軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 夫終了のお知らせ

「では、王太子妃エレオノーラ殿下。証拠を提示してください」

貴族院大広間。

天井が高い。石造りのアーチが頭上に連なっていて、ステンドグラスから差し込む光が床に色のついた影を落としている。傍聴席は議場の両脇に設けられていて、私はその端、一番目立たない席に座っていた。

傍聴席の椅子は石造りで、冷たかった。正装の靴が少し窮屈で、つま先が痛い。朝食は食べられなかった。

膝の上に、書類の束がある。

互助会の記録のうち、証拠収集に関わるやりとりを時系列で整理したもの。全部で六十三ページ。公聴会までの三週間で、毎夜少しずつ書き写した。誰が、いつ、何を書いたか。証拠がどのように収集され、保全され、共有されたか。管理人としての助言の記録。

これを提出すれば、私の匿名は終わる。

まだ、出さなくていい。まずはエレオノーラの証拠提示を見守る。

マルグリットが事前に手配してくれた証人登録の書類を、朝のうちに議長に提出していた。だから立ち上がる権利はある。それでも、足が震えそうだった。

議場の中央に、エレオノーラが立っていた。

初めて見る姿だった。掲示板の文章でしか知らなかった人。王太子妃の正装、白と銀の衣装が議場の光を受けて静かに輝いている。でも一番印象に残ったのは手だった。資料を持つ手が全く震えていない。

その後ろに、侍女が一人。ヒルダだ。髪を低く結んで、目を伏せて立っている。手元に証拠書類の入った箱を持っている。

議場の反対側に、王太子ユリウスがいた。金の髪。端正な顔。ゲームで見たスチルと同じだ。でもゲームの王太子は自信に満ちた笑みを浮かべていた。今の彼は笑っていない。横に座る弁護側の法務官が、何か耳打ちしている。

聖女セレーナは傍聴席の前方にいた。白い聖衣を着て、手を組んでいる。表情は読めない。

傍聴席には互助会のメンバーが散らばって座っていた。マルグリットが前方に。伯爵夫人が中ほどに。子爵夫人が手帳を膝に置いて。

セオドアの姿を探した。

議場の端、法務官の席がある一角。そこに座っていた。六週間ぶりに見る横顔。髪を少し切ったのか、首筋が見えている。手元に何か書類を持っているが、読んではいない。

目が合わなかった。合わせないようにしているのだと分かった。

まだ、その時ではない。

エレオノーラが話し始めた。

淡々としていた。声に感情を乗せない。事実だけを、順番に。

「結婚二年目に起案した農業改革案の下書き原本です。筆跡鑑定により、私の筆跡であることが証明されています」

ヒルダが書類を渡す。議長が受け取り、鑑定書と照合する。

「同じ政策が、殿下のお名前で政策会議に提出された記録です」

二枚目の書類。

「そしてこれが、私を政策会議から排除する命令書です。殿下の直筆です」

三枚目。

議場が微かにざわめいた。命令書の存在は、事前に知らされていなかったのだろう。傍聴席の貴族院議員たちが身を乗り出している。

エレオノーラが続ける。

「立案したのは私です。しかし、会議に出ることすら禁じられました。理由は記されていません」

声が揺れない。四年間耐えた人の声だ。

「続いて、殿下と聖女セレーナ嬢の密会記録です。筆頭侍女ヒルダが記録した日時・場所の一覧です」

ヒルダが前に出た。

「私はエレオノーラ殿下の筆頭侍女として、六年間お仕えしてまいりました。この記録は、私が直接確認した事実に基づいています」

落ち着いた声だった。ゲームには出てこなかった人が、現実の法廷に立っている。

「最後に、私の実家、ヴァレンシュタイン侯爵家への利益供与を停止する命令書の写しです」

五枚目の書類。

エレオノーラが書類をすべて提出し終え、一歩下がった。

議場が静まった。

王太子側の弁護法務官が立ち上がった。

「これらの証拠は捏造です」

空気が凍った。

「王太子妃は何者かに操られ、虚偽の証拠を作成させられている可能性があります。命令書の筆跡は模倣可能です。密会記録は侍女の個人的な偏見に基づいています。政策立案書の筆跡が妃のものだとしても、殿下が補佐を依頼されていた可能性を排除できません」

来た。

予想していた反論だ。「捏造」。

エレオノーラの手が、初めて動いた。握り締めて、開いて、もう一度握った。

議場の空気が揺れている。傍聴席の貴族たちがざわつき始めた。「捏造なのか」「操られている?」。疑念の声が広がる。

このままでは、証拠が疑われたまま審議に入る。

膝の上の書類を見た。

六十三ページ。互助会の記録の抜粋。これを提出すれば、証拠収集の過程そのものが透明であることを証明できる。いつ、誰が、どのように証拠を集めたか。管理人の助言の記録。参加者たちの報告の時系列。

でもそれは、管理人が名乗り出ることを意味する。匿名を捨てることを。

支援者は当事者にならない。

でも、今この瞬間、支援者が立たなければ、当事者が負ける。

立ち上がった。

傍聴席の椅子が音を立てた。窮屈な正装の靴で、石の床を踏みしめた。議場の視線が一斉にこちらを向いた。

「失礼いたします」

自分の声が、思ったより通った。

「貴族院の皆さま。私はサレ妻互助会の管理人です。本日は証人として登録しております」

ざわめきが広がった。

「互助会とは、魔導通信板上の匿名掲示板で運営されている、不誠実な配偶者の被害を受けた女性たちの相互支援組織です。王太子妃エレオノーラ殿下を含む複数の参加者が、証拠の収集と保全について互助会を通じて情報を共有してきました」

書類を掲げた。

「これは互助会の記録から、証拠収集に関わるやりとりを抜粋し時系列で整理したものです。誰が、いつ、何を書いたか。証拠がどのように収集され、保全されたか。その過程が記録されています。魔導通信板の書き込みは魔法的に署名されており、改竄は不可能です。この記録と通信板の原本を照合していただければ、証拠が捏造でないことが証明されます」

議長が書類を受け取った。

傍聴席からマルグリットが立ち上がった。

「わたくしはヴァーゲンハイム公爵夫人マルグリットです。互助会の参加者です」

声が太い。四十五年分の声だ。

「二十年前、わたくしも夫の不倫に苦しみました。あの頃は声を上げる場所がなかった。制度もなかった。泣くことしかできなかった。今日は違います。わたくしは証人として、互助会の活動が自発的な被害者同士の連帯であり、何者かの操作ではないことを証言いたします」

伯爵夫人が立った。

「わたくしも互助会の参加者です。持参金を流用されていた事実を、互助会の助言に従って自分で確認し、自分で告発しました。操られたのではありません」

続けて、子爵夫人が手帳を閉じて立った。それから三人、四人と立ち上がった。言葉はばらばらだった。声が震えている人もいた。泣きながら立っている人もいた。でも全員が立っていた。

十人が立った時、議場は完全に静まった。

弁護側の法務官が口を開きかけて、閉じた。十人の証言を「全員操られている」と主張するのは、さすがに無理がある。

議長が咳払いをした。

「証拠の法的有効性について、法務官長の見解を求めます」

その前に。

セオドアが立った。

法務官の席から、一歩前に出た。六週間ぶりに聞く声だった。

「議長。発言の許可をいただけますか」

「リンドグレン法務官。どうぞ」

「自己申告いたします。私はこの事案に個人的な関与があります」

議場がまた静まった。

「互助会の匿名掲示板に、法的助言を提供していたのは私です。匿名で、一般に公開されている法知識の範囲で助言を行いました。証拠の偽造や誘導には一切関与しておりません。しかし、利益相反の可能性がありますので、本事案における証拠の法的有効性の判断から退きます。判断は法務官長に委ねます」

発言する前に、一瞬だけこちらを見た。

ほんの一瞬。傍聴席の端にいる私の目を、まっすぐに。

それから議長に向き直って、席に戻った。

法務官長ヴァルターが前に出た。五十代半ば。白髪混じりの髪を短く刈っている。厳格な顔。セオドアが提出を退いた資料と、私が提出した互助会の記録と、エレオノーラが提出したすべての証拠書類を手に取った。

長い沈黙があった。

ヴァルターがページをめくる音だけが議場に響いた。乾いた紙の音。

「法務官長として見解を述べます」

低い声。感情が一切乗っていない。四十年間法務に従事してきた人間の、公正さだけで構成された声。

「提出された証拠は、正規の手続きに則って収集されたものであり、法的に有効です。互助会の記録は証拠収集の経緯を明確に示しており、捏造の痕跡は認められません。リンドグレン法務官の法的助言は一般法知識の提供の範疇であり、証拠への直接的関与とは認められません。よって、すべての証拠を採用すべきと判断いたします」

議場の空気が動いた。

弁護側の法務官が座った。もう反論する材料がない。

ユリウスが立ち上がった。

金の髪が議場の光を受けて輝いている。ゲームのスチルそのままの顔。でも今、その顔には戸惑いがあった。

「すべて、妃のためだった」

声が震えていた。

「政策を私の名で発表したのは、妃の名前を政争の矢面に立たせたくなかったからだ。会議への出席を控えてもらったのは、妃の負担を減らすためだ。実家への利益供与を停止したのは」

言葉が途切れた。

自分でも理由を見つけられなかったのだろう。

議場は沈黙していた。同情の目は、一つもなかった。

ゲームでも、この台詞を見た。「すべて妃のためだった」。画面の向こうで、テキストとして流れた言葉。あの時は「うわ、クズ」とだけ思って、聖女ルートに戻った。

現実で聞くと、テキストとは違った。

悲しいとか、怒りだとか、そういうものではなく、空っぽだった。この人は本当に自分を善人だと信じていて、なぜ誰も信じてくれないのか分からないのだ。

聖女セレーナが傍聴席で手を組んだまま、動かなかった。王太子を庇う言葉は、一つも出なかった。

議長が議決を宣言した。

「貴族院の決議により、王太子ユリウス・クレイフォード殿下の執務権限を停止します。信任回復には貴族院の再決議を要します。また、聖女セレーナ・オルブライトの教会任命について、教会審問会への再審査を勧告します。メルクリウス子爵ガルシアの持参金流用についても弾劾手続きに入ります」

木槌が鳴った。

乾いた、一度きりの音。

議場が騒然とする中、私は傍聴席に座ったままだった。

膝の上に、もう書類はない。全部提出した。互助会の記録。管理人としての匿名。あの信条。

全部、手放した。

でも、不思議と手が軽い。

議場から出る時、ふと後ろを振り返った。

法務官の席に、セオドアがまだ座っていた。

書類を抱えて、前を向いている。目が合った。

今度は、逸らさなかった。

ほんの一瞬だけ。二人とも動かなかった。

それからセオドアが小さく頷いた。何かを言おうとして、やめた。いつもの癖だ。でもその頷きだけで十分だった。

議場を出た。

外は夏の光だった。実りの月の空は高くて、石畳が白く乾いている。宰相府の前を通り過ぎる時、三階の閲覧室の窓が見えた。

あの部屋に、私の栞がまだあるかもしれない。

家に帰ろう。

今は少しだけ、空を見ていたい。

風が暖かかった。

六週間ぶりに、胸の中の何かが緩んだ気がした。