軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

109:宿主にパンケーキ作って貰った

魔物図鑑、というものが冒険者ギルドにはある。

様々な場所に数多くあるギルドに置かれた魔物図鑑は、大抵国ごとに内容が変わる。それは昔から冒険者達が集めた情報により地道に作られている為であり、大抵その国にある迷宮の魔物に関する情報ばかりが詳細になっていくからだ。

手間と破損の可能性により冒険者がギルドから持ちだすことは禁止されているが、大抵の冒険者が依頼を受けた魔物の詳細を知りたい時に図鑑をめくるだけなので気にはされない。出現場所や素材箇所、時には解体方法まで図解であったり文章であったりで載っているのだから重宝され、定期的に新しく写しかえられるものの図鑑は色あせ擦り切れている。

「すみません、魔物図鑑を借りたいんですが」

「はい。ええと、何巻でしたっけ」

「五巻です。あ、六巻も一緒に借りて良いですか?」

穏やかに扉が開かれ、一人ギルドを訪れたリゼルが真っ直ぐにサポート用の受付に歩んで来た時点で目的がその図鑑であることは明確だった。

サポート受付に座る職員はカウンターの下にある棚を覗き込み何冊も並ぶ本を指でなぞる。数多の種が存在する魔物を詳細に書き記そうとすると一冊では足りず、大まかな種族で分類されて纏められているのが普通だ。

まさか特定の魔物を調べる為では無く、一巻の“獣の魔物編”から順番に読み進めて行くような冒険者がいるとは思わなかったというのが職員の本音だ。そんな一気に読んでも覚えられないのでは、というのは愚問だろうか。

「お待たせしました」

「有難うございます」

本を差し出すと微笑みながら受け取られ、慣れないなぁと職員は落ち着かないようにもぞもぞと身体を動かす。

気付いているのか苦笑を零すリゼルには申し訳ないと思っているものの、威勢と粗暴の代名詞であるような冒険者ばかりを普段は相手にしているのだから仕方が無い。髪を耳にかける整った仕草さえ一瞬周囲の空気を静寂に変えるようで、それだけの仕草だというのに目を引いてしまう。

「そういえば」

「はい」

ふと疑問が湧き、職員は良いだろうかと思いながらも問いかける。

快く付き合ってくれるリゼルに安堵し、その手に持つ魔物図鑑をじっと見た。

「前はパルテダールにいたんですよね、その時には魔物図鑑見なかったんですか?」

ギルドカードを見れば冒険者が何処のギルドに所属しているか、そして何処で登録をしたのかが分かる。他国に拠点を移した最初の依頼では其処もチェックされるため、リゼル達も一番初めの依頼である“ジェントルマリオネットのスカーフ”を受けた時は少しばかり待った。

それが受付した職員だけでなく、他にも知れ渡っているのは珍しいが。一刀がいるというだけでは無いだろう。

「 王都(パルテダ) でも全部読みましたよ。けど載ってる魔物も違うし、同じ魔物でも書いてあることが違うので面白いです」

「へぇ、そうなんすか」

通常、ギルド職員は冒険者と違いほとんど国を出ないので違いなど分からない。

リゼルが手に本を乗せ、例えばと言いながら捲って行く。ページを捲る仕草でさえ恐ろしく品が良い。

「ここ、スライムのページですけど」

一緒に見られるようにと本を傾けられ、座っていた職員は立ち上がり覗き込む。冒険者らしい無骨な手とは違い、整った指先が解説の一文をなぞるように動いていた。

今の状況とは全く関係は無いが、勉強の嫌いだった子供時代にリゼルが教師だったなら絶対逃げずに大人しく話を聞いていただろうなと職員は内心呟く。耳に届く穏やかな声と、間延びはしないのにゆったりとした口調は酷く頭に入ってきやすい。

“スライムが稀に一瞬だけベシャリと形を崩しながら寝ている事がある。その間は核が放置されているので攻撃のチャンスとなる。”

「これが王都の魔物図鑑だと違って、“スライムが稀に睡眠をとるため溶けたように床に薄く広がる事がある。その間核は無防備に晒されているため攻撃する絶好の機会となるが、その時間は短く二秒程である”って書いてあるんです」

国民性って出ますよね、と微笑んでいるリゼルが面白そうなので何も言わないが、過去のアスタルニア冒険者ギルドの職員はもう少し図鑑らしい文を書けなかったのかと思ってしまう。情報源は冒険者だが図鑑に纏めるのは職員だ、ベシャリと言われてベシャリと書くのはどうなのか。

しかし分かり易ければ良いじゃないかと思ってしまう辺り自分も生粋のアスタルニア人なのだと、職員は潔く諦めた。

それよりリゼルが読んだ魔物図鑑を全て覚えているのかが気になってしまう。覚えていると言われても絶対嘘じゃ無い、そう思いながら本を覗き込んでいた視線をちらりと上げる。

「後はやっぱり図解とかも違うんですよね。アスタルニアの魔物の図解って、躍動的で見てて楽しくて」

何か変なスイッチが入りかけている。

それが本マニアのスイッチだということを職員は知らない。

「そ、そういえばいつもの席が埋まっちゃいますよ」

「あ、そうですね」

リゼルはスッと顔を上げてギルド内に幾つか置かれている机を振り返った。

一番隅でもないが存在を主張せず、ギルド全体を見渡せながらも落ちついて読書が出来るような席がいつもリゼルが座る椅子だ。勿論一人席ではないが、混んで来ようとリゼルは気にせず読み続ける。

一度場所を譲れと絡まれたことがあるが、リゼルは至って平然と人数分の椅子は空いているんだからと相席を勧めた。冒険者達は果たしてそれで良いのかと疑問を抱きながらも相席し、位置的にはガッツリパーティメンバーな席で黙々と読書に興じるリゼルを酷く気にしながら迷宮攻略についての話し合いをしていた。

今が冒険者の少ない昼過ぎであるとはいえ、だからこそ受けた依頼の対策を練ろうと机を囲む冒険者もいる。別に他の席でも読書は出来るが、折角ならば一番良い環境が良い。

「じゃあ今日も少し席を借りますね」

「ごゆっくりー」

自由に使えと置いてあるのだから自由に使えば良いものの、一言断りを入れるあたり育ちが良いのか気が利くタイプなのか。どちらにせよ冒険者にはいないタイプだと、職員は貸出名簿を取り出してリゼルの名前を記入した。

ジルは今まさに倒したボスを見下ろしながら、汚れた剣を拭い腰に戻した。

深層まで進んであった攻略途中の迷宮に来たは良いものの、思ったより時間がかかってしまった。お陰で今は昼過ぎ、昼前には終わって国に戻る予定だったので大した食料も持っておらず微妙に腹が減っている。

目の前で巨体を横たえるボスは植物と獣が合わさったような奇妙な姿をしており、一際目を引く酷く美しい巨大花に溜められた蜜が素材箇所となる。それ以外は花弁一つだって持ちかえることは出来ない。

「……」

ジルは嫌そうに顔を顰め、さっさと帰ってしまいたいがと巨大花を見下ろした。

彼は基本的にボス級からは余程面倒で無ければ素材を持ち帰る。逆に言えば、面倒だと思った程度で諦められる程には執着が無い。

他の冒険者ならば生死をかけ討伐し、歓喜しながら素材を手に入れ巨額の富を得、そして更に他の冒険者から羨望の眼差しを受けることも容易である程のものを放棄しようなどと正気じゃないと断定されるべき事だ。

しかしジルはそれを容易く捨てる。装備に使えなければ興味など無いのだろう、金に困れば資金にするが今はそれも無い。面倒だと思えばこのまま帰れば良い。

「……ッチ」

しかしジルは一度舌打ちし、分厚い花弁を持ち上げる。

初めて見たボスの素材をどう採取するのかなど毎度分からないが、ようは採れれば良いのだ。幾重にも重なる花弁を広げて行くと途端に漂う甘い匂いに、ジルは顔面を凶悪なものに変えながらもう一度舌打ちをする。

これだから嫌だったのだとは思うが、興味を持ちそうなのが一人いるのだから仕方が無い。話せば食べてみたかったと言うのは想像に難くないのだから。

徐々に甘い香りが充満していく空間に覚えた空腹が薄れていくのを感じながら、ジルは掴んでいる邪魔な花弁を引き千切った。

「(カルミアウルフ、獰猛で巨大なウルフの背に巨大花が寄生しているような……)」

椅子の背もたれなどあっても無くても変わらないというような美しい姿勢で、リゼルは魔物図鑑へと目を通していた。第五巻を読み終え、次の第六巻“植物の魔物編”も読んでいてとても興味深い。

毒があるものが非常に多く、他者を捕食せんとばかりに凶暴な魔物もいれば、酷い状態異常を引き起こすだけの直接的な攻撃性を持たない魔物もいる。

今読んでいるボスクラスの魔物もそうだ。毒のしたたる強固な刺を纏った蔓を何本も携え、花から相手を錯乱させるような香りを放ち、そして植物の唯一の欠点である移動不可をウルフに寄生する事で克服している。

当のウルフも相手を引き千切る牙と爪を持ち、花の凶悪な蔓を巻き付けた尾を薙ぎ払い、ボスに相応しい強さを持っているようだ。書かれたランクはS、当たり前かと髪を耳にかけながら納得する。

「(素材は黄金蜜、黄金色をした美しさと、その一滴が黄金を凌ぐ価値を持つ事からその名が付けられた……ジル、採って来てくれないかな)」

もし該当する迷宮を既に攻略していたなら持っていたりしないだろうか。甘い物がとにかく苦手な男だが、恐らく手に入れて来てくれる筈だ。

そう考え小さく微笑んだリゼルが、ゆっくりとページを次に進める。やろうと思えば相当な速さで一冊読み終えることが出来るが、急いでいないのならば自分のペースで読書を楽しみたい。

しかし、そろそろ切り上げ時だろうかと本への集中を徐々に散らしてはいた。冒険者達が依頼を終えて帰って来る時間帯に差しかかってきたからか、先程から少しずつ扉が開閉する音の頻度は上がっている。

依頼終了の審査待ちや報酬待ちで机を使う冒険者らもいるだろうし、席を空けた方が良いだろう。いちゃもんで「どけ」と言われてもどかないリゼルだが気は遣える。今は、貴族ではないのだから。

「あぁ、見つけた」

その時ふいに、そんな声が聞こえた。

他の誰かに投げかけられたにしては真っ直ぐに向けられた声と、近付いてくる靴音にリゼルは顔は本へと向けたまま視線だけを其方へ向ける。予想は間違っておらず、ギルドへ入ってきたばかりの冒険者がその顔に笑みを浮かべて此方を見ていた。

リゼルとてアスタルニアの冒険者ギルドに通い始めてそこそこ経つし、他の冒険者の噂話を耳にすることもある。時々一人で来ては会話に混ぜて貰うこともあるのだ、良く出回る噂は耳にしている。

目の前にいる冒険者の男と、その後ろに従う冒険者らの事も直接関わったことは無いが聞いたことはある。

「一人なんだ、丁度良かった」

断りもなく向かい側の席に座った男に、リゼルは本を閉じながら微笑んだ。

これで読書に集中しきっていれば視線すら上げないが、そろそろ止めようかと思っていた所だ。ざわつく周囲に相手の知名度を悟りながら、さて何の用事かと目の前の男を一切の気負いなく見据える。

用件は、想像がつかないでも無いが。

「今、良いかい?」

「どうぞ」

貼りつけたような笑みを浮かべている男に、リゼルはそう穏やかに告げた。

今アスタルニアでSランクに最も近いAランクと呼ばれているパーティ、そう言われているのが今向かい合っている男達だ。しかし現実的なランクを除外して考えるとSランクに一番近いのはどう考えてもあの三人組だよなと、他の冒険者達に思われていることをリゼル達は知らない。

そんな実力者達が関わったことが無い筈のリゼルへと話しかける光景に、周りの冒険者達の視線が集まる。冒険者に用があるならギルドで張るのが一番の近道とは知っているが、今まで絡まれた出来事を思えば注目を集める目的もあるんじゃないかと勘繰ってしまう。

「結論から言おう」

変わらぬ笑みを張りつけ続ける男は、そう言いながら足を組んで軽く手を広げた。

その物言いと、日に焼けてはいるがアスタルニア国民特有の美しい褐色の肌ではない事から彼は余所から流れて来て此処を拠点とする冒険者なのだろう。聞いた限りではリゼル達の少し前に来たらしいが。

のんびりとそんな事を考えながら、リゼルは閉じた本を机の端へと静かに寄せた。

「君の所の一刀が欲しいな」

ざわり、とギルドの空気がざわめいた。

それは様々な感情を含んでいる。多くが驚愕、そして本人らも自覚していないだろう少しの憤りと不安、誰しも、ギルド職員でさえ各々の作業の手を止め一つの机を見つめていた。

その視線の先で、リゼルはゆるりと微笑んだ。あまりにも常と変わらぬ穏やかな笑みに、果たしてどう出るのかと男も張り付いた笑顔を深める。

「どうぞ」

そして返された回答に、先程より強い驚愕が広がった。

「それは、どういう意味なんだろう」

「引き抜きはご自由に、って意味です。あれ、引き抜きに 俺(リーダー) の許可って必要ないんですよね?」

冒険者パーティ同士の引き抜きというのは割とある。

それは実力が同程度で依頼達成が楽になるからというだけでパーティを組んでいる者達が多い為で、勿論同郷かつ馬が合う者達で長年組んでいるパーティなどが相手では分が悪いが、利害の一致で組んでいるパーティ相手ならばより良い条件を示すだけで引き抜くことは可能だ。

引き抜く際、相手のパーティリーダーの許可が必要かと言われれば必要ない。礼儀として挨拶程度はするかもしれないが、結局のところ引き抜きをかけられた当人の意思に基づく。

「ジル達が貴方達の誘いに応じるっていうなら、俺が止める理由はありません」

平然とそう告げるリゼルを、男は笑みをそのままに視線を逸らすことなく見つめる。

しかし其処には自らのパーティメンバーが誘いに応じる筈が無いという傲慢も、離れて行くかもしれないという焦燥も、そしてメンバーを引き離そうという相手に対する警戒も何も無い。素で言っている。

あの一刀を傍に置いておいて惜しまないとは随分と物知らずなのか大物なのか、そう結論をつけた男が足を組み変えながら楽しそうに身を乗り出した。

「ははっ、なら一刀引き抜きの為のアドバイスなんか頼めば教えて貰えるのかな? だって、止めないんだから」

男はまるで悪びれない様子で笑った。挑発の意図は無く、戯れのつもりなのだろう。

見ていた周囲の冒険者達が癪に障る男だと嫌そうに顔を顰めている中、引き抜く割にはジルとの相性は悪そうだとリゼルは可笑しそうに笑いながら口を開く。

「役立つ助言は出来ないでしょうが、相談には乗ってあげます」

向けられた微笑みに、男は思わず目を瞬いた。

まさか本当に引き抜かれたい訳ではないだろう。しかし相談には乗るという。

その割には助言など意味が無いというのだから、つまり引き抜きは何をしようと不可能だと言っているようなものだ。当たり前のように告げられたそれに、男はにっこりと笑みを深めた。

「助かるよ! 彼が引き抜きに応じるだけのメリットを用意できたか、不安だったんだ。ほら、君と一緒じゃ迷宮ではどうしても攻略のペースが落ちてしまうだろ?」

当たり前のようにそう告げる男に、時と場合によるけれど確かにとリゼルは頷いた。

事実、単純な進行速度でいえば普段ジルが一人で潜っている時よりペースは落ちるだろう。別に踏破を急ぐ用事など今まで一度も無かったのでリゼル達は誰もそれを意識した事は無いが。

周囲の苛立ちが増したのを感じ、苦笑する。自分を想ってなどと言うつもりはないが、男の発言に苛立ちを感じたのなら感謝すべきだろう。

「一刀は新しい迷宮はとりあえず踏破するらしいし……ははっ、言葉にすると凄く簡単そうだな。まあ俺達には不可能に近い困難でも、彼にとっては簡単なんだろうから間違っちゃいないんだろうけど」

笑みを張りつけたままの表情は逆に分かりにくいが、喜んでいることがリゼルには分かる。

一刀信者というのではない、純粋に自らのメリットを増す存在への喜びか。圧倒的戦力を身の内に抱える喜びは、誰しも持ち得るのだから。

「彼にとっては同行者なんて足手まといに他ならないだろう? 君も、俺もさ。だから俺達が一刀に示すメリットは、彼が望む 強敵(ボス) へのフリーパスだよ」

笑みに細まる目を見開き、さも名案だというように男は言いきった。どうだ、と言いたげに両手を広げる男に、リゼルは何かを考えるように唇に緩く握った手を触れさせた。

「つまりジルが潜ろうと思っている迷宮に貴方達が先に潜って、あとはボスと戦うだけの状態にするってことですか?」

「そう、良いだろ? 一刀が求めるのは強敵との戦闘だって話だし、迷宮攻略なんて煩わしいと思って」

流石はSランクに最も近いAランクと言うべきか、ボスかボスに近い階層までは辿りつくことが出来る実力を持っているらしい。ジルやイレヴンでリゼルの感覚は大分麻痺しているが、それは相当な実力者の証だ。

彼らだからこそ提示出来るメリット、確かに理に適っている。そうなれば気になるのは男達自身のメリットなのだが、考えられるものなど一つしか無い。

「それで貴方達はその功績でランクアップするって訳ですね」

「ボスを倒してるのは一刀だけでも、パーティを組んでればやっぱり評価されるからね。君も少なからず彼の功績に乗っかってる筈だ」

「そうですね、やっぱり優秀なパーティメンバーがいると助かります」

にこりと笑ったリゼルに、同意を得られた男も張りつけた笑みをそのままに頷いた。

誰しもパーティを組むならば優秀な冒険者が良い。だからこそ引き抜きがあるのだから。

しかし、言ってしまえば唯それだけの会話が、周囲の冒険者にとっては何故だか酷く不快だった。それが二人の内、どちらに向いているかなど言うまでも無いが。

「でも、それじゃメリットには弱いですよ」

「え?」

「確かにジルは面倒な事は嫌がりますけど」

リゼルは両手の指を机の上に置いたまま絡ませ、そのまま握る。真っ直ぐに男を見据えながら、コトリと小さく首を傾け微笑んだ。

「手間がかかるのは、ああ見えて嫌いじゃないんです」

それが何の事を言っているのか。いや、誰の事を言っているのか、分からない者はいなかった。

視線が集中する。それを全く気に留めることのないリゼルを見据えた男の貼りついた笑みが、一瞬ピクリと固まった。

そしてそれを見た周囲は全員揃って勢い良くガッツポーズを披露した。リゼルからは丸見えなので、嬉しそうにほのほのと笑う。

「それは、迷宮のことかな」

男の問いに、リゼルは微笑んだまま何も返さなかった。聞くまでもないだろうと、そういう意味だろう。

男は一切動かぬ笑みを張りつけ頷く。それはリゼルの返答に納得したようにも、自分を納得させているようにも見えた。

「ああ、そうだな。もしそうなら、迷宮の攻略を俺達で進めておくっていうのはメリットとして弱いかもしれない」

「楽は楽なんでしょうけどね。良い所をついてると思いますよ」

「でも、そのメリットが君には無いだろ? 物珍しさで興味を引いているのに比べたら、弱くても俺達の方が条件が良いと思うし」

その言葉にリゼルはパチリと目を瞬いた。そうだろうと、男の笑みが深くなる。

しかし返って来たのは望んだ返答では無かった。

「まさか。ジル達が無償で動くように見えますか?」

可笑しそうに笑い、リゼルは組んでいた指をパッと離した。

「彼らはいつだって、与えた分しか動いてくれませんよ」

金か、物か、それが何かは男には分からない。しかしそれが分かれば一刀を引き抜く事が出来る筈だと、男が教えてくれないかと言わんばかりに意気揚々と身を乗り出した。

それを見たリゼルが、困ったように眉を下げる。男はその表情に貼りついた笑みを輝かせた。

「うん、分かるよ、人に欲しがられると手放すのが惜しくなるんだよね。君がまさかそんなケチ臭い真似をするとは思わなかったな、何だかとても残念だよ」

肩を竦める男に、リゼルがそうじゃなくてと苦笑した。

「貴方達には無理なので、教えても意味が無いかなと思って」

告げられた言葉に、男の笑みがピクリと歪んだ。

その言葉は上位どころか中位に上がったばかりのCランクが、Sも間近のAランクに言って良い言葉では無い。ランクは目安に過ぎず、実力主義の冒険者の世界だが男は確実に目の前の穏やかな人物よりも強いのだから。

張り付けられた笑みの下で握りこまれた拳が、ミシリと小さく音を立てた。

「手放すのはいつだって惜しいですよ。手放したいって言ってないでしょう?」

「引き抜きを止めなかったじゃないか」

「引き抜きは止めませんし、それを受けて去って行くなら惜しくないってだけです」

リゼルは髪を耳にかけながら、ゆったりと微笑む。一瞬可笑しそうに伏せられた瞳が、ふっと持ち上げられた。

直後、男の笑みは完全に消え去る。

「だって」

人を甘やかすような瞳は高貴を孕み、穏やかな空気は穏やかなままで他者を自らの意思で跪かせるものへと変わり、薄らと開いた唇は次に紡がれる言葉を人々に期待させるように視線を惹き付ける。

次に発せられる言葉を受け入れるのだと、受け入れなければ罪なのだと思わせるまでの清廉な空気がギルドを唯一人の為の空間へと変えた。もし今リゼルが憂い気な瞳をするのなら、誰もがその原因を悪だと本能で理解する。理解、させられる。

「その程度で離れて行くようなら、最初からいりません」

囁くように零された言葉は、波紋を広げるようにその場に落ちた。

「それは、どう……」

何を言うかも定まらないまま、男は口を開いた。促すように首を傾げられ、それに対して許可を与えられたのだと判断してしまった自分に愕然とする。

あってはならない事だ。確かに目の前の男は一刀について行ける程度の実力はあるのだろう、それは認める。しかし彼は自分より弱い。それは間違いがない。

ならば自分の方が上の筈だ。それで間違いは無い。冒険者という価値観に縛られ、それこそ一刀相手でもなければ自分が優位であると疑いもしない男には、すべての価値観を以ってしても上に立ち続ける存在があることなど理解が出来なかった。

「こん、そんな、傲慢が、俺をッ……許されることじゃない!」

張りつけた笑みを剥ぎ棄て、歪な笑みを浮かべた男が椅子を蹴り倒しながら立ち上がり、そして激しく両手が机へと叩きつけられた。人を委縮させるに充分なそれに、しかしリゼルは一切の反応を返さない。

その代わりとばかりに机に両肘をつき、少しばかり身を乗り出しながら重ねた両手に顎を触れさせた。ゆるりと細められた目は真っ直ぐに男を向き、ゆっくりと首が傾げられる。

「本当に?」

場違いとも言える清廉な声、本来ならば他者を支配するに適さない穏やかな声が、今確かに男の意識を縛りつける。

「本当に、許されませんか?」

この存在が行う事が、果たして許されない事があるのか。

許さない人間が、いるのか。

「ッ話を逸らすなよ……!」

男は浮かんだ疑問を掻き消すように首を振った。

浮かんだ歪な笑みが引きつり消えて行くのを恐れるように片手を顔面に叩きつける。隠された表情が未だに笑っているのかなど、もはや本人にすら分からない。

その息は冷静さを取り戻そうと喘いでいるのか酷く荒く、机に打ちつけられた手は力が籠り過ぎて震えていた。

「一刀が君にふさわしくないとは言わない……ッ今の君を見れば、そう思うよ」

それ程の存在だと、それぐらいは分かる。男も此処まで上り詰めた冒険者なのだから。

しかし、やはり許されない。認められない。冒険者である自らを中心に据える男には理解出来ない。

冒険者としての自分が、リゼルを傍に置く理由など無い。メリットなど無い。足を引っ張る邪魔な存在でしかない。だから、と男は喉が引きつる感覚を覚えながら嬉々とした笑みを浮かべた。

「そうだ、やっぱりそうだ! 分からないかい? 君が、一刀にふさわしくないだけなんだ! だってそうだろ、君が居たところで」

コトリ、という音にふいに男の声が途切れた。

音をたてた者を除けば、正確に状況を理解していたのはリゼルだけだろう。目の前の机の上に置かれた瓶とその中を満たす黄金色に一度目を瞬いて嬉しそうに笑い、肘をついていた両手でそれを受け取る。

そして伸ばされた手がふいに肩をゆるく掴み促してくるのに逆らわず、机に寄せた身体を持ち上げた。褒めるように離れながら頬をかすめて行く指の背の感触に、目を細め表情を緩める。

それは、数秒もかからない間のやりとり。

「てめぇが決める事じゃねぇだろ」

「いっ……ッ」

直後、低く掠れた声がそう告げると共に男の歪な笑みが机へと叩きつけられた。

壮絶な破壊音をたてながら机は男の顔面に抉り取られたように大破し、そして男はピクリとも動かない。ようやく現状に追いついた男のパーティメンバーらが、隠さぬ殺気を露わにしながらジルへと武器を抜く。

そしてジルの指が自らの前髪についた木屑を髪をすくように取り除くのを感じ、瞳を閉じたリゼルが再びその目を開く頃には全てが終わっていた。

「これ生きてんの?」

「癪に障るとはいえ実力あんのに、それ瞬殺とか何だあの人。全然見えんかったけど」

「俺剣がぶち斬られるとこ初めて見たんですけど。うっわ、見ろよ切り口」

「つうか穏やかさん……ハッ、穏やか様がリーダーっての改めてめっちゃ納得した」

大破した机の周りに集まった冒険者らが、死屍累々のAランクパーティを眺めながらざわざわと騒いでいる。先程までの清廉な空気から、ふっと我に返ればいつも通りだ。

そこらへん上手いよな、と眺めるジルの前でリゼルは無傷の図鑑を返しながら職員に弁償は折半なのかどうかの話し合いを終えていた。男の顔面が破壊したから全部向こうの所為だとは、一連の流れを一から十まで見ていた職員には通用しない。

「七・三になりました」

「どっち」

「向こうが七です」

通用しない癖にあちらに過失を持って行くあたりがリゼルなのだが。

ついでにジルが受けていた依頼の完了手続きをしながら、二人は何事も無かったかのように話す。

「あれでSランクに一番近いって、どうなんでしょう。ヒスイさん一人でも勝てそうですけど」

「なってねぇなら近いだの遠いだの言っても意味ねぇだろ」

中位のBランクと上位のAランクの差は歴然としている。しかしAランクとSランクの差は存在しない。

そこにあるのは、なれるかなれないかの二択だけだ。なれるパーティは直ぐにでもなれるし、なれないパーティはまず何十年かかろうとなれない。Sランクだけはランクの延長ではなく、次元が違うと言っても良い。

そうだろうなと納得しながらリゼルはジルが職員からギルドカードを受け取るのを眺める。何やら色々騒動を起こしてしまった身としては、早々に立ち去った方が事後処理もしやすいし長居はしない方が良いだろう。

そう踵を返したリゼル達の前に、ふいに勢い良く転がり出る影があった。

「今の戦い凄かったです! 俺を一番弟子にして下さい! お願いしゃす!」

まだ若い冒険者だ。もしかしたら成りたてなのかもしれない。

緊張した面持ちでビシリと立ち、その視線は輝きながらジルを見上げていた。リゼルがからかう様に同じく隣に立つジルを見上げると、呆れたような視線が返って来る。

しかし、ジルの視線が弟子入り志願者に向けられることは一度も無かった。そのまま一瞥すらせず若い冒険者の横を通り過ぎ、リゼルも苦笑しながらそれに続く。ギルドを出る直前に一瞬だけ後ろを見ると、ナイスファイトと他の冒険者らに力強く肩を叩かれていた。

「ああいう子、いるんですね」

「二年に一度ぐらいはいんじゃねぇの」

適当に言うジルに、勇気のある子は何処にでもいるものだとリゼルは頷いた。そしてふいに何かを考えるように視線を流し、何処か不満そうに言う。

「ジルの一番弟子っていうなら、俺なのに」

「何すねてんだよ、アホ」

眉を顰めながらも可笑しそうに笑みを浮かべたジルへと、リゼルは満足そうに微笑んだ。