作品タイトル不明
第二十話 妹は笑えなくなった
フローラが「全部はできません」と言った日から、王宮の空気は少し変わった。
表向きは穏やかだった。王妃は課題を整理し、礼法教師は予定を組み直し、侍女たちはフローラの休息時間を確保した。
けれど、ローウェン公爵はそれを不満に思った。
「王太子妃になる者が、最初から弱音を吐くとは」
面会に来た父は、王宮の控室でそう言った。
フローラは膝の上で手を握りしめた。以前なら、父の言葉にすぐ謝っただろう。今も謝りたい気持ちはある。けれど、姉への手紙に書いた自分の言葉を思い出す。
倒れる前に言う。
私は私の言い方で言う。
「お父様。弱音ではありません。できるようにするための調整です」
「それはリディアの受け売りか」
「いいえ。私が言いました」
父の眉が動く。
「お前まで、あの子のように」
あの子。
姉の名前を呼ばない父の声に、フローラは胸が痛んだ。
「お姉様は、私の代わりではありません」
「何?」
「私も、お姉様の代わりではありません」
言った瞬間、足が震えた。
父は怒ると思った。実際、顔は険しくなった。けれど、部屋にいた王妃付きの女官が静かに一歩進み、二人の間に茶を置いた。
王妃の部屋で怒鳴ることはできない。
父はそのことを思い出し、唇を結んだ。
◇
ユリウスは、廊下でそのやり取りの一部を聞いていた。
立ち聞きするつもりではなかった。だが、フローラの声がいつもよりはっきりしていたので、足が止まった。
私も、お姉様の代わりではありません。
その言葉は、ユリウスの胸にも刺さった。
彼は、リディアの隣で息が詰まると思っていた。正しさで囲まれ、いつも自分が足りないと責められている気がした。ミリアのそばでは楽だった。笑えば許され、疲れたと言えば慰められる。
それは確かに心地よかった。
けれど、王太子の仕事は慰めだけでは進まない。
リディアがいなくなってから、書類の確認は遅れ、母の機嫌は悪くなり、父王からも小言が増えた。フローラは懸命だが、まだ追いつかない。ミリアは優しいが、政治の場では黙る。
ユリウスは初めて、自分がリディアに何を求めていたのかを考えた。
愛ではなかったのかもしれない。
便利な正しさ。
失敗する前に差し出される答え。
そして、それを息苦しいと呼んで遠ざけた。
「殿下」
ミリアが廊下の向こうから来た。
「こちらにいらしたのですね。お茶の時間ですよ」
「ああ」
ユリウスは微笑もうとしたが、うまくできなかった。
ミリアは不安そうに首を傾げる。
「どうかなさいましたか」
「少し、考え事を」
「またリディア様のことですか」
声に、かすかな棘があった。
ユリウスは彼女を見た。
ミリアはすぐに悲しそうな顔を作る。
「ごめんなさい。私、意地悪な言い方をしました」
以前なら、その謝罪だけで十分だった。彼女を傷つけたくないと思い、考えるのをやめた。
だが今日は、立ち止まった。
「ミリア。君は、慈善基金の配分表を見たか」
「配分表、ですか」
「ああ。次の音楽会の」
「難しいものは、私にはまだ。ユリウス様のおそばで、皆様のお心を和ませる方が私には合っています」
それは彼女の本音なのだろう。
責めることではない。誰もが政務を得意なわけではない。
ただ、王太子妃の座を望むなら、それだけでは足りない。
その当たり前のことを、ユリウスは今まで見ないようにしていた。
◇
夜、フローラは自室で泣いた。
父に言い返した緊張が切れたのだ。強くなったわけではない。ただ、一度だけ声を出せただけ。その後、体は震え、夕食もあまり入らなかった。
侍女が心配して温かいミルクを置いてくれた。
「フローラ様、無理をなさいませんように」
「無理をしない練習が、一番難しいのね」
フローラは笑おうとして、笑えなかった。
以前の彼女は、笑うことなら得意だった。
父が褒めれば笑う。兄が忙しそうなら邪魔をしないよう笑う。姉が疲れていても、甘えれば何とかしてくれると信じて笑う。社交界では、白百合のようだと言われて笑った。
けれど今、その笑みはうまく出てこない。
笑えなくなったのは、不幸なのだろうか。
フローラにはまだ分からない。
ただ、笑わずにいる自分を、少しだけ嫌いではないと思った。
机に向かい、姉へ手紙を書く。
お姉様。
今日はお父様に、私はお姉様の代わりではありませんと言いました。怖かったです。言った後、泣きました。今も泣いています。
でも、言ってよかったと思います。
王妃様は何もおっしゃいませんでしたが、女官の方が温かいお茶をくださいました。助けてくれる人は、立場ではなく行動で選ぶのだと、また思いました。
お姉様、笑えない日は、どうしたらいいですか。
書いてから、フローラは少し考えた。
姉なら、きっと「寝なさい」と言う。
だから彼女は、手紙の最後にこう足した。
お返事は急ぎません。今日はもう寝ます。
封をして、灯りを消す。
暗い部屋の中で、フローラは初めて、自分の呼吸の音を聞いた。