作品タイトル不明
第65話 手を離す日
冬祭りの朝、広場には二つの大鍋が並んだ。一つは祭りの濃い肉汁。香草と酒の匂いが広場いっぱいに広がり、子どもたちが湯気の周りを走っている。
もう一つは、薄い麦と根菜の汁だった。香りは弱く、塩は控えめで、横には小さな札が立っている。
『体調の戻りかけの方へ。温かいうちに、少しずつ』
この札の文を決めるだけで、食養院では半日議論した。病人用と書けば、手に取る人が恥じるかもしれない。特別食と書けば、元気な人が面白がって取るかもしれない。結局、体調の戻りかけ、という言葉に落ち着いた。
リディアは広場の端で、鍋を見守っていた。直接混ぜているのは見習いのエダである。ラウム村から来た彼女は、絵の記録板を広める役として食養院に滞在していた。字はまだたどたどしいが、人を見る目は確かだった。
最初に薄い汁を受け取ったのは、長い咳のあと外に出られるようになった老人だった。エダは椀を小さめにし、熱すぎないことを確かめてから渡した。
「足りなければ、あとで足せます」
老人は少し笑った。
「足りないと言えるのは、よいな」
リディアはそのやり取りを聞いて、胸が温かくなった。手を出したくなる瞬間は何度もあった。塩の皿が少し遠い。椀の列が詰まりかけている。濃い汁の匂いが風向きで薄い汁の鍋へ流れている。
けれど、エダが気づく。ハンナが皿を移す。
若い領主の子が列を分ける。リディアが動く前に、誰かの手が動いた。
それは、彼女が待っていた光景だった。昼過ぎ、エルヴィンが広場の端へ来た。彼は濃い肉汁の椀ではなく、薄い汁の椀を持っている。
「公爵様まで、こちらですか」
「朝から会議で胃が重い」
「正しい選択です」
彼は椀を口に運び、うなずいた。
「エダの火加減か」
「はい」
「君の味ではない」
リディアは少しだけ驚いた。エルヴィンは続ける。
「だが、よい味だ」
その言葉に、リディアの目の奥が熱くなった。自分の味ではない。
けれど、よい味。それは手を離す日の、何よりの褒め言葉だった。
夕方、広場の記録板にはたくさんの印が残った。薄い汁を一口だけ飲んだ人、半分飲んだ人、濃い汁へ戻った人、匂いでやめた人。祭りの記録としては地味だが、次の冬に役立つ。
エダは板を抱え、リディアに言った。
「夫人。明日の朝、写しを作ります」
「お願いします」
「私が、ですか」
「あなたが記録係です」
エダは何度も瞬きをし、それから大きくうなずいた。祭りの鐘が鳴る。
リディアは広場を見渡した。自分の手を離れた鍋が、人を温めている。
寂しさはあった。けれど、その寂しさの中には、確かな安堵が混じっていた。
もう一人で、すべての朝を背負わなくていい。