作品タイトル不明
第51話 帰還の朝
遠征から戻った翌朝、リディアは少し早く目を覚ました。窓の外は薄い霧で、庭の石畳が湿っている。厨房へ行くと、すでに下働きの者たちが薪を運び、昨日の鍋を磨いていた。
彼女が毎朝すべてを一人で始めることは、もうない。それに気づくたび、少し寂しく、少し誇らしい。
「夫人、今日は公爵様用に薄粥ですか」
若い炊事係が尋ねた。リディアは首を横に振った。
「いいえ。普通の朝食にします。麦パンを薄く切って、東の砦の茸を少しだけ汁に。胃を休める料理ではなく、戻ってきた人の朝食です」
「戻ってきた人の朝食」
炊事係は言葉を確かめるように繰り返した。病人食を作る者は、つい弱った人だけを見てしまう。けれど、人はずっと病人でいるわけではない。回復したあと、普通の食卓へ戻る道を用意することも大切だった。
リディアは汁の鍋に茸を入れた。香りは静かに立ち上がる。強すぎない。朝の空気に溶ける程度でいい。食堂に運ぶと、エルヴィンはすでに席についていた。
軍務の書類を読んでいるが、皿が置かれるとすぐに紙を伏せる。それも、北境に来たころとは違う。
「今日は薄粥ではないのか」
「はい。公爵様は遠征から戻りました。病人ではありません」
「そう言われると、少し嬉しいな」
「具合が悪いほうがいいですか」
「それは困る」
彼は麦パンを手に取り、茸の汁につけて食べた。リディアも向かいに座り、自分の皿に手を伸ばす。
王宮にいたころ、彼女は朝食を作る人であって、朝食を共にする人ではなかった。王の食べる様子を見て、皿を下げ、次の仕込みに入る。自分の空腹は、仕事が終わってから思い出すものだった。
今は、同じ卓で食べる。それは大きな褒美のようであり、同時に日常でもあった。
エルヴィンが汁椀を置く。
「うまい。砦の茸は採用だな」
「乾かし方を教えてもらいましょう。香りが強くなりすぎないように」
「また仕事の話になる」
「朝食ですから」
「朝食は仕事だけではない」
彼の声は静かだった。リディアは匙を止めた。
エルヴィンは少し照れたように視線を外し、それでも言葉を続けた。
「君が作る皿に救われたことは何度もある。だが、今朝は救われるために食べているわけではない。ただ、君と同じ朝を迎えたから食べている」
リディアは胸の奥が熱くなるのを感じた。救う、支える、整える。
それらは大切な言葉だった。けれど、夫婦の食卓には、それだけでは足りない。ただ一緒に食べるという時間がある。
「私もです」
彼女はそう答えた。
「公爵様に食べてもらうためだけではなく、私も食べたいと思って作りました」
エルヴィンは、ゆっくり笑った。食堂の窓に、霧の向こうから朝日が差し始める。銀の皿ではない。王宮の高い天井でもない。けれど、木の卓に置かれた二つの椀は、リディアにとってどんな宝飾より確かなものだった。
朝食が終わると、エルヴィンは椀を持って立ち上がった。
「返す」
「今日は私が持ちます」
「たまには俺にも運ばせてくれ」
リディアは笑って、椀を一つだけ渡した。二人で厨房へ戻る。
その短い廊下が、彼女には帰る道に思えた。