作品タイトル不明
第18話 彼が眠った朝
エルヴィンが倒れたのは、薬草畑の水路修理が始まった翌朝だった。
倒れたといっても、突然意識を失ったわけではない。軍議室で報告を聞いている途中、顔色が悪くなり、椅子の背に片手をついた。軍医バルトがすぐに支え、リディアが呼ばれた時には、彼は自室の長椅子に横になっていた。
原因は分かりやすかった。食事は守っていた。だが睡眠を守っていなかった。
夜中に山道の報告を読み、明け方に城壁修理の指示を書き、朝食を取る前に軍議へ出た。胃が治りかけた体には、十分な負担だった。
リディアは寝台脇に膝をついた。
「公爵様」
「大事ではない」
「その言葉は、重い病人ほど早く言います」
バルトが咳払いをして笑いを隠した。エルヴィンは少し苦い顔をした。
「少し眩暈がしただけだ」
「今朝、何時に眠りましたか」
「……眠ってはいない」
部屋の空気が固まった。リディアは静かに息を吸った。
怒りたくなる。だが、怒りは後でいい。今は体を休ませるのが先だ。
「湯を飲んでください。胃に何も入っていません。薄い麦湯です」
彼は素直に飲んだ。その素直さが、かえって心配だった。
リディアは窓の鎧戸を半分閉め、部屋の明るさを落とした。香りの強い花は下げ、湯気だけを残す。マルタに頼み、軍議は二刻延期。ヘンリックには緊急でない報告を止めてもらう。
王宮なら、こんな権限はなかった。ここでは、契約と信頼がある。
「眠ってください」
リディアが言うと、エルヴィンは目を開けたまま答えた。
「眠れない」
「なぜですか」
「目を閉じると、山道で倒れた兵の顔が浮かぶ。補給が遅れた時の報告も。私が確認しなければ、次が起きる」
その声は、いつもの公爵の声ではなかった。北境を守る灰狼ではなく、眠れないひとりの男の声だった。
リディアは少し迷ったあと、椅子を寝台の近くへ寄せた。
「では、私がここで記録を読みます。公爵様は目を閉じてください。必要なことがあれば、私が書き留めます」
「あなたが休めない」
「私は今朝の食事を取りました。公爵様より状態が良いです」
エルヴィンは反論できなかった。リディアは報告書を一枚取り、声を低くして読み始めた。南門の兵の回復状況。薬草畑の水路作業。山道の補給計画。どれも緊急ではない。彼女は要点だけを読み、横に短く記録した。
しばらくすると、エルヴィンの呼吸が深くなった。眉間の皺が少しゆるむ。
眠った。リディアは報告書を閉じた。
眠っている彼の顔は、思ったより若かった。普段は責任と疲労で硬く見える輪郭が、少しだけほどけている。灰色の髪が額に落ち、長い睫毛の影が頬にかかっていた。
胸が静かに鳴った。尊敬だけではない感情が、湯気のように立ち上がる。
リディアはそれをすぐに名前にしなかった。今は、彼を眠らせることが先だ。
扉の外で、マルタがそっと覗いた。リディアが指を唇に当てると、家令長は微笑んで下がった。二刻後、エルヴィンは目を覚ました。
最初に天井を見て、次に椅子で帳面を書くリディアを見た。
「眠っていたのか」
「はい。二刻と少し」
「軍議は」
「延期しました。緊急の報告はありません。水路修理は予定通り。南門の兵は全員回復傾向。ユアンさんが干し肉の隠し場所を自主申告しました」
エルヴィンは目を閉じた。
「あなたに城を乗っ取られそうだ」
「公爵様が眠らない時だけです」
彼は小さく笑った。それから、真面目な顔で言った。
「ありがとう」
リディアは帳面に視線を落とした。
「仕事です」
「仕事に礼を言っている」
同じ言葉を、彼は最初の日にも言った。その時より、リディアの胸はずっと強く揺れた。
彼女は返事の代わりに、温かい麦湯を差し出した。エルヴィンはそれを受け取り、今度はゆっくり飲んだ。
眠った朝のあと、彼の食事計画には新しい欄が加わった。睡眠。
リディアはそこに、遠慮なく毎日記録を書いた。