軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 たとえ離れても

あなたが管理人ですね。

リンドグレンがそう言った時、閲覧室の空気が変わった。

順を追って話す。

宰相府に着いたのは昼過ぎだった。公聴会に向けた証拠の整理が佳境に入っていて、弾劾手続きの補足条文を確認する必要があった。

閲覧室に入ると、リンドグレンがいつもの席にいた。でも今日は何かが違った。書類の山がない。法令集も開いていない。机の上が片付いていて、手元には茶が一杯あるだけだった。

冷めている。湯気が出ていない。ずっと前に淹れて、飲まないままにしている茶だ。

「フェルトハイム嬢」

「こんにちは、リンドグレン様。今日は弾劾手続きの」

「少し、お話があります」

声が違う。事務的でもなく、あの法律論議の時の熱でもなく。慎重に言葉を選んでいる人の声だ。

「閲覧席ではなく、中庭に出ませんか」

嫌な予感がした。でも予感に名前をつける前に、もう立ち上がっていた。

中庭は小さかった。

宰相府の東棟と西棟の間に挟まれた、四角い石畳の空間。真ん中に使われなくなった噴水がある。水が止まって久しいのか、縁の石に苔が張りついている。石のベンチが二つ向かい合っていた。座る人は少ないのだろう。ベンチの表面に落ち葉が薄く積もっていた。

リンドグレンが落ち葉を手で払って、座るように示した。自分は向かいのベンチに座った。

距離がある。閲覧室の窓口より遠い。

「フェルトハイム嬢」

「はい」

「あなたが、管理人ですね」

風が吹いた。噴水の苔の匂いが一瞬だけ濃くなった。

心臓が跳ねた。驚いたからではない。

来た、と思った。

正直に言えば、予想していた。脅迫状を相談した時に「掲示板で被害者支援を」と言ってしまった。私の文体は掲示板上と対面で大きく変わらない。法知識の偏り方、条文への着目点、「証拠保全」という言い回し。

気づかれるのは時間の問題だった。

「何のことかと聞くべきですか」

自分でも驚くほど平坦な声が出た。

「いいえ。その必要はないと思います」

リンドグレンが私を見ていた。

「文体の類似に気づいたのは、脅迫状のご相談の時です。『掲示板で被害者支援を』とおっしゃった時の言い回しが、互助会の管理人の文章と一致していました。それから確認しました。あなたが宰相府を訪れた日と、管理人の投稿が減る時間帯。あなたが閲覧した法令と、管理人が翌日に引用する条文。付箋を貼った判例と、管理人が参加者に共有する判例」

全部、合っている。

私が見落としていた符合を、この人は積み上げていた。法務官の目だ。

「あなたも、ですね」

今度は私の番だった。

「リンドグレン様。あなたが六法全書ですね」

リンドグレンの手が膝の上で動いた。組んでいた指が、ほどけた。

「何を根拠に」

「付箋の色です。あなたが法令集に貼る付箋は青・緑・黄色で色分けされています。六法全書さんが掲示板で条文を引用する時も、同じ三つのカテゴリに分けて整理していました。判例は緑、成文法は青、施行規則は黄。一致しすぎています」

少しの間があった。

「それと、条文番号の引用精度です。法令閲覧室に五年いる法務官と同じ正確さで、深夜に条文を引用できる匿名ユーザーが、この国にそう何人もいるとは思えません」

リンドグレンが息を吐いた。

長い息だった。ずっと止めていたものを、ようやく吐き出したような。

「そうですか」

それだけ言って、噴水の縁を見つめた。苔の上を小さな虫が歩いている。

沈黙が落ちた。

中庭は静かだった。遠くから書記官たちの声が微かに聞こえる。風が落ち葉を少しだけ動かした。

「リンドグレン様」

「セオドアです」

「え?」

「セオドア・リンドグレン。それが私の名前です。管理人殿にお伝えするのは、これが初めてですね」

セオドア。

名前を知った。六法全書の、名前を。

「リコリスです。フェルトハイム家のリコリス。六法全書さまにお伝えするのも、初めてです」

中庭の風が、少しだけ暖かかった。緑の月の空気。

でも、この温かさに浸っている場合ではないことを、二人とも分かっていた。

「リコリスさん」

名前で呼ばれた。初めて。

「一つ、お伝えしなければならないことがあります」

セオドアの声が、また慎重になった。法務官の声に戻っていく。

「私は宰相府の法務官です。互助会に匿名で法的助言を提供していたことが公になれば、提出された証拠が『官僚の恣意的な操作によるもの』と疑われる可能性があります」

「分かっています」

分かっていた。セオドアが六法全書だと確信した時から、この問題には気づいていた。

「公聴会に証拠を持ち込むなら、証拠の中立性を守らなければなりません。法務官が証拠収集に関与していたと知れたら、王太子側に反論の材料を与えることになる」

「はい。だから」

セオドアが立ち上がった。ベンチの落ち葉が散った。

「距離を置くべきだと考えています。私は互助会から離れます。掲示板への書き込みも止めます。公聴会が終わるまで」

離れる。

予想していた言葉だった。合理的だ。正しい。証拠の中立性を守るために、互助会との繋がりを断つ。法務官として、これ以上ないほど正しい判断。

「私も同じことを考えていました」

嘘ではない。

「支援者は当事者にならない。昔からの信条です。支援者が事案に個人的に関わりすぎると、支援の質が落ちる。判断が鈍る。最悪の場合、支援そのものが攻撃の材料にされる」

「であれば」

「ええ。距離を置きましょう。公聴会が終わるまで」

簡単に言えた。

簡単に言えてしまったことが、少し痛い。

セオドアが頷いた。

「公聴会の準備は互助会のメンバーと進めてください。法的な質問があれば。いえ、それも控えるべきですね」

「そうですね」

「閲覧室の利用は、業務上の範囲であれば問題ありません。法令は誰でも閲覧できますから」

「でも、しばらくは来ないほうがいいと思います。慣れてしまうと」

言いかけて、止まった。

何に慣れてしまうのか。閲覧室に通うことか。付箋のついた法令集を受け取ることか。言いかけてやめる人の隣で法律の話をすることか。

「判例の追加調査は、自分で他の手段を探します」

「分かりました」

セオドアが一歩下がった。中庭のベンチとベンチの距離がさらに開いた。

「リコリスさん。公聴会まで、どうかお気をつけて」

「セオドアさんも」

初めて名前で呼んだ。名前で呼ぶのは、これが最後かもしれない。公聴会が終わったら、そのあとのことは、まだ考えられない。

閲覧室に戻った。テーブルの上に法令集が開いたままだった。読みかけの弾劾手続きの条文。栞を挟んでいたはずだ。

また忘れた。

栞が、法令集のページに挟まったまま残されている。前回と同じだ。前回は五日後に返してもらった。

今回は取りに戻らない。

しばらく来ないと決めたのだから。

閲覧室を出た。セオドアは窓口にいたが、目を合わせなかった。合わせないことが正しいと、二人とも分かっていた。

宰相府を出て、通信板を開いた。

公聴会の準備について書き込んだ。

『皆さまへ。

公聴会の日程が確定しました。

実りの月十日。貴族院大広間です。

証拠の最終整理に入ります。

エレオノーラさま、ヒルダさん、命令書の写しと政策立案書の原本を、安全な場所に保管してください。

伯爵夫人さま、持参金流用の告発記録と帳簿の写しを整理してください。

子爵夫人さま、同上です。

証拠は複数箇所に分散保管してください。一ヶ所に集中させると、妨害のリスクがあります。

公聴会まで、あと三週間と少しです。

ここからが本番です』

王太子妃からの返信がすぐに来た。

『管理人さま。

証拠の保管はヒルダが担当しています。

命令書の写し、政策立案書の原本、密会記録、すべて複数箇所に分散済みです。

ヒルダは「証拠が消えるのは一ヶ所にまとめるからです」と申しておりました。

あの子は優秀です。

——殿下が最近「貴族院の動きが不穏だ」と側近に漏らしていたそうです。

「証拠は捏造だと主張する準備をしている」という噂もあります。

備えましょう』

王太子側が動き始めている。

「証拠は捏造だ」。予想された反論だ。

法的に対抗するには、証拠の収集過程そのものが正当であることを証明する必要がある。

六法全書さんがいれば、すぐに対策を打てた。

でも今は、いない。

自分で考える。あの五年間の知識と、ゲームの知識と、この二ヶ月間で学んだこの国の法律で。

証拠の正当性を証明するために必要なのは、証拠収集の経緯を示す記録だ。

互助会の掲示板には、すべての書き込みが魔法的に保全されている。改竄不可能。時系列も正確。

この掲示板の記録そのものが、証拠収集の透明性を証明する。

でもそれを提出するには、管理人が名乗り出る必要がある。

匿名を捨てる。

その覚悟が必要になるかもしれない。

今はまだ、考えるだけにしておく。

個別メッセージの通知が光った。

セオドアからだった。

『管理人殿。

距離を置くと決めました。

掲示板への書き込みも止めます。

でも一つだけ。

たとえ離れても、私はあなたの味方です。

それは法務官としてではなく——

いえ、これ以上は書くべきではありませんね。

公聴会が終わるまで、どうかお元気で。

六法全書』

通信板を持つ手が震えた。

脅迫状の時とは違う震えだった。

「法務官としてではなく」。

その先を、書かなかった。書くべきではないと、自分で止めた。

法律の条文番号を深夜に整理する人が、書くべきではないと判断して、消した言葉。

何を書こうとしたのか。

分かりたくない。分かってしまったら、支援者は当事者にならないという信条が壊れる。

返信を打った。

『六法全書さま。

ありがとうございます。

味方がいることは、法律と同じくらい心強いです。

あなたもお元気で』

それ以上は書けなかった。

書きたいことはあった。でも書いたら、距離を置く意味がなくなる。

帰り道の空は曇っていた。緑の月の半ば。空気が湿っている。

宰相府の閲覧室に、栞が残されている。

革製の、押し花の、母がくれた栞。

取りに行かなかった。

でも。あの人の机の近くに、私の持ち物が一つだけ残っている。

それは少しだけ、繋がっている気がした。

家に着いた。靴を脱いで、濡れた上着を掛けて、台所に行った。

自分でスープを作った。残り物ではなく、最初から。玉ねぎを刻んで、塩を振って、鍋で炒める。前の人生で唯一まともに作れた料理がオニオンスープだった。この世界の玉ねぎは日本のより小さくて、皮が赤い。

鍋を火にかけて、窓の外を見た。

六法全書さんの書き込みは、もうない。

最後の書き込みは昨夜の法的助言のまとめだ。公聴会の手続きフロー、証拠の法的要件、証人の資格要件。全部整理されている。離れる前に、必要なものを全部置いていった。

この人は、そういう人だ。

スープが煮えた。

一人分を椀によそって、テーブルについた。

熱い。ちゃんと熱い。残り物の冷めたスープではない、自分で作った、熱いスープ。

玉ねぎが少し焦げていた。火加減を間違えた。でもまあ、食べられる。

公聴会まで、あと三週間と少し。

一人で、やる。