軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

105:今度こそ約束させられた

リゼルは此方の世界に来るまでは自分で爪を整えるなどしたことがなかった。

なにせ身支度は全て周りに任せるような身分だ。読書の片手間に跪いた従者に爪を磨かれることはあっても自ら爪やすりなど握ったことはない。

此方に来てから爪が伸びてきたなと思った時は、果たしてヤスリを買えば良いのか何か他にあるのかとジルに聞きに行ったものだ。当初、二人が結んだ金銭での契約内容にそういった知識の伝授も含まれていたこともあり、ジルもそれを拒むことは無く呆れながらも色々と教えてくれた。

ジルは引きうけた仕事はきっちりこなす。ただ彼が時々面白がった所為で今のリゼルの知識が微妙にずれていたりもするのだが。

『ジル、良いですか?』

『何だよ』

そして聞きに行った先にあったのが、まさにジルが爪を整えている光景だった。

椅子に座り、床の上に両足で挟むように木製のゴミ箱を置いている。その上に無造作に投げ出されている片手、そしてもう片手に握られているのは短いナイフ。

ナイフは目を離そうと滑らかな動きで爪を削り続けている。リゼルは成程と頷いて、用意していた質問の内容を変えた。

『そういう小さいナイフって何処に売ってますか?』

『待て』

一瞬にして全てを悟ったジルのお陰で、リゼルは無事爪ヤスリを手に入れる事が出来た。

向かった店で店員にひれ伏さんばかりの勢いで差し出されたのは、持ち手に透明感のある月が描かれているガラス製の爪ヤスリだ。良く削れるのでリゼルは今も愛用している。

最初の頃はガリガリ削って爪を欠けさせたり形を整えようと思って削り過ぎたりもしたが、今では立派に整える事が出来るようになった。元の世界では削る前やら後やらに他にも色々やられていたような気がするが、自分ではそこまでやろうとは思わない。

「ん」

整え終わった爪を見下ろし、リゼルは満足げに頷いた。

最近はイレヴンがやりたがるので任せることも度々あり、手先が器用な彼は言うまでも無くリゼルの指先を完璧な形に整えてくれるのでそれに合わせて削るだけで済む。何故やりたがるのかは分からないが、楽なのでリゼルは気にしない。

「後は……」

爪ヤスリを机の上に置きながら、広げていた本へと視線を落とした。

“超初心者の為の料理読本~カレーを失敗しようと思うと難しい~”を真剣な瞳で眺める。今は一ページ目にある料理を始める前の準備を進めている最中だ。

爪は短く切っておきましょう。達成したその項目から次へと進んでいく。

「“髪は結んでおきましょう”」

ふむ、とリゼルは一つ頷いて一本の紐を取り出した。

そして後ろで一つに纏める。首元が涼しいのでアスタルニアでは時折こうして髪をまとめている為、慣れた手付きだった。

「良し」

一通り読み終えてはいたが確認の為に目を通しながら準備を進めていた本を閉じる。それをポーチへと仕舞い、そしてポーチを腰に巻きつけながら立ち上がった。

後は実際に料理を始める際に必要になるものを揃えなければいけない。何せリゼルはまだ材料すら買っていないのだから。

そして何より料理をする上で一番大切なものが準備出来ていなかった。

「(エプロンって服屋で良いのかな)」

形から入りたがるリゼルだった。

その店は港からほど近い場所にある。

店の前を通れば独特の香りが鼻をつき、人々を空腹に誘うこともあればクシャミを誘うこともある。ただ潮風に乗って広がるそれを人々は決して不快に思う事は無い。

数々のスパイスを扱う店、アスタルニアでは余り数のない其処へとリゼルは足を踏み入れた。

「ナハスさん」

「ん?」

直後、見知った顔を見つけて意外そうに声をかける。来そうにない、とは思わないがこんな所で会うとは思わなかったからだ。

ナハスも同じように思ったのだろう、怪訝そうな顔をしている。私服の彼は今日は非番のようだ。

「御客人か、奇遇だな」

「こんにちは。買い物ですか?」

「ああ、必要なものがあってな」

微笑みながら近付いたリゼルに、ナハスは手に持つ花をスッと持ち上げて見せた。

まるで花屋のように店内の壺へと飾られている白い花も立派な売り物だ。リゼルが壺を見下ろしてみると、紐で値札がぶら下げられている。

スパイスを扱う店としか聞いていないリゼルには意外なものだった。とはいえただの花を扱っているとは思えないので、普通に綺麗なだけの花では無いのだろう。

植物に特別詳しい訳ではないが、そう考えれば心当たりがあるような気がする。リゼルは思い出すように手を口元にあてた。

「何でしたっけ、以前本で見たんですけど……あ、月下花?」

「良く知ってるな、この国でも珍しい方だと思うが」

感心したように言いながら、ナハスは一本二本と壺の中から花を引き抜いて行く。

彼の言葉通り珍しいのは確かだろう、値札に書かれた値段は普通の花に比べれば破格なほどに高い。月の下で花開き、花弁に魔力を溜めこむという珍しい性質を持っていることを考えればそれも当然か。

アスタルニア特有の花だというが、リゼルはこの国に来てから初めて見た。珍しそうにナハスの持つ花を覗きこみ、その花弁に触れてみる。

「あ、本当に魔力が籠ってますね。ほんの少しですけど」

「む、やはり魔法使いなら分かるか。俺には全く分からん」

名乗った訳でもないのに魔法使いだと思っているナハスに、しかし冒険者の役柄に当てはめると魔法使いと言うしかないのだからとリゼルは否定しない。肯定したことも無いが。

見た目より肉厚でしっかりとしている花弁をふにふにと指先で弄りながらリゼルはしかしと小さく首を傾けた。本には“蕾になると内部に溜めこんだ魔力が薄らと光り、観賞用として広く親しまれている”としか書いていなかった為にナハスがこれを買う理由がピンと来ない。

少しだけカマをかけてみようかと、からかう様に目を細めながら問いかける。

「プレゼントですか?」

「ああ、愛しい 我が相棒(マイパートナー) にな。あいつはコレが好きだからな!」

インサイがジャッジに向けるような溺愛の表情を浮かべるナハスに、予想はしてたけどとリゼルは苦笑した。

それなのに何故ピンと来なかったかといえば、その花を魔鳥が好む理由が分からなかったからだ。まさか綺麗だからという理由ではないだろう。

「もしかして食べるんですか?」

「その通りだ。魔力が含まれるからかは知らんが、他の花は見向きもしないのにコレだけは食う」

「へぇ」

リゼルは感心したように頷いて、触れていた花弁から指を離した。

とりあえず会計を済ませてくると歩いて行くナハスを見送り、さてとリゼルも周りを見渡す。月下花のように様々な効果を持つ植物が並べられていたり上から籠で吊るされたりしており、なかには知らないものも多くあった。

気になるけど、と思いながら目的であるスパイスを探す。あまり広く無い店内では、少し探せば目的のものが並べられている棚を発見出来た。

「えっと」

スパイスごとに小さな瓶に詰められているものもあれば、必要な種類が必要な分量で詰められているものもある。特にカレーという人々が頻繁に作るようなものであれば、そこらの屋台でも瓶詰めされたものが後は入れるだけの状態で売られていたりもする。

それでもリゼルがこの店を選んだのは単なる好奇心だ。折角だから色々なスパイスを見てみたい。

本に記載されていたスパイスの種類を思い出す。どうやらそれらは全て此処に並べられているようだった。

「(あ、でもカレー用もちゃんとある)」

少し大きめの瓶にカレーに必要なスパイスが詰められている。まるで地層のようなグラデーションが美しい。

それを手に取ろうと思い、しかし持ち上げかけた手を止める。そのまま悩むこと数十秒、支払いを終えたナハスが花束を片手に戻ってきた。

「どうした、何か分からないことでもあったか?」

「分からないというか、今夜カレーを作ってみようと思ってるんですけど」

ナハスはピクリと片眉を上げた。果たして目の前の男は料理など出来ただろうか。

パルテダールからアスタルニアへと向かう道中の野営では一度たりともしていない。しかしそれは客人であるリゼル達に料理をやらせる機会が無かったのもある。

友人であるとある宿主は何と言っていただろうか。いや宿で客が料理をする機会など無いこともあるし、好き嫌いが激しいから毎日レシピで悩むという話は聞いても目の前の男の料理の腕の話など聞いていない。

“人魚姫の洞”へと向かう時はどうだっただろうか。食料を買い込んでいなかったので料理に関する関心は薄いのだろう、そうなれば料理とは余り縁が無いのではないだろうか。

何より、目の前の男が料理している姿を全く想像が出来ない。

「……何を悩んでるんだ?」

「ほら、カレー用に作られてるスパイスってあるじゃないですか」

「ああ、これだな」

ナハスは棚を見て一つの瓶を手に取った。

一般的な家庭でカレーを作る際に使われるのがこれだ。もっともこの店に置かれているのは屋台で売られているものより品が良い為に幾らか割高だが。

「折角作るんだから、自分でスパイスを混ぜた方が手作りっぽくて良いかと思って」

「良し分かった、これを買え」

リゼルへと調合済みのカレー用スパイスをしっかり握らせる。

完全に料理をしない人間の言い分だ。自分でスパイスを配合してカレーを作るなど余程料理にこだわりがある慣れた人間か、手間をかけた方が絶対に美味いと意味もなく信じている全くの素人だけだろう。

リゼルは間違いなく後者だ。確かに手間をかけた分だけ料理は美味くなるかもしれないが、その言葉を使って良いのは料理に自信のある人間だけだとナハスは思っている。

「でも」

「プロが配分を計算して作ってるんだ、絶対に美味い」

真剣な顔で言い聞かせてくるナハスに、リゼルはそれもそうかと頷いた。

本にはスパイスの配分も書いてあったので自分でも出来るだろうと思ったが、それはまた別の機会でも良いだろう。スパイスに特化した品ぞろえの店のプロの配合ともなれば一度味わってみたいというのもある。

「そうですね、今回は他にも色々やることがあるし」

「色々……」

納得したように瓶を手に持ち支払いへと進むリゼルを見ながら、ナハスは難しい顔をして腕を組んだ。言い分を聞く限りかなりの素人、そんな彼がカレーを作ると言い一人で買い物に来ている。

もしや、と思いながらナハスは満足そうに買ったスパイスをポーチへと入れながら戻ってきたリゼルへと慎重に問いかけた。

「お前一人で作るのか?」

「え? はい。今日は宿主さんが夕方までいないそうなので、事後承諾になりますがキッチンを貸して貰おうと思ってます」

事後承諾とか言っているあたり完全に思い付きの行動だ。

「一刀達はどうしてる?」

「そうですね……ジルは朝から出掛けてるし、イレヴンは昨晩から帰ってないので分からなくて」

いかん完全に一人だ。そうナハスは内心で呟いて湧きあがる何か良く分からない衝動を抑え込んだ。

いやしかし一人でやろうと言うならそれなりの自信があるのかもしれない。一応見えずとも冒険者なんだから野営をしたこともあるだろうし、切って焼くことが出来ればカレーなど充分完成する。

そう心を落ち着かせ、ナハスは柔らかな笑みを浮かべた。

「そうか、頑張れよ。他に必要なものがあるなら良い店を教えてやるが」

「そうですか? 良かった」

安心したように微笑むリゼルに、ナハスが何事も練習あるのみだろうとうんうん頷く。

何事も挑戦するのは良いことだ。心配だからと止めてしまっては成長する機会を逃してしまう。

今は料理の腕を上げようと努力する男を応援するべきだろう。そう思いながらゴソゴソとポーチの中からレシピ本らしいものを取り出すリゼルを見守る。

「この本にはエプロンが必要って書いてあるのに、何処に売ってるのか分からなくて困ってたんです」

「うちの寄宿舎にあるやつを貸してやるしキッチンも貸してやるから来い」

応援してる場合じゃなかった。

エプロンを持っていない事がそれ程衝撃を与えただろうか、と考えながらリゼルはナハスと共に王宮へと向かっていた。彼は知らない、エプロンが必要なことを改めて確認している事実がナハスを追い詰めていることを。

しかし見ていてくれる人間がいるのは素直に有難いし、休日のナハスには悪いが頼ってしまおうと思いながら微笑んだ。並んで歩きながら二人は何てことない雑談に興じている。

「寄宿舎って魔鳥騎兵団のですよね。俺が入っても大丈夫なんですか?」

「ああ、別に俺達が生活してるだけの機密でも何でもない場所だからな。覚えてるかは分からないが、前に紹介した魔鳥の訓練場の隣にある建物だ」

「確か……円柱型の塔みたいな建物でしたっけ」

「そうだ」

良く覚えているなと感心しつつ、覚えていてどうするのかと少しの警戒がナハスの瞳に浮かぶ。

当然ながら気付いているリゼルだが、特に何も思いはしなかった。国を守る騎兵団としては当然の反応だし、それが此方への不信感へと繋がらないことも知っている。

代わりに、以前ちらりとだけ見た建物を思い出す。王宮と同じく白亜の、塔というほどに高くもないが似たような場所が確かにあった。

「騎兵団の方しかいないんですか?」

「ああ。王宮の真反対と海側に全く同じ寄宿舎があって、それぞれを歩兵団と海兵団が使っている」

その特殊さから騎兵団は人数が少ないにも拘らず他と同じ規模の寄宿舎を使えているようだ。

それは国を象徴する魔鳥騎兵団に入隊出来るのが選ばれた者達ということもあって優遇されていたりもするのだろう。階級による差別化は大事、と頷きながらリゼルは一つの屋台に目を付ける。

「ナハスさん、リンゴが売ってます。入れたら美味しくなるって書いてありました」

「お前にアレンジはまだ早い、我慢しろ」

素人のアレンジなど嫌な予感しかしない、ナハスはリンゴに未練を残すリゼルの背に手を当てて歩みを再開させる。促されるままに歩き出したリゼルは確かに基本は大切だと納得したように頷いた。

やはり根は素直だとナハスは仕方なさそうに笑い、必要の無くなった手をリゼルの背から離す。

「まぁ非番の奴らは大抵出掛けてるし、気にせず台所を使うと良い」

「皆さんは自炊ですか?」

「いや、王宮の中に広い食堂があるから其処に行く」

ちなみに食堂は基本的にはナハスのような兵達や使用人たちの為の場所なのだが、時折王族も平然と登場する。普通に入ってきて普通に食べて普通に出て行くので誰も気にしない。

そんな食堂も流石に二十四時間は開いていないので、夜勤などで食堂の開放時間外に何かを食べたい時に寄宿舎のキッチンは使われていた。そういった人間は多いので道具も揃っているしきちんと手入れもされている。

「ナハスさんは料理が上手そうですね」

「そうか? 普通だと思うが」

素でそう言うナハスだが、恐らく上手いのだろうとリゼルは半ば確信を持っている。

何せ今までの道中、カレーに必要な材料を買い込んでいる時でさえ彼は色々アドバイスをくれたのだ。この野菜は何処を見ろだの此方のが良いだのあっちの店の方が安いだのと、的確過ぎる助言はとても勉強になった。

リゼルも一応良い食材の見分け方なども勉強してきたのだが、実際に見てみると違いなどほぼ分からない。ナハスが両手で一つずつ持って「こっちのが重いな……」と言っていたので試してみたがやはり分からなかった。

「一緒にカレーを作って、食べ比べとかも面白いかもしれません」

「カレーばかりそんなに作ってどうする……」

楽しそうなリゼルに、ナハスは仕方なさそうに笑い花束を抱え直した。

非番である筈のナハスと共に王宮へと訪れたリゼルは、門番に二度見され魔鳥の訓練場にいる騎兵達に二度見され寄宿舎内にいる兵達に二度見されながらキッチンへと辿りついていた。

そしてナハスによって手渡されたネイビーの色のエプロンを装着し、さてと調理台へと向き合っている。台の上には来る途中で買い込んだ材料が並べられていた。

ちなみにその後ろではナハスが少し離れながらも腕を組みながらその後ろ姿を見守っている。取り敢えず問題無くエプロンを付けられたことに安堵している彼はリゼルのことを一体何だと思っているのか。

「まずは」

リゼルはもはや完全に覚えてしまっている本を取り出した。

内容は覚えているがその細かい図説まではそうはいかない。超初心者の為と銘打っているだけあって細かい図説により説明が描かれているのだから、見ながら進めない手は無い。

その本を見た瞬間にナハスが何か言いたげにしていたがリゼルは気付かなかった。

「“手を綺麗に洗いましょう”」

「(そこからか……!)」

ぱしゃぱしゃと念入りに手を洗うリゼルに、もはやナハスは不安しかない。

切って焼くぐらいは出来る、というのは希望的観測が過ぎた予想でしかなかったようだ。かなり低く見積もった料理の腕が、もはや料理の腕が存在するのかしないのか分からない範囲まで来ている。

もはやこの場を離れられないナハスを余所に、リゼルは至って平然と準備を進めていた。爪は整えた、髪は結んだ、エプロンも付けたし手も洗った。いよいよ料理開始だ。

「(まずタマネギの皮を剥いて……あ、先っぽを切り落として剥くって書いてある)」

タマネギの剥き方から載っている料理本など滅多に無いだろう、リゼルは理想の本を手に入れていた。大玉のタマネギを手に取り、まな板の上に置く。

器具はナハスが必要な分を出しておいてくれたので包丁も置いてあり、それを握りしめジッとタマネギを見下ろした。丸いタマネギは猫の手では太刀打ち出来ず、慎重に握りしめて狙った部分に包丁を押し当てる。

「(辛うじて切れてはいる……が、ひたすら怖い)」

キコキコキコとまるで鋸のようにタマネギの頭を切り落としていくリゼルにナハスは顔を引き攣らせた。果たしてこれは何度目の料理なのだろうか、一人で作ろうとしていたからには初めてという訳ではないのだろうが。

まさか二度目とも、しかも一度目はジャガイモを二個切っただけなのだとも知らないナハスは幸運なのか不運なのか。もし知っていたら確実にカレー作りは阻止されていた。

「(これで、皮を剥く)」

先程よりも捲りやすくなったタマネギの皮を、リゼルは順調に剥いていく。

茶色の表皮を剥き、次の一枚も剥き、そしてどこまでが皮なのか分からないままに剥いていく。本には茶色い皮は全部剥けと書いてあるが、果たして一部分だけ薄ら茶色いのは皮なのだろうか。

一応念には念を入れて多めに剥いておこうというリゼルに、とりあえず一人で出来る所までは見守ろうと決めているナハスは開きかける口を無理矢理閉じる。それは完全に身だと言えないもどかしさが辛い。

「(剥いたらまず半分に切って、千切り)」

以前ジャガイモを相手にした時もイレヴンは丸いまま切るなとやけに念を押していた。

でも確かに半分に切ってからの方がまな板の上で固定がしやすかったので、リゼルは本に倣ってタマネギを半分に切る。そして平らな面をまな板に置き、おもむろに左手を持ち上げ見つめ始めた。

一体何をしているのかと怪訝そうなナハスの視線を受けながらグーを作り、それを緩め、指を折りたたみ理想の形を作り上げる。そのままポスリとタマネギの上に乗せて固定をしてみればこれぞ猫の手、完璧だ。

「……にゃー」

「!!??」

満足感からか気付かず零された声にナハスは数十秒固まった。

「(うん、順調)……、あれ?」

トントンとはいかないものの、サクサクとそれなりに綺麗にタマネギは切れている。

しかしリゼルは知らなかった、タマネギを切るにあたって最大の障害が存在することを。それは防ぎようが無く誰にも平等に訪れる、それゆえに誰もが常識としてそれを語らない。

そしてついにツンと鼻の奥が痛むと同時に瞳が熱を持つ。滲む視界にリゼルは自分が涙を零しそうになっているのだと知った。

「ナハスさん、これって」

包丁を置き振り返る。一度瞬くと、瞳に留まっていた涙が一筋頬を伝った。

色々な衝撃に動きを止めていたナハスが急いで何とかしてやろうと足を踏み出しかけ、しかし目を見開き再び動きを止めそうになる。だがリゼルの手が持ち上げられ目に添えられようとしているのを見て、咄嗟に駆け寄りその手を掴んだ。

「おい、目を擦るな!」

「凄く目が痛いです」

涙を湛えた瞳が真っ直ぐに向けられる。ナハスは叱咤しかけた口を思わず閉じた。

目元でナハスに捕まえられた手から漂う残滓が未だリゼルの瞳を攻撃し、頬へと流れた涙が再びゆっくりとその瞳の中に溢れて行く。普段のナハスならば濡れたタオルを用意して目にあてさせたり手を洗わせたりなどしただろう。

しかし動けなかった。滲む瞳に視線が固定され、向けられる瞳に動きが縛られ、何とかしてやらなければという思いが湧きおこると同時に、見てはいけないものを見ているような抗いがたい光景に思考が奪われる。

「ッ」

スン、とリゼルが鼻を鳴らす音と同時に再び零れ落ちた涙に息を呑んだ。

ふいにリゼルの瞳が細められ、静かに閉じられる。名残のように目の縁に滲んだ涙は、しかし零れることはなく睫毛を濡らすだけだった。

「……ちょっと楽になってきました」

パチリと、今度はしっかりと開かれた瞳にナハスの意識はようやく現実へと引き戻された。

押さえていた手を離し、急いでタオルを濡らして目の前の穏やかな顔に押し付ける。何やらむぐむぐ言っていたが、ナハスは何やら色々なものを振り払わんとするようにグリグリと拭い続けた。

勢いの割に手付きは優しい。そのまま数秒、その内されるがままになっていたリゼルの顔からようやくタオルが剥がされる。

「ん、もう痛くないです」

「……良かったな」

少し目が赤くなっているものの、涙の名残を見せない顔にナハスは酷く脱力を感じながらも安堵する。何故これ程に安堵しているのかなど自分でも分からなかった。

「タマネギって凄いですね。主婦の方達がこんな痛みを抱えて料理してるなんて知りませんでした」

「まぁ慣れればそれ程は気にならんが。切る前に冷水につけておくと目に沁みにくいらしいぞ」

「それ、先に言って欲しかったです」

苦笑するリゼルに、まさかタマネギが目に来ることすら知らないとは思わなかったのだから仕方ないと内心で思う。

もはや後ろで見守ることすら出来ず、すぐ横でじっとその手元を監視していた。痛いなぁと再びその瞳に涙が浮かび始めるが、先程のようなショックを感じるより前に涙に阻まれた視界で動かされる手元が狂わないかどうかの方が恐ろしい。

「ほら、一度包丁を洗え」

「切ったものが邪魔ならザルにでも入れておくと良い」

「ほら、袖が下がってきてるぞ。貸してみろ」

見守る状態はすでに無く、遠慮無く口を挟むナハスにしかしリゼルは素直に従い何とか順調にタマネギを切り終える。タマネギのツンとした香りが染みつく手を綺麗に洗い、差し出された濡れタオルを酷使しきった目に当てようとした時だった。

大丈夫かと気遣うナハスに頷きながら台所の開きっぱなしの扉をふと見ると、身に付けた服装から恐らく魔鳥騎兵だろう一人が丁度その前を通るところだった。ふんふんと鼻歌を歌いながらあちらも何てことなしに此方を見て、直後もの凄い顔をしながらも足を止めずに通り過ぎて行く。

「……明日ナハスさんに、“冒険者を苛める魔鳥騎兵団”って噂がたつかもしれません」

「何だと!?」

通りがかった騎兵に気付かなかったのだろう。何故だと心底疑問に思っているナハスへほのほのと微笑みながら、リゼルは次はと本を確認する。

本の中ではジャガイモの調理が始まり、図解が事細かく皮を剥く手順を紹介していた。以前は皮ごと切っていたが成程、確かに普段食べているジャガイモはほとんどが皮を剥かれている。

料理とは手間がかかるものだ。それは知っていたし、だからこそ常に食事の際には感謝を絶やさないようにしていたが今改めてそれを再確認した。

「(皮むき……こう持って、包丁を……こんな感じかな)」

以前王都の宿の女将が、子供達に勉強を教える差し入れにと目の前でこうして果物を剥いてくれた。スルスルと切られた皮が伸びていたのだから上手くやるとああなるのだろう。

イメージトレーニングでは何も問題は無い。良し、と気合いを入れて指先に力を入れた時だった。

「皮むきはまだお前には難しいからな。ほら、剥いたやつだ」

ひょいと手に持つジャガイモが取り上げられ、既に剥かれたジャガイモが差し出される。

ナハスはリゼルが手を洗っている間にさっさと並べられていたジャガイモを剥いていた。もはやリゼルが皮むきを出来るとは微塵も思っていない。

リゼルは無言でそれを眺め、やがて少しばかり拗ねるようにナハスを見た。

「出来ます」

「無理だ」

「やりたいです」

「まだ早い」

しかしナハスは厳しい目を返す。

その手元では手早く人参の皮すら剥かれていた。リゼルが目指す理想的な手付きだ。素晴らしい。

じっと見ていると、やがてナハスは押されるようにグッと口元を引き絞った。リゼルはそれを見て勝利を確信し、にこりと笑う。

「一度だけで良いので」

「……少しだけだぞ」

ナハスは負けた。

そして付きっきりで指導された皮むきは、リゼルの想像上のスムーズさは発揮されずひたすらグググ……となった。ナハスの手元を見る限り簡単そうだったというのにとリゼルはいっそ感心した。

「(本の通りに進めてるお陰か何とかなってるな)」

うん、とナハスは頷いた。

技術が必要な部分は色々不安もあったが、カレーなどそれさえ過ぎてしまえば後は鍋にまとめればどうにでもなる。変なものも入れようとしないし、所々手間取っても手早さが必要な料理でも無いので問題は無い。

なにせ何があろうと慌てないのだから、いっそ手元を見なければ料理に慣れているようにも見えた。現実は灰汁をとるのに中身も一緒に掬い過ぎて中身を激減させているのだが。

「スパイスを入れる時は一旦火を止めるんだぞ」

「はい」

まあ多少とろみが強くなるだけだし問題は無いだろうと、そのまま口を挟む。

リゼルはそうだった、と火を消して買ったばかりのスパイスを投入した。意外にも勢い良くブッ込んでいる様子にナハスの顔が引きつる。

そして掻き混ぜ続けること数分、途中で余り掻き混ぜ過ぎるなと言われて鍋を放って雑談していたリゼルはそろそろかと座っていた椅子から立ち上がり鍋の蓋を開けた。もれなく火傷するなよと言われるのはもう慣れたものだ。

「これで完成、でしょうか。もう少し煮込んだ方が良いですか?」

「いや、宿に帰って温め直すんだろう。煮崩れするしそのくらいで良いと思うぞ」

成程、と頷いてリゼルは鍋のふちに掛けてあったお玉を手に取った。

料理と言えば味見だと思っている彼は当然のようにカレーを掬って口元に運ぶ。熱いだろうと慎重に一口含んでみれば、それなりに美味しいカレーに仕上がっていた。

満足そうに頷くリゼルにナハスは笑う。無事完成したなら何よりだ。

「どうする、鍋ごと持って行くか」

「あ、良いんですか?」

「ああ、鍋も幾つもあるしな」

気が向いた時に返してくれれば良いと言いながら、ナハスは何か袋があった筈だと台所を出て行く。流石にリゼルに鍋をそのまま持たせて街中を歩かせる気は無い。

それでも良いのにとは思うが、確かに鍋を持ったまま歩くのは奇妙かとリゼルは一度ぐるりと鍋を混ぜた。今日はジルもイレヴンも帰って来るだろうか、帰って来なかったら宿主に差し入れても良いかもしれない。

いやしかしカレーは一晩おくと美味しくなると書いてあるしと片手で本を持ち上げながら再び椅子に腰かけると、誰かが台所へと入ってきた。だるそうに頭を掻きながら足を踏み入れようとした騎兵は、リゼルの姿を見つけて「!?」と固まっている。

「こんにちは、お邪魔しています」

「ど、え、あぁ、どもッス……え!?」

騎兵は二度見を数度繰り返しながら水道へと向かい、本来の目的でもあり自分を落ち着ける為の水を飲み、そして数度二度見を繰り返しながらペコリと一度頭を下げて去って行った。

驚かせただろうか、と苦笑しながらそれを見送っていると入れ替わるようにナハスが戻って来る。

「待たせたな、耐熱の魔力布を使った袋があるからこれに入れて持ち帰ると良い……どうした?」

「いえ、今日は本当に助かりました。有難うございます」

「俺から言い出したことだ。気にするな」

リゼルは差し出されたカレー入りの袋を受け取りながらもう一度礼を言う。

恐らく自分一人でも料理は完成しただろうが、より時間がかかっただろうし本に書いていない部分は分からないままだっただろう。むしろタマネギの謎の攻撃に負けていたかもしれない。

アドバイスをくれる人間が近くに居るというのは非常に心強かった。

「今度何かお礼をさせて下さいね」

「気にするなと言ってるだろうに……まぁ良い、楽しみにしているぞ」

途中で通りがかった魔鳥に鍋をふんふんされながらもナハスに王宮の門まで見送りを受け、リゼルは宿へと帰って行った。

そろそろ夕食の時間かと、リゼルは本へと落としていた視線を上げる。窓の外を見ると海の方角に少しばかり夕日の名残が残っているが、空にはすっかりと星空が広がっていた。

宿主には既にカレーを渡しており、夕食の時におかずの一品にでもしてくれと言ってある。ついでだが鍋を渡した時の宿主は一瞬真顔になっていた。

リゼルは微笑み、椅子から立って部屋を出る。そして既に帰っている隣人の扉をノックした。

「ジル、良いですか?」

「どうした」

声をかけて数秒、部屋の扉が開く。

つい先程どこぞの迷宮から帰って来ていた彼は、シャワーも済んですっかり部屋着へと変わっていた。

「夕食、一緒に食べましょう」

ぴくりとジルは片眉を上げた。

普段は特に声をかけずとも誰かが食堂に行ったなと思えば全員降りて行く。なのでいちいち声をかけることは無いのだが、全く声をかけない事も無い。

それは夕食時に翌日の依頼について相談してしまえと思い付いた時や、最近ではリゼルの初釣りの成果を披露された時がそうだ。なのでギルドを覗きに行って何か気になる依頼でも見つけてきたか、どこぞで珍しい食材でも手に入れて宿主に任せたのかと一瞬考えたジルの前でリゼルが楽しそうに笑う。

「今日、俺の作ったカレーが出ますよ」

「はァ!?」

バンッとジルとは反対隣の扉が勢い良く開いてイレヴンが飛び出して来た。

そしてジルは取り敢えずリゼルの指が全て揃っているか確認した。

「それ何……一人で!?」

「いえ。最初は一人で作ろうと思ったんですけど、買い物中にあったナハスさんが手伝ってくれました」

「何で一人で作ろうとか思ってんの!? 前に俺らがいないトコですんなっつったじゃん!」

「了承はしてないです」

そういえば微笑んで済まされた気がする、とイレヴンは詰め寄りながらも口元を引き攣らせた。目の前の穏やかな男は嘘は吐かないが堂々と誤魔化すことはある。

そして非常に冷静に自分で出来ないと判断したことは一切しないが、出来るかもしれないと思えば自分に危険が無いことを前提に実行する事が多い。これが元からなのか、それとも抑圧された貴族生活から解放された反動なのかはジルにもイレヴンにも分からないが。

取り敢えず見るからに面倒見の良い男により最悪の事態は回避されたようだと、爪が少しも欠けていない指先を見てジルは呆れ半分に溜息をついた。

「カレーってことはリーダー皮むき出来たんスか」

「少しだけ。ほとんどナハスさんがやっちゃったので」

イレヴンによる尋問と言う名の雑談をしながら階段を下りる。

向かう先に待ち構える普通に美味しそうで実際に美味しいリゼル作のカレーを、ジル達はやはり基本的には器用な男なのだと思いながら残さず食べた。

その頃のナハス。

「ナハス、先生を泣かせたって、聞いたんだけど、ね」

「で、殿下、それは誤解で……」

ダンッ

「なに」

「(何故あいつがタマネギで泣いただけで俺が殿下に脅されるんだ……!)」

滅茶苦茶怖い壁ドンをされていた。