軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 私が管理人です

公爵夫人の茶会は、薔薇の香りの裏で物騒な話が飛び交った。

招待状は三日前に届いた。

ヴァーゲンハイム公爵夫人マルグリット主催、少人数の読書会。会場は公爵邸の離れの小サロン。出席者は六名。ドレスコードは平服。

互助会のメンバーだけが読める暗号が、招待状の裏に小さく書かれていた。「薔薇の本を持参のこと」。互助会で共有していた合言葉だ。

男爵家の三女が公爵夫人の茶会に招かれること自体、普通なら考えられない。身分差がありすぎる。でもこの茶会は社交名簿に載らない非公式の集まりで、出席者全員が互助会の参加者だった。

匿名の掲示板で繋がった人たちと、初めて顔を合わせる。

馬車を降りた時、手が少し汗ばんでいた。NPO時代に支援者同士のオフ会を企画した時のことを思い出す。あの時も胃が痛かった。匿名の関係を現実に持ち込むリスクと、それでも顔を合わせなければ進まない段階があることと。

公爵邸の離れは、本邸から少し離れた場所にあった。藤棚の下を通って、石畳の小道を抜ける。庭師が花壇の手入れをしていたが、こちらを見なかった。公爵夫人の指示だろう。目撃者を減らす配慮がある。

小サロンの扉を開けると、すでに四人が座っていた。

マルグリット・ヴァーゲンハイム公爵夫人は、想像と違った。

通信板の書き込みでは冷静で知的な印象だったが、実際に会ってみると、まず目についたのは手だった。大きくて、節が少し太くて、爪は短く切り揃えてある。刺繍をする手ではない。帳簿をめくる手だ。四十五歳と聞いていたが、目元の皺はもう少し多く見える。

「あなたがリコリスさんね。思ったより若い。リコリスちゃんと呼んでもいいかしら」

「は、はい。もちろんです、マルグリット様」

「堅いわね。ここでは肩書きはなし。お茶を飲みながら話しましょう」

お茶は確かに出ていた。でも誰もまだ手をつけていない。カップの縁が少し欠けているものがあって、それが公爵邸の茶器としてはわざとらしいくらいに庶民的だった。格式張った場ではないという合図だろう。

他の出席者を見回す。

伯爵夫人。別荘の鍵を変えたCさん。四十代前半。想像より痩せていた。指輪をしていない右手で、カップの取っ手を触っている。

子爵夫人。帳簿を確認したDさん。三十代後半。眼鏡をかけていて、姿勢がいい。膝の上に小さな手帳を置いている。

男爵夫人。名前は伏せるが、最近互助会に参加した新しいメンバー。二十代後半。一番緊張している。菓子皿の杏仁菓子を一つ取ったが、食べずに皿の端に置いた。

そして、商家の奥方。平民だが、夫が子爵家と取引のある大商人。通信板が使える魔力保有者。二十代前半。一番若い、私の次に。

六人。全員女性。全員、夫に何かを奪われている人たち。

いや、一人だけ違う。私は夫に何も奪われていない。モブの未婚令嬢。被害者ではない。支援者だ。

その区別を、忘れてはいけない。

「さて」

マルグリットが口を開いた。茶を一口だけ飲んで、カップを静かに置く。

「今日集まったのは、読書会ということになっています。薔薇の園芸書について語り合う上品な午後。でも本題は別にあるの。皆さん、分かっているわね」

全員が頷いた。

「互助会は掲示板の中で大きくなっています。でも、掲示板の中だけでは限界があることも分かってきました。証拠の保管場所。法的手続きの窓口。そして何より、管理人が一人で背負いすぎている問題」

マルグリットの視線が私に向いた。

「リコリスちゃん。脅迫があったと聞いています」

「……はい。掲示板上で一件。ただ、匿名なので現時点では」

「匿名でも脅迫は脅迫よ」

マルグリットの声が少し低くなった。

「二十年前にね、私も似たようなことがあったの」

部屋が静かになった。菓子皿の杏仁菓子に手を伸ばしかけていた男爵夫人が、手を引っ込めた。

「夫の不倫を知った時、私は一人で抱え込みました。誰にも言えなかった。言ったところで、この国には妻から離縁を申し立てる制度がないのですもの。耐えるしかなかった。泣くことと、刺繍をすることだけが許されていた」

マルグリットが自分の手を見た。刺繍をする手ではない、と思ったけれど、昔はしていたのかもしれない。

「今は夫とは和解しています。愛情ではなく、利害の一致で。でも、あの頃の自分に何か一つ渡せるなら、『一人じゃない』という言葉を渡したかった」

少しの間があった。

「だから今日、提案があるの」

マルグリットが全員を見回した。

「管理人が狙われた時は、全員で庇いましょう。一人が犠牲になって組織を守る時代は終わりです。もし掲示板で管理人の特定が始まったら、全員で『私が管理人です』と書き込む。特定を不可能にする」

伯爵夫人が口を開いた。

「でも、そうしたら全員が疑われるのでは」

「全員が疑われるなら、誰も特定できないということよ。一人を差し出すより、全員で壁を作るほうがずっと安全」

子爵夫人が手帳に何か書き込んだ。数字か何かだろう。この人は何でもメモを取る。

「賛成です」と商家の奥方が言った。「一人より全員のほうが強い。商売でも同じです」

男爵夫人が小さく頷いた。菓子皿の杏仁菓子を、今度こそ口に入れた。

全員の同意。

「ありがとうございます」

自分の声が少しかすれていた。

「支援者の立場から一つだけ。この作戦を発動する時は、私から合図は出しません。皆さまが自主的に判断してください。管理人が指示を出して動く組織にしたくないんです」

マルグリットが微笑んだ。

「それでいいわ。自分で決めて、自分で動く。それが互助会でしょう」

茶会の後半は、もう少し実務的な話になった。

王太子妃からの手紙が、侍女ヒルダ経由で届いていた。マルグリットが代読する。

「『皆さまにお会いできず残念です。殿下の監視が強まっており、外出が困難です。しかし、ヒルダを通じて連絡は取れます。皆さまの活動を心から応援しています。——エレオノーラ』」

王太子妃の名前が、初めて音声として部屋に響いた。

伯爵夫人が目を伏せた。子爵夫人がペンを止めた。

この人たちは、王太子妃の名前の重さを、私よりもずっとよく分かっている。侯爵家出身の王太子妃が、匿名の掲示板で「私の存在意義とは」と書いていた。それがどれほどのことか。

茶会は二時間で終わった。表向きの読書会として、薔薇の園芸書について一応の意見交換もした。伯爵夫人が「この品種は霜に弱い」と言い、子爵夫人が「でも日当たりがよければ」と返し、マルグリットが「薔薇は手がかかるほど美しく咲くものよ」と締めた。

比喩なのか本気なのか分からないところが、この人たちらしい。

帰宅して通信板を開いたら、嫌な予感が的中していた。

互助会のスレッドに、見慣れない書き込みが並んでいた。

『管理人の文体を分析しました。書き込み時間帯は朝と深夜に集中。貴族階級の女性で、法知識が異常に高い。十代後半から二十代前半と推測』

『管理人は王都在住。法令閲覧室を利用している可能性あり。貴族の閲覧権限を持つ人物に絞れる』

『管理人を特定して、このふざけた活動をやめさせよう。賛同する者はこのスレッドに集合』

文体分析。時間帯分析。利用施設の推定。

日本のインターネットで何度も見た手法だ。匿名の発信者を特定するために、公開情報から推理を重ねていく。

胃の底が重くなった。

宰相府の法令閲覧室を利用している可能性。それは、当たっている。

心臓が速くなる。落ち着け。こういう状況は経験がある。匿名の相談員が特定されかけた時、何をしたか。

全員で壁を作った。

通信板を見ていると、書き込みが動き始めた。

最初に書いたのは商家の奥方だった。

『私が管理人です』

次に伯爵夫人。

『私が管理人です』

子爵夫人。

『わたくしが管理人です』

男爵夫人。

『私が、管理人です』

それから、知らない名前が、次々と。茶会に来ていない人たちだ。掲示板だけで繋がっている、顔も知らない人たち。

『管理人は私です』

『私が管理人です』

『私も管理人です』

書き込みが止まらない。

十人。二十人。三十人。

通信板の画面が同じ趣旨の文章で埋まっていく。匿名の、顔も名前も知らない人たちが、それぞれの言葉で、同じことを書いている。

誰が合図を出したわけでもない。

茶会で合意した六人は分かる。でも残りの人たちは、掲示板の流れを見て、自分で判断して、自分で書き込んでいる。

マルグリットの言葉が蘇る。「自分で決めて、自分で動く」。

特定しようとしていたスレッドの書き込みが止まった。三十人以上が同時に名乗れば、文体分析も時間帯分析も意味をなさない。

画面がぼやけた。

泣いていた。

まずい。支援者が泣くな。研修で散々言われただろう。感情を持ち込むな。当事者の感情を引き受けるな。自分の領域を守れ。

でも。

こんなこと、前の人生では起きなかった。

匿名の相談員が特定されかけた時、守ってくれたのは組織の上司だけだった。相談者たちは自分のことで精一杯で、相談員を守る余裕はなかった。それが普通だ。支援者が守られることを期待してはいけない。

この世界では、被害者たちが支援者を守ろうとしている。

自分で決めて、自分で動いて。

涙を拭いた。袖口のほつれたレースで。

返信を打つ。何を書けばいいか分からなかった。「ありがとうございます」は薄い。「嬉しいです」は近い、でも正確ではない。

結局、短く書いた。

『皆さま。管理人は一人ではないようです。心強いです』

送信した。

六法全書さんは書き込んでいなかった。

あの人は「私が管理人です」とは書かなかった。法律家らしいと言えばらしい。事実でないことは書かない。でも。

個別メッセージの通知が光った。

『管理人殿。

見事な防衛策でした。

しかし、特定の試みが止まったわけではないでしょう。今回は数で押し返しましたが、次はより巧妙な手法が来る可能性があります。

掲示板上での安全対策を引き続き検討しましょう。

それと、一つ。

管理人殿の文章を読んでいると、この世界は変えられると思えます。

法律だけでは届かない場所に、あなたの言葉は届いている。

それは、法務に携わる人間として、少し羨ましいことです。

深夜ですので、今日はお休みください』

通信板を枕元に伏せた。

「この世界は変えられると思える」。

法律の条文を深夜に整理する人が、こういうことを書く。

顔が熱い。なんだ、これは。感情の種類が分からない。嬉しいとも違う。照れているのだとしたら、何に照れているのか自分でも分からない。

匿名の相手の褒め言葉に照れるのは、前の人生でもなかったことだ。

窓の外が暗い。花の月に入って、夜風が少し甘い匂いを運んでくる。庭の藤が咲き始めたのかもしれない。

布団に入った。

眠れるか分からないけれど、今日は、今日だけは、少し安心して目を閉じていい気がした。

三十人が、私を庇ってくれた。

知らない人たちが。顔も名前も知らない人たちが。

その事実が、冷めたスープよりも、ずっと温かかった。