作品タイトル不明
第二十三話 兄の謝罪
黒い荷札の証拠を王宮へ送って三日後、兄アルベルトが白楡館へ来た。
公爵家の馬車ではなく、普通の二頭立ての馬車だった。供も少ない。兄は旅塵のついた外套を脱ぎ、玄関広間で深く頭を下げた。
「リディア。急に来てすまない」
「お兄様が急なのは珍しいですね」
「父上には、明日出ると言った」
「それは急ではなく、家出に近いのでは」
思わずそう返すと、兄は少しだけ笑った。
公爵邸にいたころ、私たちはこんな軽口をほとんど交わさなかった。兄は優秀な跡取りで、私は王太子妃候補で、二人とも家の中で役目を着ていた。
白楡館の小食堂へ案内すると、兄は古い椅子に慎重に腰を下ろした。
「良い匂いがする」
「台所でマルタがパンを焼いています」
「公爵邸より、腹が鳴りそうだ」
兄がそんなことを言うのも珍しかった。
◇
兄が来た理由は、前代理人の件だった。
公爵家で保管していた書類をさらに調べたところ、ボルマン商会との取引に公爵家の古い印が使われているものが見つかったという。
「父上の直接の署名ではない。だが、代理印の管理が甘かった。前代理人は、それを利用した可能性が高い」
「お父様は」
「怒っている。商会に対しても、前代理人に対しても、そして自分の監督不行き届きを突きつけられたことにも」
私は苦笑した。
「最後が一番お怒りでしょうね」
「否定できない」
兄は持ってきた書類を机に並べた。
セドリック様も同席している。兄は彼に礼を述べ、証人としての協力に感謝した。二人の会話は短く、実務的だったが、互いに相手を軽んじていないことが分かる。
書類の確認が一段落したところで、兄は私へ向き直った。
「リディア」
「はい」
「謝らせてほしい」
私は手を止めた。
兄は、逃げずに私を見ていた。
「お前がどれほど家のために働いていたか、私は分かっているつもりだった。だが、分かっていなかった。お前が苦しいと口にしなかったからではなく、私が聞こうとしなかった」
部屋の外で、台所の音がする。
パンを出す音、誰かの笑い声、薪が爆ぜる音。その生活の音の中で、兄の謝罪は静かに届いた。
「私も、苦しいと言いませんでした」
「それでも、気づくべきだった」
兄は深く頭を下げた。
「すまなかった」
許す、という言葉はすぐには出なかった。
謝罪を求めていたはずなのに、実際に差し出されると、どう扱えばいいのか分からない。
「すぐに全部許せるわけではありません」
「分かっている」
「でも、謝ってくれたことは受け取ります」
兄はゆっくり顔を上げた。
その表情は、少しだけ安堵していた。
◇
午後、兄を温室へ案内した。
修繕された硝子の一部は、アシュフォードから譲られた古い窓だ。透明度は揃っていないが、光は十分に入る。苗床には小さな芽が並び、ノエが水の量を記録していた。
「これが母上の庭か」
兄は低く言った。
「お兄様は覚えていないのですか」
「私は公爵邸に残ることが多かった。父上について回っていたから」
「そうでしたね」
私たちは、同じ母を持ちながら、違う記憶を持っていた。
兄は薬草帳を手に取り、母の文字をしばらく見つめる。
「母上は、ここでこんなことをしていたのか」
「私も最近知りました」
「父上は、なぜ話さなかったのだろう」
その問いに、私は答えられなかった。
父にとって、母は公爵夫人だった。ミレイユで笑い、薬草を育て、村人の名を書いていた女性ではなく。父もまた、見たい役目だけを見ていたのかもしれない。
「お兄様」
「何だ」
「フローラを、守ってください」
兄は静かにこちらを見た。
「私の代わりに、という意味ではありません。お兄様として」
「分かっている」
「本当に?」
兄は苦笑した。
「最近、その問いをよく自分にしている。本当に分かっているのか、と」
「良いことだと思います」
「痛いがな」
兄の言葉に、私は少し笑った。
◇
夕食は小食堂で取った。
兄は最初、使用人たちと同じ台所近くの食卓に戸惑っていたが、マルタの豆の煮込みを食べると表情を変えた。
「うまい」
マルタは満足げに胸を張った。
「王都の立派な料理には負けますけどね」
「いや、こちらの方が腹に残る」
兄は本気で言ったらしく、マルタは照れたように笑った。
食後、兄は白楡館に一泊することになった。客間はまだ完全ではないが、雨漏りはしない。エリーズが用意した部屋を見て、兄は小さく言った。
「ここは、リディアの場所だな」
「はい」
私は迷わず答えた。
兄は頷いた。
「父上にも、そう伝える」
「怒られますよ」
「慣れる必要がある。私も、父上も」
その夜、私は兄から預かった追加資料を台帳に綴じた。
公爵家は、私を縛る場所だけではなくなりつつある。少なくとも、兄との間には細い橋がかかり始めた。
壊れた橋は、直せるものもある。
ただし、直すかどうかは、渡る人が決めるのだ。