作品タイトル不明
第61話 記録係の夜
ラウム村で一泊することになった夜、リディアは共同厨房の灯りがまだ消えていないことに気づいた。戸口からのぞくと、若い娘が一人、記録板の前に立っていた。昼間、村長の嫁の後ろに隠れるようにしていた娘である。名はエダと聞いていた。
エダは炭を持ったまま、椀の絵の横に印をつけたり消したりしている。
「迷っていますか」
リディアが声をかけると、エダは肩を跳ねさせた。
「申し訳ありません。汚してしまって」
「汚しても構いません。消せるように炭にしました」
エダは少し安心した顔をしたが、すぐに目を伏せた。
「私は字が下手です。司祭様が来ると、いつも笑われます。だから帳面に書くのが怖くて」
空欄の理由は、また一つ見つかった。怠慢ではない。
笑われることへの恐れだった。リディアは板の前に立ち、椀の絵を指した。
「今日、ミラは麦湯を一口飲みました。なら、ここに小さな印を一つ。全部飲んだわけではないから、大きな丸ではなく小さな丸でいいです」
「そんな細かいことでよいのですか」
「細かいことが、次の朝に役立ちます」
エダは炭を持ち直し、小さな丸を描いた。丸は少し歪んでいる。
けれど、十分に読める。
「では、肉の匂いが嫌だったので、鼻の横に印を」
「はい」
「器は熱すぎましたか」
「いいえ。器は大丈夫でした」
「なら、手の絵には何もつけません」
エダは一つずつ確かめながら印を残した。字ではない。だが、そこにはミラの朝が残っている。記録が終わると、エダは炭を置いた。
「これなら、私にもできます」
「できます」
「でも、司祭様は笑うかもしれません」
「笑ったら、そのことも記録しましょう」
エダは驚いて顔を上げた。リディアは真面目に続けた。
「記録する人が笑われて手を止めたなら、それは食卓を邪魔した出来事です。誰が何で困ったか、残してください」
しばらくして、エダは小さく笑った。
「公爵夫人は、怖い方ですね」
「台所を軽んじる人には、時々そう思われます」
その夜、リディアはエダと一緒に麦湯を飲んだ。
エダの父は昔、山仕事で指を痛め、細かい字を書けなくなったという。母は鍋を任されているが、人前で話すのが苦手で、食べられなかった理由を聞く前に謝ってしまう。エダはそれを見て、記録係になりたいと思ったが、字の下手さで諦めかけていた。
「絵の記録でも、王都へ出せますか」
「出せます。必要なら、食養院で写しを作ります」
「私の丸が、王都へ」
エダは不思議そうに言った。
「王都だけではありません。北境の別の村にも、役に立つかもしれません」
翌朝、ミラは薄い根菜汁を半分飲んだ。エダは記録板の椀に半分の印をつけ、鼻の絵には何もつけなかった。匂いが原因ではなくなったことが、誰にでもわかる。
村長はその板を見て、深く頭を下げた。
「法を守るとは、紙を書くことだと思っておりました」
「紙を書く日もあります。でも、まずは人を見ることです」
リディアは記録板の写しを持ち帰ることにした。王宮で生まれた食卓法は、ラウム村で絵になった。
その絵は、字の下手な娘の手から、次の村へ渡っていく。