軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 エンザイア卿の城(後編)

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あれは、妖魔だ。

そうに違いない。

バルドはそう思った。

筋金入りの現実主義者であるバルドだが、妖魔という神秘的な生き物の存在は信じている。

ほかでもないエルゼラ・テルシアが、妖魔と会ったことがある、と言ったからだ。

エルゼラは、三代前のパクラ領主で、バルドの二人目の師匠にして生涯の恩人だ。

不確かなことを言う人ではない。

エルゼラは言っていた。

「妖魔は人には見えん。

妖魔の体のほとんどは、この世でない別の所にあるからじゃ。

じゃが、妖魔が人間に強く怒ったり、逆に仲良くなったりしたら、この世に体が引き寄せられ、姿が見えるようになる」

さきほど出遭った妖魔はどうか。

古代剣の力を借りて、かすかにその姿を見ることができたが、古代剣がなければ見えなかったろう。

実際、ゴドン・ザルコスには、最後まで妖魔の姿は見えなかったそうだ。

ということは、あの妖魔は敵意を持ってはいなかったということか。

それなのにバルドを殺そうとしたのか。

あの幻覚は妖魔のせいに違いない。

だが、崖の上の道をゆがめて見せて転落するように仕向けるというのは、ひどく人間臭い振る舞いだ。

ここ一年少々で、エンザイア家の重臣が次々奇怪な死を遂げているというが、それも妖魔のしわざと思われる。

しかし、重臣かどうかなどは人間の価値観であり、妖魔がそんな区別をつけるものだろうか。

どうもよく分からない。

ここで起きていることは、何もかもがちぐはぐだ。

部屋で思案していると、お供のかたが到着しましたという知らせがあった。

ジュルチャガが到着したようだ。

うまいときに来てくれた、とバルドは思い、招き入れて事情を説明した。

「うーん。

だいたい分かった。

おいらの勘じゃあ、まずはこの城だな。

この城をちゃんと調べたら、いろいろ出てきそーな気がする」

この城では、許された場所以外に足を踏み入れないよういわれているし、見張りが妙に厳重だ。

だが、ジュルチャガなら、うまく調べてくれるだろう、とバルドは思った。

8

「ゴドン・ザルコス殿はあいにくでしたな」

くつわを並べて馬を歩ませながらエンザイア卿が言った。

バルドは、ザルコス卿は頑健なたちで、こんなことは珍しいのです、と答えた。

ジュルチャガが到着した日、つまりバルドとゴドンが妖魔に襲われた日の夜、エンザイア卿から伝言があった。

明日、白羅王を退治するので、見物に同行されよ、ということだった。

バルドはゴドンに病気のふりをさせて城に残した。

その看病ということでジュルチャガも残した。

騎士や兵士の大方が白羅王退治に同行するのだから、ジュルチャガは悠々と城内を探索できる。

「ここが、あのいまいましい化け物馬の墓場になる」

エンザイア卿の横で崖の下を見下ろし、なるほどのう、とバルドは思った。

そこは両側が切り立った崖になっており、先は行き止まりだ。

誘い込んで入り口を封じれば逃げようがない。

「ローエン卿。

今回の荷駄襲撃で、わしも堪忍袋の緒が切れた。

家臣が次々奇怪な死を遂げたのも、やつの呪いに違いない。

今日こそは息の根を止めてくれるわ」

エンザイア卿が本気なのは、見るからに明らかだ。

崖の上には岩が積み上げられ、大勢の人足が指示を待っている。

谷底には大量の灌木が積み上げられている。

二十個ほどの油樽も置かれている。

油は辺境ではごく貴重なものだ。

大量の矢と火矢も用意されている。

ずいぶん奮発したものだ。

しかし、ここは城から近すぎる。

いかにも封殺に向いた地形であるのも気になる。

賢いと評判の白羅王が、こんな所にみすみすおびき寄せられるとは思えない。

そのことを言うと、エンザイア卿は、笑いで顔をゆがめた。

「いや。

やつはきっと来る。

あれを見られよ」

一匹の若い馬が引き出されて、谷底の杭につながれた。

ひどいつなぎ方だ。

一本の杭には後ろ足二本が、一本の杭には前足二本が、念入りにくくりつけられたのだ。

作業をすませた兵たちは、一人を残して縄ばしごで崖の上に上ってきた。

ただ一人残った兵士は、 鞭(むち) を取り出した。

処刑用の鞭を。

まさか!

とバルドは思ったが、そのまさかだった。

「ジャゴスよ。

打てっ」

とエンザイア卿が強い声で命じた。

ジャゴスという名の兵士は馬を鞭でしたたかに打ち据えた。

若い馬は悲しげな悲鳴を上げた。

その毛色は灰色がかった白で、どことなく白羅王を思わせるものがある。

「あれは、白羅王の子じゃ。

もともとは、あれをつかまえて、おとりにして、白羅王の妻をとらえたのじゃ。

わが妻の乗馬にするためにのう。

じゃが、白羅王の妻というのはとんでもないじゃじゃ馬で、妻を振り落としてけがをさせおった。

むろん、すぐに殺した。

それからというもの、白羅王が悪さをするようになった。

やつは悪魔のように耳がよい。

必ず自分の娘の悲鳴を聞きつけるであろうよ。

ジャゴスよ。

続けて打てっ。

打てっ、打てっ、打てっ!」

と命じるエンザイア卿の顔こそが悪魔だった。

騎士は野生の馬を愛するものだ。

よい馬がいれば捕まえて乗馬とする。

飼い慣らされた馬は生命力が弱るものだから、時々は野生馬の血を入れてやらねばならない。

元気のよい野生馬が走り回る領地は、騎士にとってあこがれといってよい。

このような仕打ちができる者は、もはや騎士ではあり得ない。

バルドは途切れず続く鞭の音と馬の悲鳴に耐えかねて、エンザイア卿をいさめようと口を開きかけた。

そのとき、強く太い馬の足音が聞こえた。

白羅王が来たのだ。

すさまじい勢いだ。

群れの馬はいない。

ただ一頭だ。

あの勢いでは、ついてくることはできなかったろう。

「落とせ!」

エンザイア卿が、激しく命じた。

用意された岩が落とされ、谷の入り口を埋めて行く。

白羅王は、落ちる岩に目もくれず、つながれた若い馬のもとに走っていく。

「ジャゴスよ。

切れ!」

エンザイア卿の命を受けて、ただ一人谷に残った兵士が大きく反り返った刀を振り上げた。

まさか。

まさか。

刀は容赦なく振り下ろされ、若駒の首を切り落とした。

白羅王は叫び声を上げた。

慟哭そのものといってよい、悲しみと怒りに満ちた叫び声だ。

馬は賢い。

今目の前で何が起きたのか、それが誰のせいなのか、白羅王は人間と同じほどに理解している。

白羅王の嘆きの声は、バルドの胸を激しく揺さぶった。

いつの間にかバルド自身が、白羅王と同じように慟哭の叫びを発していた。

そのため、気付くのが少し遅れた。

エンザイア卿の兵士二名が、渾身の力を込め、槍でバルドの乗馬の尻を突いたのだ。

栗毛の馬は悲鳴を上げて飛び出し、崖の下へと落ちた。

落ちる瞬間振り返って、何が起きたのかをバルドは知った。

不思議なことに、刹那といってよいその瞬間に、バルドはエンザイア卿の表情をはっきりと見た。

愉悦の表情でバルドの死を見つめる顔を。

バルドを乗せて落下しながら、栗毛の馬は体をひねった。

そして崖の斜面を前足で掻いた。

がりがりと、何度も。

バルドは必死で馬にしがみついた。

すぐに落下の衝撃がやってきた。

吹き飛ばされるように馬と引き離され、背中から地面に激突した。

普通なら死んでいた。

だが、バルドの装備は頑強な川熊の魔獣から作られたものであり、背中には革の内側に毛と腹皮を使ったクッションが貼り付けてあった。

バルドは起き上がり、栗毛の馬に駆け寄った。

死んでいた。

首の骨が折れていた。

前足のひづめは両方とも血だらけで裂けている。

少しでも落ちる速度を緩めようと、蹄で必死に崖を掻いたからだ。

後ろ足は二本とも、あり得ない形で曲がりつぶれている。

おそらくこの馬は。

着地するとき、大きく後ろ足を下に伸ばしたのだ。

少しでもバルドへの衝撃が少なくなるように。

そして着地のあと、その反動で岩に首を打ち付けて死んだ。

無残な死体にすがりついて、バルドは泣いた。

おおおお、おおおお、と声を上げて泣いた。

涙を流しながら泣くなど何年ぶりか。

だが涙を止めることはできなかった。

「バルド・ローエン!」

それはエンザイア卿の声だった。

バルドは立ち上がり、崖下から上を見上げた。

「このいまいましい間者めがっ。

どこの家に頼まれた?

ランデルボア家か。

マリグル家か。

わしの正体は分かったか?

だが、それをどこにも報告することはできん。

貴様は今ここで死ぬのだからな。

ゴドン・ザルコスも今頃は死んでおるさ。

燃やせ!」

エンザイア卿の命を受けて火矢が放たれた。

その狙いは大量に積み上げられた灌木であり、距離を置いて並べられている油樽である。

このままでは、矢に射られながら焼け死ぬしかない。

見れば、ジャゴスという名の兵士は、縄ばしごをのぼりかけて、頭を踏みつぶされていた。

その前に白羅王が立って、憎しみに燃える目で、崖の上のエンザイア卿をにらみつけている。

白羅王が、バルドを見た。

バルドも、白羅王を見た。

不思議なことだが、このとき、バルドは白羅王が何を考えているか分かる気がした。

白羅王が駆けてきた。

まっすぐバルドに向かって。

バルドはまったくよけようとしない。

白羅王が姿勢を低くした。

バルドはその首にすがりつき、白羅王が方向転換をした反動を利用して背に乗った。

走る。

走る。

素晴らしい速度で白羅王が走る。

火矢が降り注ぐ谷を駆け抜けていく。

前方では転がり落とされた岩が道をふさいでいる。

その手前で白羅王は反転した。

そうじゃ。

それでよい。

そこは上れそうで上ることができん。

そこを駆け上がれば岩が崩れてつぶされる。

そうでのうても、そこは矢に狙い撃ちされる位置じゃ。

とバルドは思った。

この状況に活路があるとすれば、それはただ一つ。

その思いをくみ取ったかのように、白羅王は谷の切れ目に向かう。

速く、なお速く。

左右の灌木が燃え上がるのを目の端にとらえながら。

加速を重ねて行き止まりに向かう。

後ろで油樽が次々に破裂して炎と黒煙を吹き上げている。

白羅王は、切れ目の終点に到達し。

そして。

あまりにも急なその斜面を駆け上り始めた。

切り立った断崖であり、最上部は垂直に近いその斜面を、魔法のように白羅王は駆けた。

一瞬あぜんとした兵たちは、狂ったように矢を射てきた。

しかし、谷から吹き上がる風にあおられ、矢は勢いを失いあちらこちらに吹き流されてゆく。

たまさか当たるひょろひょろ矢など、白羅王とバルドをいささかもひるませることはできない。

そしてついに白羅王は断崖を登り切り、高く高く崖上に跳び上がった。

宙を飛んで降り立った場所は、エンザイア卿の真正面である。

エンザイア卿が剣を抜いて白羅王に切り付けようとした。

振り上げたその右手首をバルドの古代剣が打ち据え、エンザイア卿は剣を取り落とした。

白羅王は、大きな口を開き、エンザイア卿の頭部をくわえ、馬首をひねって谷に向かって放り投げた。

首の骨の折れる音が聞こえた。

重そうな鎧を着けたまま、エンザイア卿の体が宙に浮き、バルドの目の前を通り過ぎる。

バルドは、甘い腐臭を嗅いだような気がした。

エンザイア卿の体は放り出された勢いのまま崖を飛び出し、燃えさかる谷底に落ちていった。

灌木の上に落ちて火の粉をあげ、そのまま動かない。

続けざまに何個かの油樽がはじけ、舞い上がった炎と黒煙がエンザイア卿の死体を覆った。

バルドは、襲い掛かってくるであろう兵たちを迎え撃つため、振り返った。

兵たちは凍り付いたように動かない。

兵の半ばは谷に落ちたあるじのほうを見ている。

半ばは、城の方角からやってきた一団を見ている。

殿だ、本物のご領主様だ、という兵たちのざわめきが聞こえる。

先頭にいる髪とひげをぼうぼうに伸ばした騎士は、どことなくエンザイア卿に似ている。

いや。

どうもこちらが本当のエンザイア卿であるらしい。

周囲の兵たちから殺気が消えていく。

バルドも白羅王も、死なずに済むようだ。

9

バルドは白羅王の背に揺られている。

いや、もう白羅王ではない。

なぜか白羅王はバルドから離れないので、鞍をもらって乗せてみた。

嫌がりもせず鞍を着け、白羅王はバルドの手綱に従った。

どうやら白羅王も放浪の旅に出たい気分だったようだ。

となると、白羅王という名はひどすぎる。

何かよい名はないかとバルドは考え、水を泳ぐ魚のように草むらを疾走する姿を思い出した。

そこで、この白馬に 月魚(ユエイタン) という名を与えた。

城に残ったジュルチャガは、さっそくその能力を発揮し、地下牢の存在を突き止めた。

そこには二人の囚われ人がいた。

一人は、本物のエンザイア卿だ。

偽物は弟だった。

領主である兄を幽閉し、成り代わったのだ。

弟に従う家臣もいたが、逆らう者のほうが多かった。

逆らう家臣のある者は殺し、ある者は兄を人質にして従わせた。

地下牢は頑丈で、鍵のありかは偽のエンザイア卿しか知らない。

心ある家臣は、憤りを抑えながら、時を待っていたのだ。

ジュルチャガは、もともと名うての盗賊であり、この地下牢の鍵は彼にいわせれば「ちょろい代物」だった。

見張りたちに一服盛ってしびれさすと、いともあっさりエンザイア卿を解放したのだ。

たちまち、城はエンザイア卿の手に取り戻された。

偽のエンザイア卿が放った刺客に襲われたが、ゴドン・ザルコスがたたき伏せた。

エンザイア卿は、恩人である三人をもてなしたいと申し出たが、バルドは、

エンザイア卿は幽閉により損なわれた健康を取り戻されねばならんでしょう。

また、城と領内には、やらねばならん後始末も多いことでしょう。

私どもは、このまま旅に出ることにいたしますわい。

と、早々に城を後にしたのだった。

だが、急な旅立ちの本当の理由は、二人目の虜囚にあった。

その人物は、今、バルドの前にちょこんと座っている。

長い耳。

土色の肌。

緑の複眼。

小柄な体。

木の枝のような腕と指。

ルジュラ=ティアントの子どもだ。

ルジュラ=ティアントは、亜人の中でも特に神秘的な一族だ。

数も少なく、人を避けるので、めったに会うことはない。

ルジュラ=ティアントは妖術で人を惑わし殺す、ともいわれる。

恐れられ、忌み嫌われる亜人なのだ。

地下牢でルジュラ=ティアントを発見したジュルチャガは、さっさと城から連れ出して森に隠した。

それを知ったバルドは、早々に城を辞し、ジュルチャガにこの亜人を迎えに行かせたのである。

ジュルチャガに、なぜこんなことをしたのかと訊くと、

「なぜって。

あのままにしといたら殺されちゃうじゃん」

と答えた。

この男には、弱い者を憐れむ心があるのう、と思った。

城からじゅうぶんに離れてから、バルドはルジュラ=ティアントの子どもと話をした。

まず、名前を聞いた。

すると、ルジュラ=ティアントの子どもは、

「ぼく、モウラ」

と答えた。

人間の言葉が分かるのはありがたかった。

「これ、スィ」

モウラが言葉を続けると、空中に白い影がぼうっと浮かび上がった。

「うおおっ。

よ、妖魔かっ?」

とゴドン・ザルコスが驚いているが、バルドもジュルチャガも驚いていない。

バルドが驚かないのは最初から見えていたからだが、ジュルチャガもそうなのだろうか。

「スィ、妖魔違う。

精霊」

妖魔と精霊は違うらしい。

モウラによれば、人間にかじられた精霊が妖魔になるらしい。

どうやったら精霊をかじれるのか、よく分からないが。

北東のほうにルジュラ=ティアントの集落があるらしい。

好奇心のままずっと南に出てきたところをエンザイア卿の弟に捕まった。

弟はモウラを閉じ込め、脅して言うことを聞かせ、兄を陥れて幽閉して成り代わり、邪魔な家臣を殺した。

もっとも、偽のエンザイア卿は、モウラ自身に幻影を見せる力があるのだと思っていたようだ。

実際には、モウラが友人である精霊のスィに頼んで幻を生み出していたのだが。

モウラは仲間の所に帰りたいというので、送っていくことにした。

急ぐ旅ではないのだ。

モウラをユエイタンの背に乗せ、手綱を握る手で抱えるようにしながら、いろいろ話をした。

話をしながら、バルドは自分の心の動きをいぶかしんだ。

いくら脅されてのこととはいえ、この亜人と精霊は、十人以上の人間を謀殺したのだ。

バルド自身とゴドンも殺されるところだった。

なのに、憎しみも恐れも湧いてこない。

以前のバルドなら、モウラとスィの罪を憎み、報いを受けさせねばならないと考えただろう。

旅に出てから、いろんなこだわりが洗い流されているような気がする。

魔の化身ともいわれるルジュラ=ティアントを馬に乗せて、魔そのものである妖魔を間近にしながら歩を進めているのだが、何の嫌悪感もない。

気持ちのよい歩みだ。

あのエンザイア卿の城で感じたえたいの知れぬおぞましさは、この二人のせいではなかった。

「エンザイア卿と奥さんには子どもいるよ。

五歳ぐらいの男の子。

奥さんの実家はプレゼアル家っていって、西のほうにあるんだって。

そこに預けてあるらしいよ」

「おお、そうか。

奥方の実家も、エンザイア卿のことは心配だったろうな。

妙な噂が飛び交うし、主立った家臣が次々死んだのだからのう」

ジュルチャガとゴドンの会話に、そうではないかもしれんぞ、とバルドは口を挟んだ。

エンザイア卿の城で起きていたことは、全体にちぐはぐすぎる。

見た目通りのものとは思えない。

本当に首謀者はエンザイア卿の弟だったのか。

そうだったとすれば、やり方が中途半端だし、自領の力を弱め、破滅する道を歩んでいたようにみえる。

跡継ぎを何年も奥方の実家に預けたままというのも、いかにも妙だ。

そのプレゼアル家は、事態をまったく知らなかったとは思えないのに、なぜ放置していたのか。

そもそも、あの奥方は、女主人として実に堂々と思いのままに振る舞っていたようにみえた。

夫を人質に取られ無理矢理言うことを聞かされている態度ではなかった。

今日にもプレゼアル家が軍勢を派遣し、混乱を治めるためと称してエンザイア卿とその城を制圧し、跡継ぎの少年を押し立ててこの領土をわが物としたとしても、わしは驚かんのう。

そうバルドが言うと、

「むむむむむ」

とゴドンはうなり、

「貴族、こええっ」

とジュルチャガは首をすくめた。

そして、厄払い、厄払いと言いながら背中の荷袋から瓶を取り出すと、中身を飲んで、

「う、うめ−。

すげーうめー」

とはしゃいだ。

「それは何じゃ?」

というゴドンの問いに、

「あ、焼き酒だよ。

エンザイア卿の旦那がくれたんだ。

飲む?」

「おお、そうか。

うむ!

これはうまいなっ。

極上の焼き酒じゃ」

素直にジュルチャガの言葉を信じたらしいゴドンに、そんなわけがあるか、ジュルチャガめ、 盗(や) りおったな、とバルドはあきれたが、口には出さなかった。

その代わり、馬を寄せてゴドンに近づくと、瓶を取り上げた。

紋章を焼き付けた瓶である。

大陸中央の国で作られた相当の高級品ということだ。

ぐいっ、とあおった。

蒸留酒特有の強い刺激が喉を燃やした。

舌も口内も、ぴりぴりと焼けた。

と同時に、なんともまろやかで深みのあるこくを感じた。

ふうと息を吐けば、 燻(いぶ) したような独特の香りが鼻孔を快く通り抜ける。

結局、栗毛の馬の名は知らないままだった。

ザルコス家で育てた馬なのだが、ゴドンも名を知らなかった。

わしはいつも良い馬に恵まれるのう。

バルドは、せめて 御霊(みたま) よ安らかなれ、と念じながら、もう一度瓶の酒を飲んだ。

今度はじっくり口の中で味わった。

複雑な味だ。

年を経て、あくや渋みや苦みが降り積もり、透明な酒を琥珀色に変える。

酒は、おのれを染めてゆく不純物を嫌わない。

静かに抱え続けてゆき、やがてすべてはまろやかに溶け合う。

そこにこの酒のうまさがあるのだ。

バルドは口の中の酒を、じっくりと味わった。