軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第11話 誰かが知っているから

「ええ。見せていただけるなら」

私は帳簿を閉じた。

「見ずに分かったふりをする方が、もっと向いておりませんもの」

そこで初めて、イルゼが小さく息をこぼした。

「……ご案内いたします」

その声は、まだ固い。

けれど最初のものとは、わずかに温度が違っていた。

消毒室へ入った瞬間、つんとした薬液の匂いがいっそう強くなった。

棚には洗浄布と薬液壺が並んでいる。

古い字で書かれたもの、新しい紙を後から貼り足したもの、量だけ記して中身の更新日が抜けているもの。きちんと整えてあるように見えるのに、よく見れば札の書き方が少しずつ違っていた。

「こちらで器具の洗浄と消毒をしております」

案内しながら、イルゼが淡々と説明する。

「病棟で使ったものは一度ここへ集め、状態を見て再利用できるものと廃棄するものを分けます。流行病の疑いがある時期は、ここが一番慌ただしくなります」

「記録はどなたが?」

「基本は担当者です。ですが忙しい時は後回しになりますので、あとで事務が拾って帳簿へ反映します」

「すべての担当者の分を?」

「……はい」

私は棚の札へ目を向けたまま、そっと息をついた。

現場が忙しすぎて、とても帳簿に詳細を書き込む暇などないのは理解できる。

だとしても、そんなやり方をしていたら、どれだけ優秀な事務がいたとしても、後からきれいに追いきるのは難しいはずだ。

次に通された備蓄庫は、ひんやりと乾いた空気に包まれていた。

包帯布、薬液、木箱に入った洗浄器具、補修用の部材。

物自体は並んでいる。足りていないようには見えない。棚卸し札と持ち出し記録を見比べると、やはりぴたりとは一致しなかった。

「こちらの薬液は、先月二度まとめて入っておりますのね」

「はい。流行病の広がりを見て、多めに確保した分です」

「では、この間の持ち出し記録は?」

「……病棟ごとに帳面が違いますので」

備蓄庫の担当だという年配の男が答えた。

こちらを歓迎していないようで、その声は固かった。

「こちらでは、出した数は記しております。ただ、その先でどの部屋へ渡ったかまでは、各部署で見ていただくことになります」

「各部署で」

「ええ。全部をここで追っていては回りません」

もっともな言い分だと思った。

実際、この人が一人でそこまで抱えれば、今度は備蓄庫の仕事そのものが滞るのだろう。

私は木箱の札を指先でなぞった。

「こちらの記録と、事務室の帳簿と、病棟側の使用記録を合わせて見れば、流れは追えますか?」

「……追えないということはありません」

「すぐには、追えないのですね」

「それは──」

男が口ごもる。

その代わりのように、イルゼがそっと補足してきた。

「分かっている者が見れば分かる、という状態です」

「分かっている者」

「ええ。どの部署がどういう書き方をするか、急ぎの時にどう省略されるか、どの記録が後回しになりやすいか。そういう癖を知っていれば、だいたいは拾えます」

「だいたい……、ですのね」

「……はい」

イルゼは、申し訳なさそうに頷いた。

だいたいで、ここまで回してきたのだろう。

数字そのものではなく、その裏にある情報のずれや乱れを、誰かが頭の中でつなぎながら。

それでは、どれほど慣れた人でも、いずれ追いきれなくなるはずだった。

──皆、限られた時間の中で、やれるだけの事はしているのだろう。

けれど、それが上手く回っていない。

だから情報が見える形で残らず、結局は分かっている人に頼る形になってしまっている……そういう事なのだろう。

院内をひと回りしたあと、私はもう一度事務室へ戻った。

机の上に、申請書、事務帳簿、備蓄庫の持ち出し記録、病棟側の使用控えを並べる。

見れば見るほど、数字の大きな破綻はない。

だが、ぴたりとも重ならない。

「……綺麗に整ってはいないのですわね」

思わずそう漏らすと、イルゼが苦い顔をした。

「はい。だから余計に厄介なのです」

「大きく狂ってはいない。けれど誰が見ても同じように追える形にはなっていない」

「おっしゃる通りです」

「それで、結局どなたが合わせていらっしゃるの?」

「……主には、私です」

イルゼは観念したように手を上げた。

「各部署から上がるものの癖も、急ぎで省いた記録も、ある程度は頭に入っておりますので」

「全部の部署を?」

「完璧にとは申しません。ただ、そうでもしなければ申請量をまとめきれません。このままでは破綻するとは思っていました。それでも、他にどうしようもなかったのです」

私は黙った。

「まさか帳簿の不備で、公爵家の方々に来ていただくことになるとは思わず……本当に申し訳ありませんでした」

イルゼが深々と頭を下げた。

とても責める気にはなれなかった。

話を聞く限り、誰か一人の落ち度でこうなったようには思えなかった。

むしろイルゼは、崩れかけた流れを最後までつなぎとめていた側なのだと思えた。

「……なるほど。足りないのは、物資ではありませんね」

私がそう言うと、二人とも顔を上げた。

「では、何が足りないと?」

ヴェルナー院長の問いに、私は机の上の書類へ目を落としたまま答えた。

「仕組みです」

「……仕組み?」

「ええ。急ぎの時に、どのようにすれば申請が散らばらないか、うまく回すための──誰が見ても辿れる形で残るようにする、そのための仕組みです」

そこで一度、言葉を切る。

「誰か一人が分かっているだけで回るやり方は、回っているのではありません」

「……」

「たまたま、まだ止まっていないだけですわ」

しんと、部屋が静まった。

遠くで扉の開く音がする。

誰かを呼ぶ声が廊下を走る。

この医療院は今も動いている。

けれど、その動きが人の善意と経験に寄りかかったままなら、いずれ限界が来る。

「では、どうなさるおつもりですか?」

「……今すぐ結論を出せる問題ではありませんね。けれど、このままでよいとは思いませんわ」

私は申請書を重ね、帳簿を閉じた。

「どこを揃えれば、皆さまの手間をこれ以上増やさずに済むのか。どこまでなら現場で無理なく残せるのか。まずはそこを考えます」

これからのことを考え始めた私に、イルゼが問う。

「……私を責めないんですか?」

「どうして責める必要が?」

不思議そうなイルゼを、私は真っ直ぐ見返した。

「ここまで崩れずに済んでいたのは、イルゼさんのおかげですわ。感謝こそしても、責めるなんて恥知らずなことできるはずがありません」

イルゼは真意を探るように私を見ていたが、やがて「……お言葉、痛み入ります」と小さく頭を下げた。

わずかな沈黙が広がる。

「なるほど、公爵様が頼りにされる理由が少し分かった気がいたします」

ヴェルナー院長が、しみじみとそんなことを呟いた。

「……へ?」

「人を責める前に、どこが歪んでいるかを見る。なかなかできることではありますまい」

予想外の言葉に、私は思わず目を瞬いた。

けれどヴェルナー院長は、それ以上何も言わずに静かに頷いていた。

事務室を出る前に、もう一度だけ私は棚の札と帳簿を見た。

今はまだ、継ぎ接ぎのまま何とか成り立っている。

けれど見てしまった以上、なかったことにはできない。

廊下へ出ると、窓から差し込む夕方の光が白い床へ細く伸びていた。

来た時より足取りは重い。

けれど、何を重いと感じているのかは、もう分かっていた。

──医療院が抱えている問題は見えた。

次は、この状況をどう変えていくかを考える番だ。