まれた肘を片方机に置いた。友人に気さくに話しかけるように肩を傾け、天板に刻んだ声のとおりに顎を動かす。
『は、こっちの礼儀に合わせてくれる訳だ』
「合わせられていなかったことは先ほど謝罪しましたよ」
『俺らにとっちゃあ確かに、平和的な話し合いなんてのは嫌がらせだろうな』
コ、コ、と上顎と下顎が重なる音がする。
『だからと言っちゃあ何だが、人質なんて考えるもんじゃねぇぜ。てめぇを道連れに笑いながら死んでいく奴らしかいねぇんだ。俺も大歓迎で見送ってやるよ』
「そうでしょうね」
余裕の態度に、リゼルも反論はしない。
最初から平和的な話し合いなど通用しない。相手の「正義とは俺の敵だ」という主張は、どう正論を述べようと覆せないようにできている。
目の前の威厳ある骸骨が、こちらの言い分を認めなければそれまでだ。理屈も何も関係がない。相手が違うと言ってしまえばそれまでで、どれほどこちらの主張が的を射ようが相手の主張は揺るがない。
リゼルはそう結論づけ、だからこそ説得の仕方を変えていた。
「絶対悪を名乗るあなたたちは、何をされようと報いだと受け入れてしまうのでしょう」
これしかないから、こうしようと決めていた。
配下を人質にとるのではない。言葉以外の武器が禁じられている今、武器を使わずとも人質をとるという行為が認められるかは分からない。賭けにしても分が悪すぎる。
ならば、相手自身に自らの主張を否定してもらうしかない。
「イレヴン」
慈しむような声だった。
促すように小さく首を傾けるリゼルは、そうして呼びかけた相手を振り返りもせず、一瞥たりとも向けはしない。そうせずとも、呼びかけた相手が酷く楽しげに次の言葉を待っているのを知っている。
「船首で航路を見守っている美しい人、どうしましょうか」
「とびっきりの 人形性愛者(ピグマリオン) 知ってっから、そいつにやろ。プラス 加虐性愛者(サディスト) っつう救いようのねぇ奴だから、十日もすりゃ汚ねぇ石ころになって転がんだろうけど」
自由に白骨を揺らしていた船長が動きを止める。
ピアノを奏でるように机を叩く指先も、余裕を表すように開いていた下顎も。思い出したように床を叩いていたつま先も、声を出すごとに開閉していた肋骨も全て。
ぼとり、と血の塊が落ちたように机に赤が滲む。ぼとり、ぼとり、と埋めつくしていく。
それをリゼルの頭越しに見下ろし、イレヴンは酷く愉しそうに笑った。嘲りを隠さない笑みは、およそ人々が日常で見るようなものではなく。だが恐らく、海賊である彼らには見慣れたものなのだろう。
「ジル」
呼ばれ、ジルは微かに片眉を上げた。
彼は入室から一度も剣の柄から手を離さない。殺気の満ち始める室内をただ冷静に眺めていた。
「悠然と張られた帆は、随分と丈夫に作られていましたね」
「豚小屋にでも敷いときゃ掃除の手間も減る。雑巾代わりに欲しがる物好きがいりゃあな」
扉の隣に立つスケルトンがにわかに落ち着きをなくす。
激高し、憤怒し、理性を失った様子でサーベルを振り上げるも、振り下ろす直前で不自然に力を失う。糸の切れた操り人形のように腕が落ち、辛うじて手放されなかったサーベルが床を向いた。
今まさに襲い掛からんばかりの姿。だが、できはしない。彼らの船で、彼らの定めたルールがある。いかに悪逆の限りを尽くそうが、いかに非道に堕ちようが、そこを越えては生きてなどいられない一線が必ずあるのだ。
「これほど立派な船です。数多の航路を切り開いてきた舵もあるでしょうか」
だからこそリゼルは、僅かな危機感すら抱かずに口にする。
思案するように口元に触れ、余所を見て、ふと思いついたかのように船長へと向き直った。
「ああ、そうだ」
愉しげに、笑う。
「私たちが泊まる宿に、素敵な暖炉があるんですよ。きっと、試し焚きの薪くらいにはなるでしょう」
ばきん、と何かが割れる音がした。
骸骨の船長からだ。背骨が折れるような音。同時に、背を覆う海賊服が歪に盛り上がる。
立ち上がった訳でもないのに骸骨が天井へと届こうとしている。背骨が伸びていく。机に隠れて見えなかった部分、腰骨あたりから強大な骨の腕が二対、錆びついた螺子を無理に回したような音を立てながら広がった。
二対の巨大腕が机を叩く。低い天井近くまで伸びあがった頭蓋が下りてくる。
三対になった腕に、蜘蛛のようだ、と今や真上から覗き込まれているリゼルは思った。見上げたがらんどうの眼窩は変わらず真っ黒で、月明かりを亡くした夜の海だけがぐるぐると波打っている。
『どういうつもりだ』
「言葉のままに。私たちは部屋を出た瞬間から、あなた方への蹂躙を開始します」
『そんなもんはどうだって良い。できるできねぇ、そんなもんはどっちだろうが別に良い』
「そうですね。あなた方にとって大切なのは享楽、勝ち負けは二の次なんでしょう」
『おい、おい、何だ、お前。さっきまでの言い分はどうなった?』
「言い分、というと?」
巨大腕が二対四本、机を軋ませながらリゼルへとにじり寄る。
リゼルが見上げた先、今にも鼻先が触れそうな距離で、噛み千切らんばかりに剥き出しの上顎と下顎がぶつかった。火打石を打ったかのような、破裂音にも似た強烈な音が耳を刺す。
『裁くのが正義なんだろうが、なぁ、裁くべき悪はどこにいる? なぁッ、おい、こいつは何の罪も背負ってねぇだろうが、なぁ、なぁッ、違うかッッ!!』
ガチン、ガチン、と歯列が音を立てる。
机に刻まれる赤黒い声は、いまや荒々しく崩れていた。文字の大きさが異なり、列そのものを見失い、叩きつけたかのように飛沫の跡が飛び散っている。
リゼルは頤を持ち上げたまま、視線だけでそれらをなぞり、再び頭蓋へと視線を戻した。
「裁くべき悪はどこにいる、なら、悪を裁くべき正義はどこに?」
『違うか、なぁ、ぶっ殺してやる、てめぇ、Landlubber(土好き)の分際で』
「落ち着いて。そうすれば、あなたの勝ちです」
リゼルは手を持ち上げ、頭蓋骨の怒りに震える顎を指先でなぞる。
「私はあなたの敵に回りましたよ」
『ぶっ殺してやる、ぶっ殺してやる、薄汚ぇ×××共、ぶっ殺してやる』
「どうか、私のことを正義だと、そうおっしゃってください」
ぴたり、と今や異形と化した骸骨が動きを止めた。
リゼルの首を折らんと伸ばされる巨腕。その指輪だらけの指が、堪えきれぬ衝動に痙攣のように跳ねている。机の上を這い、その裏側に回った二対の巨大腕が、隠されていたサーベルを握りしめたまま固まっていた。
ジルがすぐに抱えられるよう背凭れに手を置き、イレヴンがいつでも扉に駆け出せるよう一歩足を引く。船長にならうよう微動だにしないスケルトンの眼窩すら向けられ、リゼルはゆっくりと首を傾けた。
「自分の敵は誰であろうと正義だと、それがあなたの言い分でしょう?」
直後、扉を守る二体のスケルトンが音を立てて崩れ落ちた。
床に散らばる白骨に、身に着けていた衣服が被さる。話し合いが結末を迎えたことを悟り、ジルとイレヴンは警戒を解いた。
『国崩したァでかく出たな、この悪党どもが』
「あなたさえ犯せない罪、私には他に思いつきませんでした」
『は、どうだか』
巨腕が崩れ落ちる。
サーベルが床に落ち、骨が相次いで跳ねる。本来の腕が机に転がり、幾本かは床に落ちた。白い指を飾る指輪も、天板に横たわるものもあれば落ちてどこかに消えたものもある。
『俺が一番愛した女だ。手を出してくれるなよ』
「約束しましょう。最初から、実行に移す気はありませんでした」
それぐらい、船長は理解していただろう。
それでも憤った。当然だ、最愛の相手に向けられる恥辱を看過できるはずがない。
正論など正しいだけで何の役にも立たない。相手が嫌がれば正しかろうが何だろうが罵詈雑言と変わりない。海賊たちも、そりゃご立派でと笑い飛ばしながらサーベルを抜くだろう。
悪を悪と知りながら突っ走る悪党。あるいは彼らから利益を得る者にしてみれば必要悪。
そんな外野の評価すら、本人たちは気にもかけない。海賊たちを動かすのはいつだって、荒れ狂う海原にも似た強い強い感情のみ。歓喜、憎悪、快楽、憤怒、良くも悪くもそれだけが彼らを駆り立てる。
「俺は、あなたのクルーではありませんが」
崩れ落ちるように生前のサイズを取り戻した相手へと、リゼルは敬意を惜しまず微笑んだ。
「良い旅を、船長」
『Ye ta, scallywags!!』
椅子に腰かけた骸骨が崩れ落ちる。
力を失った下顎が揺れ、頸椎から頭蓋骨が離れて机の上を転がった。
海賊たちの旅路がどうなるのか、それは誰にも分からない。もう終わっているのかもしれない。まだ途中なのかもしれない。どちらにしても、向けた言葉はきっと間違ってはいないだろう。
「お前にしちゃ賭けに出たな」
「そうですか?」
ふいに、長く息を吐く音が聞こえてリゼルは振り返る。
武器禁止も解かれたようで、既に抜き身の大剣を握っているジルが凝った首を回していた。
「親切に相手の勝ち目残してやっただろ」
「何それ、何処?」
「正しくなくても正義っつうとこ」
「あ? あー……ああ、そゆこと」
納得いったようにイレヴンは頷いた。
彼は床に転がっている指輪を拾い上げ、さて本物かとランプの明かりに透かしている。それは戦利品扱いできるか確認しているのだろう。カットの美しい大ぶりの宝石は、一つ売れば一年は遊んで暮らせそうだ。
「リーダーがどんだけ煽っても、相手は『うるせぇ知るか』で済ませれるワケだ」
「そう言われれば俺の負けでしたね」
「相手に自分で負け選ばせるとこがお前だよな」
「そうしないと勝てなかったんだから仕方ないと思います」
呆れたようなジルの言葉に、心外なとリゼルは拗ねてみせる。
リゼルとて、海賊たちの最愛を貶める真似はできる限り避けたかった。けれど、他に手がなかったのも事実。ならば必要なことだと割り切るしかないだろうに。
そして立ち上がる。室内で調べるべき場所は特にない。
ここまで凝った迷宮なら航海日誌がありそうだが、ここにも見当たらなかった。船の隅々まで歩き回った訳でもないので、もしかしたら見逃してしまったのかもしれない。
あれば何かしら役に立ちそう、あるいは迷宮への理解が深まりそうだが、ジルやイレヴンはそのあたりを重要視しないだろう。諦めるしかないな、と机の上に転がる海賊帽に触れた時だ。
「あ」
「どうした」
「文字が」
机の天板、物静かな頭蓋骨の隣に文字が滲む。
描かれたのは『右に三、左に全力、後はぶん殴れ』という文言と、今にも笑い出しそうな頭蓋骨の横顔。この船のジョリーロジャーに描かれていたものだ。
拾い終えた指輪を手の上で遊ばせながら、同じく机を覗き込んだイレヴンが眉を寄せる。
「暗号?」
「何処で使うんだよ」
「この部屋の中にはないですよね」
三人は周りを見回すも、これといった対象は見つからない。
ひとまず覚えておこう、と結論づけて、そろそろ先へ進まなければと足を踏み出す。戦利品は七つの指輪と、巨腕が扱っていたサーベルが四本。ちなみに指輪はもう幾つかあったはずだが、棚などの後ろに転がっていってしまったのか見つからなかった。
指輪はその内イレヴンが換金して、その金貨を配るだろう。デザイン的に彼がそのまま使いたいものもなさそうだ。サーベルがジルの目に適ったらしく彼が回収している。
リゼルはふと、置きっぱなしの海賊帽を手に取った。
「似合いますか?」
「似合わなくはねぇけど海賊にも見えねぇ」
「リーダーが被ると貴族の変な流行りっぽい」
好評なのか違うのかよく分からない。
リゼルは苦笑しながらも帽子をとり、机の上にある骸骨を見下ろして静かに被せる。
「やっぱり、あなたが一番似合うみたいです」
三人が去り、無人となった室内。
そこでは残された骸骨が数度、まるで笑うかのように歯を打ち鳴らしていた。
その後もリゼルたちは迷宮の攻略を進めた。
時に魔物に襲われ、時に伝声管に呼ばれ。そうしてついに辿り着いた最深層は、あらゆる期待を裏切った小部屋。物置より狭いだろう部屋は、天井だけがひたすら高く、壁際には一本の梯子が備え付けられている。
「あー……天井から出れんのかも」
「ひたすら下って、最後に上らせる迷宮は珍しいですね」
「まぁ間違いなくボスだろ」
これでボスでなかったらどうしよう。
三人はそんなことを話しながら長い長い梯子を上る。木製の梯子は酷く簡単な作りで、上りやすさなど微塵も考えられていない。意外と疲れるなと、リゼルはそう考えながらせっせと木の板を踏みしめていく。
先を行くイレヴンの動作は軽く、下から聞こえるジルの声も少しも揺るがない。二人と比べるのがおかしい、とヒスイにもいつか言われたことがあるが、それでも頑張らなければと気合を入れなおして両端を握る。
「どんなボスでしょう」
「スケルトンの親玉とか?」
「船長差し置いて誰だよ親玉」
「だよなァ」
魔物だというのなら、誰ということもないのかもしれないが。
それでもしっくり来ないな、と予想を交わす二人に、リゼルは少しばかり息を乱しながら笑みを零した。以前ならば迷宮相手にそういう考え方などしなかった二人が、こうした会話をしているのが嬉しかったからだ。
そうして、ボス予想に混ぜてもらおうと口を開く。
「この船を襲撃した相手、とか」
「あ?」
「そういや外から見るとそんな感じだったっけ」
「敵船の一団が相手っつうのもあるか」
「集団戦んん? 変な迷宮だしアリっちゃアリかもだけどさァ」
話している内に、ついに天井までたどり着いた。
イレヴンが手のひらをあて、押し開く。ボス用の広い部屋にでも出られるのだろうかと、そんなことを考えていた三人の予想は大きく覆された。
開かれていく扉の隙間から差し込むのは、強い強い太陽光。まさか、と真っ先に顔を出したイレヴンが見たものは、見渡す限り果てのない大海原だった。湖もサルスも存在しない、青い空の下に波の輝く一面の海だ。
「は……?」
「海、ですね」
「何処だここ」
三人が降り立ったのは甲板だった。
何故か迷宮に潜る前に見た襲撃の跡がない。今なお現役で海をかける海賊船だ。見上げれば傷一つない帆が風を受け、見下ろせば進む船に掻き分けられた白波が見える。
ただし、リゼルたちの他には誰一人としていない。
「この船、進んでますよね」
「え、俺操縦できねぇんだけど」
「俺もです」
「難破したら終わりじゃねぇか」
既に航路をとっている巨大船。
流石の三人もどうすることもできず、うろうろと彷徨っていた時だ。
突如、船の真横で何かが飛び出した。何処からか放たれた砲弾でも着水したのかと思うような音、けれどそれよりもずっと大きな音を立て、跳ね上げられた飛沫が甲板の床を叩く。
雨のように降るそれを腕で庇いながら、リゼルは細めた両目でその方向を見ていた。太く白い触手が振りかぶられている。三人を狙ってか、甲板へと叩きつけられようとしていた。
「でっか」
そう零したイレヴンに腕を掴まれ、リゼルは促されるままに駆けた。
直後、何かをへし折る音と共に触手が甲板を攻撃する。振り下ろされたジルの大剣は薄皮一枚を切り裂いた。聞こえた舌打ちは、少しばかりの楽しみを含むのだろう。
引き摺るように海に吸い込まれていく触手。同時に、海面を盛り上げながら姿を現したのは。
「大きいイカですね」
「うっわ、斬りづらそ」
「船操るだけのラストよりマシだろ」
これまで襲撃してきただろう帆船を取り込み、異形と化した見上げるほどの巨大イカ。
軟体から骨だけとなった帆が飛び出し、船体と一体化した体からは幾本もの腕が伸びる。その体から突き出た船首がリゼルたちの乗る柵をへし折った。流石に船自体を沈められることはない、と思いたい。
「(再現戦、なのかな)」
折れた柵が、迷宮に潜る前に見たものと重なる。
これは、この船が受けた襲撃の再現だ。というよりもリベンジマッチというべきか。
リゼルは相対した骸骨姿の船長を思い出した。敵討ち、というのは恩着せがましいかもしれないが。
「頑張りましょうね、ジル、イレヴン」
「りょうかーい。でかすぎてどうすりゃ良いのか分かんねぇけど」
「これ船放置でいいのか」
「多分大丈夫です」
目の前に立ちふさがる魔物こそ、船乗りにクラーケと恐れられる海の魔物。
三人は武器を構え、その強大な相手へと向き合った。