作品タイトル不明
第25話 陛下の謝罪
国王ユリウスが正式にリディアへ謝罪したのは、粥を八口食べられるようになった朝だった。
寝室ではなく、小さな朝の間が選ばれた。窓から柔らかい光が入り、卓には白粥、葛湯、温めた蕪、薬湯が置かれている。飾りは少ない。だが器は温められ、布は清潔で、香りは穏やかだった。
国王は自分の手で匙を置き、リディアへ向き直った。
「リディア・ベルセ」
王に名を呼ばれることは、以前なら恐れ多いだけだった。今は、名が呼ばれたことそのものを受け止められる。
「はい、陛下」
「私はそなたの仕事に頼りながら、その立場を守らなかった。礼も報酬も、記録も足りなかった。そなたが去って初めて、自分の朝がどれほど多くを借りていたか知った」
国王は深く頭を下げた。王が、子爵家の養女に。
部屋の者が息を呑む。セドリックも、グラントも、侍医長も、エルヴィンも黙っていた。
リディアは胸が苦しくなった。謝罪は、失われた時間を戻さない。けれど、なかったことにもできない。
「陛下。私は、陛下が食べてくださる朝に救われていた部分もあります」
彼女はゆっくり言った。
「王宮で私の仕事を見てくださる方は少なかった。けれど、陛下が『喉を通る』と言ってくださると、その朝は報われました」
国王の目が揺れる。
「だからこそ、私は長く何も求めませんでした。それが正しいと思っていました。でも、一人の善意で支える形は、やはり危ういのです」
「その通りだ」
「謝罪を受け取ります。ですが、私が望むのは、私だけへの償いではありません」
リディアは用意していた紙を差し出した。王宮療養食管理の改定案。
そこには、病人食担当の正式任命、俸給、記録の保存、侍医と料理長の共同確認、薬草棚の鍵管理、下働きの休憩と食事時間、外部商会の納品検査まで書かれている。
国王は紙を受け取り、時間をかけて読んだ。
「そなたが長として残る案は、本当にないのか」
「ありません」
リディアははっきり答えた。
「私は北境で、まだやることがあります。公爵様の胃も、兵の食事も、薬草畑も途中です」
エルヴィンが少しだけこちらを見る。国王はその視線に気づき、薄く笑った。
「灰狼公爵の胃は、王の命令でも戻せぬか」
「戻せません。治りかけですので」
部屋に小さな笑いが生まれた。セドリックが一歩前に出た。
「リディア。私からも謝罪する。君を便利な存在として扱った。父上のためと言いながら、君自身を見ていなかった」
彼は深く頭を下げた。
「未払いの手当は、厨房全体の調査と合わせて支払う。ミレーヌとの婚約についても、父上と相談し、見直す」
リディアは頷いた。
「殿下。私に謝るだけでなく、今後、誰かの仕事を『見えないから軽い』と思わないでください」
「分かった」
「分かるだけでは足りません。記録してください」
セドリックは一瞬だけ苦い顔をし、すぐに頷いた。
「記録する」
それは、彼にとって小さくない一歩だった。国王は改定案に署名した。
そして別の紙を取り出す。
「リディア・ベルセ。そなたと、そなたの母セラの名を、王宮療養食記録の創始者として残す。これは王命である」
リディアの視界が滲んだ。母の名。
誰にも知られなかった粥の朝が、ようやく紙の上に残る。
「ありがとうございます」
声が少し震えた。エルヴィンが何も言わず、ただ隣に立っていた。その静けさがありがたかった。
朝の間を出たあと、リディアは廊下の窓辺で深く息を吸った。王宮の空気はまだ重い。変わるには時間がかかる。ミレーヌのことも、ガレア商会のことも、王太子の責任も、すぐには終わらない。
けれど、今日、ひとつの紙に署名がされた。名前のない朝食係は、王宮の記録に名を持った。
エルヴィンが隣に来た。
「よく立っていた」
「少し、膝が笑っています」
「なら、座って湯を飲め」
「公爵様の朝食は」
「食べた。記録もした」
彼が差し出した小さな紙には、確かに朝食の量と睡眠時間が書かれていた。リディアは笑いながら、その紙を受け取った。
王宮で泣かなかった。けれど北境へ戻る馬車の中で、母の名が記された写しを抱えた時、涙が少しだけこぼれた。