軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 法律が人を守るためにあると思い出せる

『王太子妃より 件名:すべてをお話しします』

その書き込みは、花の月十五日の朝に投稿されていた。

長い。今までの書き込みの中で一番長い。スクロールしても終わらない。王太子妃が、エレオノーラが、匿名の掲示板に、すべてを書いた。

『管理人さま、皆さま。

これまで断片的にしかお伝えしていなかったことを、まとめてお話しします。

殿下の不倫については、ご存知の通りです。聖女セレーナ嬢との関係は二年前から続いています。

しかし、それだけではありませんでした。

結婚二年目に、私は農業改革の政策案を起案しました。領地の灌漑制度の見直しと、小規模農家への補助金制度です。殿下にお見せしたところ、翌週の政策会議で殿下のお名前で発表されました。私の名前は、どこにもありませんでした。

同じことが三度起きました。貿易協定案と教育制度案でも。

三度目の後、殿下は宮廷書記官に命令書を出されました。「妃の政策会議への出席を不要とする」と。

私は自分が起案した政策の会議に、出ることすら許されなくなりました。

さらに、結婚三年目に、私の実家——ヴァレンシュタイン侯爵家への通常の利益供与が停止されました。殿下の命令書によるものです。理由は明記されていませんでした。

これらの命令書の写しは、筆頭侍女のヒルダが確認し、保管しています。

私は四年間、すべてを「王太子妃の務め」だと自分に言い聞かせてきました。

皆さまの書き込みを読むまで、それが異常だと気づけなかったのです。

長くなりました。

管理人さま、六法全書さま。

この情報を、どう使えるかご検討いただけますか。

私は戦います。もう、耐えるだけの四年間は終わりにします』

読み終えて、しばらく動けなかった。

功績の横取り。会議からの排除。実家への経済的圧力。

ゲームには、こんな情報はなかった。

『聖女の誓い』の王太子ルートでは、王太子妃は「不倫に耐えかねて自害する」としか描かれなかった。背景キャラとして、名前すら与えられずに消えた。でも現実のエレオノーラは、政策を起案するほど聡明で、四年間もこれだけの理不尽を受け続けていた。

ゲームの制作者は、たぶん知らなかったのだ。王太子妃の側の物語を。

返信を打つ。

『エレオノーラさま。すべてを話してくださったこと、心から敬意を表します。

命令書の写しがあるというのは、非常に重要です。

ヒルダさんの存在も。信頼できる方が証拠を保管しているということは、法的な手続きに移行する際の基盤になります。

六法全書さまと相談して、具体的な法的戦略を整理します。

少しお時間をください』

送信して、六法全書さんに個別メッセージを送った。

『六法全書さま。王太子妃さまの投稿を読まれましたか。

功績横取り、会議排除、実家への利益供与停止。命令書の写しがある。

これは婚姻法の範疇を超えていると思います。

貴族院への弾劾の根拠になりえますか』

返信はすぐには来なかった。六法全書さんにしては珍しい。いつもは数分で返ってくるのに。

たぶん、考えている。法律家が沈黙する時は、答えが簡単ではないということだ。

三十分後に返信が来た。

『管理人殿。読みました。

率直に申し上げます。これは大きい。

功績横取りの立証は筆跡鑑定で可能ですが、それだけでは「補佐を頼んでいた」と反論される余地があります。

しかし、会議排除の命令書が存在するなら話は変わります。

「立案者を会議から排除した上で、立案者の成果を自分の名で発表した」——これは弁解不能です。

利益供与停止の命令書と合わせれば、系統的な妨害の証拠になります。

貴族院への弾劾動議の根拠としては、十分です。

ただし、公聴会を開くには証拠の「法的有効性」の認定が必要です。

これについては少し調べさせてください。時間がかかります。

管理人殿。

これは、本当に変わるかもしれません』

「本当に変わるかもしれません」。

この人がそう書いたのは、初めてだった。いつも冷静で、感情を乗せない人が、一行だけ。

翌日、宰相府に向かった。

判例の追加調査と、弾劾手続きの条文確認のために。本当はそれだけのはずだった。

法令閲覧室に入ると、リンドグレンがいつもの席にいた。今日の書類の山は低め。でも手元の法令集が分厚くて、開いたページに赤い書き込みが密集していた。

「フェルトハイム嬢。今日はどの法令を」

「貴族院法を。特に弾劾手続きに関する条文を確認したいのですが」

リンドグレンの手が一瞬止まった。

「弾劾手続き、ですか」

「ええ。独学で」

「独学で弾劾手続きまで」

小さく息を吐いた。笑ったのではない。でも、口元が少しだけ緩んでいた。初めて見る表情だった。

「失礼しました。いえ、感心しています。本当に」

立ち上がって、書架に向かう。今回は迷わなかった。貴族院法の法令集を引き抜いて、また付箋を確認している。青い付箋が二ヶ所に貼られていた。

「またリンドグレン様の付箋が」

「……すみません。最近、同じ分野を調べる機会がありまして」

法令集を渡される時、手が少し近かった。受け取って、閲覧席に向かう。

弾劾手続きの条文を読む。

貴族院議員五名以上の連名提案で緊急公聴会を招集可能。告示から開催まで最短二十一日。

二十一日。三週間で公聴会が開ける。

証拠が揃えば、三週間で王太子を公的に弾劾できる可能性がある。

法令集を閉じて、窓口に返しに行った。

リンドグレンが書類を片付けていた。今日はインクの染みが右手の中指にあった。赤いインク。校正の跡。

「ありがとうございました。弾劾手続きの条文は、思ったよりシンプルでした」

「そうなんです」

リンドグレンの声が、少しだけ大きくなった。

「制度自体はシンプルなんです。問題は運用です。条文が存在しても使われなければ意味がない。法律は」

言いかけて、止まった。いつもの癖だ。でも今回は、止まってから、続けた。

「法律は、使う人間がいなければ、ただの文字列です」

「……そうですね。使う人がいて初めて意味を持つ」

「ええ」

リンドグレンが私を見た。正面から。窓口越しではなく、書架の端に立って、法令集を棚に戻す途中で振り返って。

「あなたと話していると、法律が人を守るためにあると思い出せます」

声が少し高くなった。自分のほうが。

「余計じゃ、ないです。私も、同じことを思っていました」

リンドグレンが法令集を棚に戻した。背表紙を指でなぞるようにして、正しい位置に押し込む。丁寧な手つきだった。

「また、お越しください」

「はい。また来ます」

閲覧室を出た。

宰相府を出てから、通信板を確認した。

互助会に速報が入っていた。

『【速報】ヴェルトハイム伯爵、近衛騎士団副団長を解任

宮廷会計監査の結果、ヴェルトハイム伯爵が配偶者の持参金を騎士団の装備費に流用していたことが判明。

婚姻法第四十一条違反(持参金流用の禁止)および公金横領として処分。

副団長の役職を解任。横領額の全額返還命令。

告発は伯爵夫人本人によるもの。

——以上、宮廷通信より抜粋』

足が止まった。

伯爵が、落ちた。

互助会の書き込みが一斉に動いた。

『本当ですか』

『副団長を解任……!』

『Cさま……! 鍵を変えた日から、全部繋がっている……』

『法律で、本当に動いた……』

伯爵夫人本人の書き込みが入った。

『皆さまにご報告です。

夫が解任されました。

正直に言うと、まだ実感がありません。

鍵を変えただけなのに、と思います。でも鍵を変えたから帳簿を確認する勇気が出て、帳簿を見たから証拠が取れて、証拠があったから告発ができた。

一歩ずつ。皆さまが教えてくれた通りに。

——夫は昨夜、初めて私に「なぜだ」と聞きました。

今度の「なぜだ」は、別荘の前とは違う声でした。

私は答えませんでした。答える義理がないと思ったので』

「答える義理がないと思ったので」。

強い。この人は強い。

加害者に「なぜだ」と問われて「答える義理がない」と返せる人は少ない。大抵の人は説明してしまう。許しを乞うか、正当化するか、泣くか。

この人は、黙った。

帰宅して、夕食の片付けが終わった後で通信板を開いた。

王太子妃からのメッセージが入っていた。

『管理人さま。

ご報告があります。

侍女のアルマが、聖女セレーナ嬢に買収されていたことが判明しました。

アルマは私の行動を逐一報告し、互助会の情報を探っていたようです。

ただし、ご安心ください。

ヒルダと私は、アルマの動きに以前から気づいていました。

そこで、アルマには偽の情報を掴ませていました。

互助会の「重要な会合」が来月の十日に王都の南教会で開かれる、という嘘の情報です。

アルマはそれをセレーナ嬢に報告したはずです。

南教会には何もありません。集まる人もいません。

管理人さまが以前おっしゃった「信頼できる侍女とそうでない侍女を見極めてください」という助言が、とても役に立ちました。

見極めた上で、利用させていただきました。

——これも「ざまぁ」に含まれますか?』

この人は、もう私の助言がなくても戦える。

返信を打つ。

『エレオノーラさま。見事です。

偽情報の作戦は完璧でした。

裏切り侍女を排除するのではなく、利用する。それが最善の対処です。

排除すれば次の手が来ますが、利用すれば相手の動きが読めます。

——はい、立派な「ざまぁ」です。しかも上品な』

送信して、少し笑った。

通信板の通知をもう一つ確認する。六法全書さんの書き込み。深夜一時の投稿だった。法的戦略の整理。貴族院への弾劾動議に必要な証拠のリストと、各証拠の法的有効性の評価。膨大な量。

深夜一時。

ふと気づいた。昨日、私が宰相府に行った日だ。

六法全書さんの書き込み時間を遡って確認する。前回の深夜投稿は花の月七日。あの日も私は宰相府に行っていた。その前は春の月二十日。宰相府に行った日。

私が宰相府を訪れた日だけ、六法全書さんの書き込みが深夜に集中している。

偶然だろう。法務官は忙しい。因果関係が逆かもしれない。法務官が忙しくない日に私が訪問して、忙しくない日だから夜に時間が取れるだけかもしれない。

考えすぎだ。匿名の相手を詮索しない。鉄則。

通信板を裏返して、机に置いた。

窓の外から、夜風に乗って花の匂いが入ってくる。花の月も半ばを過ぎた。

伯爵が落ちた。王太子妃が戦い始めた。偽情報で聖女の手を封じた。六法全書さんが「本当に変わるかもしれない」と書いた。

そしてリンドグレンが笑った。

あの法令閲覧室で、初めて。口元が緩んだだけの、笑顔と呼ぶには控えめすぎる表情。でも確かに。

法律が人を守るためにある、と。

布団に入って目を閉じる。

明日からは、公聴会に向けた証拠の整理が始まる。

ただ、聖女は偽情報を掴んだだけで、止まってはいない。次の手を打ってくるだろう。

追い詰められた人間は、二種類の行動をとる。黙って受け入れるか。暴れるか。

加害者が大人しくなる時期は、嵐の前の静けさであることが多い。

それは、ゲームの知識ではなく、経験が教えていることだ。