作品タイトル不明
第21話 厨房へ戻らない帰還
王宮東厨房の扉の前で、リディアは足を止めた。
四年前、初めてここへ呼ばれた時、彼女は裏口から入った。正式な客ではなく、料理人でもなく、子爵家の養女という半端な身分だったからだ。朝の暗い時間に来て、誰も見ていないうちに粥を仕込み、国王の食卓へ運ばれる前に姿を消す。
それが王宮の望む便利さだった。今日、彼女は正面の廊下から入る。
隣にはエルヴィン。後ろにはマルタと軍医バルト。王宮側からは侍医長とグラント料理長が同行している。通用扉ではなく、記録係の待つ管理口で、入室時刻と目的を記される。
たったそれだけのことなのに、リディアの喉は少し詰まった。
「大丈夫か」
エルヴィンが低く尋ねた。
「はい」
「無理をしている返事だ」
「少しだけ、昔の匂いがします」
厨房からは、銅鍋の金属臭と、濡れた薪の匂いが流れてきていた。さらにその奥に、強い花蜜湯の香が残っている。甘く、重く、病人の朝には似合わない匂い。
リディアは帳面を抱え直した。
「でも、私は戻るためではなく、確認するために来ました」
「なら、確認しよう」
東厨房へ入ると、下働きたちが一斉にこちらを見た。ネリが奥から飛び出しかけ、すぐに仕事中であることを思い出して立ち止まる。目は潤んでいたが、顔色は前よりましだった。リディアの手紙の通り、少しは食べているらしい。
「リディア様」
「ネリ。火傷はしていない?」
「していません。ご飯も食べています」
その答えに、リディアは小さく笑った。グラントは咳払いをした。
「まず薬草棚だ」
棚の鍵は、王宮侍医長の管理に戻されていた。だが中を開けると、状態は悪かった。白葉草の袋は花蜜湯の壺と同じ段に置かれ、乾燥生姜は湿気を吸っている。苦木皮は古いものと新しいものが混ざり、日付の札がない。
リディアは一つずつ取り出し、皿に並べた。
「これは使えません。匂い移りがあります。こちらは乾燥が足りません。苦木皮は新旧を混ぜると量が読めません」
記録係が慌てて書き取る。王宮の厨房で、リディアの判断が正式に記録されている。
胸が痛くなるほど不思議だった。
「花蜜湯の壺はどこですか」
侍医長が尋ねると、下働きの一人が棚の奥を指した。大きな壺が三つ。封は開けられている。甘い香りが強く、近づくだけで喉の奥に残る。
リディアは蓋を開け、色を見た。美しい琥珀色だ。王都の貴族が好むのも分かる。けれど、そこに混じる花粉の量は多すぎた。
「健康な人が少量を楽しむ嗜好品としては使えます。国王陛下の朝食には使いません」
「廃棄か」
グラントが聞く。
「廃棄ではなく、用途を分けます。捨てればまた『粗末にした』と言われます。病人用と嗜好品を混同しない記録を作ってください」
エルヴィンがわずかに頷いた。王宮の失敗は、悪いものを買ったことだけではない。何に、誰に、いつ使うかを分けなかったことだ。
次に火口を見た。王宮の魔導炉は大きく、火力も強い。祝宴には向いているが、粥の弱火には扱いにくい。リディアは以前、薪と魔導炉の間に石板を入れ、熱をやわらげていた。だがその石板は片付けられていた。
「誰が外しましたか」
ネリが小声で答えた。
「ミレーヌ様の侍女が、汚い石だと」
リディアは目を閉じた。石板ひとつで、粥は焦げる。
だが、その石板は王宮の美しさに合わなかった。
「石板を戻してください。なければ代わりを用意します。粥用の火口を一つ、祝宴用から分けます」
記録係がまた書き取る。厨房の見分が終わる頃、リディアの帳面には改善点が二十以上並んでいた。どれも小さい。鍵、札、棚、石板、湯の温度、侍女の香水、朝食前の薬の時間。
小さいものばかりだ。けれど、小さいものが全部崩れると、国王は朝を迎えられない。
最後に、グラントがリディアへ新しい白い前掛けを差し出した。
「陛下の粥を頼む」
リディアは前掛けを見た。王宮のものではなく、無地の清潔な布だった。だが、受け取る前に首を横に振った。
「私は、王宮の厨房へ戻ったわけではありません。今日は陛下の療養食を作るために、客員として入ります」
グラントはすぐに理解し、前掛けを畳んだ。
「では、客員用の布を用意する」
「自分のものがあります」
リディアは鞄から、北境で使っている灰色の前掛けを出した。裾に小さく、ノルドヴァルト家の狼紋と、リディアの名前が刺繍されている。マルタが出発前に縫ってくれたものだ。
それを身につけると、王宮の厨房の空気が少しだけ変わった。もう、彼女は名前のない朝食係ではない。
北境から来た、リディア・ベルセだった。