軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第22話 「儀典長」登場

空気の重さが、物理的な圧力となって肌を刺す。

図書室の入り口に立つ老紳士――ヴァレリウス大公。

その背後には、無表情な侍女たちが、一糸乱れぬ隊列で控えている。

「……お初にお目にかかります、大公閣下」

私は淑女の礼をした。

膝の角度、背筋の伸ばし方、視線の落とし方。

元侯爵令嬢として、体に染み付いたマナーは完璧なはずだ。

しかし。

大公の片眼鏡がキラリと光った。

「角度が甘い」

「……はい?」

「膝の屈伸が2ミリ浅い。背筋のラインに0.5五度の歪みがある。なにより……」

彼は杖の先で、私の足元を指した。

「室内履きだ」

しまった。

ソファでくつろいでいた時のままだ。

フカフカの羊毛の室内履きは、私の安息の象徴だが、王族を迎える正装ではない。

「王弟殿下の婚約者ともあろう者が、昼日中から寝間着のような姿で、公的機関である図書室を私物化するとは……。嘆かわしい」

大公の声は、鞭のように空気を打った。

怒鳴っているわけではない。

静かで、冷たく、絶対的な「否定」の響き。

クロード様が私の前に割って入った。

「叔父上、言葉が過ぎます。彼女はここで正当な業務を行っていただけです。服装に関しては、私の許可済みですが」

「黙りなさい、クロード」

大公は甥である宰相を一瞥しただけで黙らせた。

「お前が甘やかすから、つけ上がるのだ。帝国との条約で見せた手腕は見事だったが……身内の管理もできぬようでは、宰相失格だぞ」

「……っ」

クロード様が唇を噛む。

反論できないのだ。

この国において「年長者」と「伝統」は絶対。

特に儀典長である大公は、王家の格式を守る最後の砦。

彼を敵に回せば、結婚式どころか、今後の政権運営にすら支障が出る。

大公は再び私に向き直った。

その目は、値踏みするように細められている。

「エリアナ・ベルンシュタイン。……噂通りの怠け者か、あるいは能ある鷹か。どちらにせよ、今のままでは王弟の隣に立つ資格はない」

彼は懐から扇を取り出し、バチリと開いた。

「よって、今この瞬間より、貴様への『王族妃教育』を開始する」

「……王族妃教育、ですか」

嫌な響きだ。

前世の記憶にある乙女ゲームでは、悪役令嬢がヒロインをいじめるための口実だったあれだ。

つまり、いびり倒される未来しか見えない。

「断れば?」

私は試しに聞いてみた。

「簡単だ。この婚約を『不適格』として破棄させる。……我が一族の恥を晒すくらいなら、一生独身でいてもらった方がマシだ」

大公の目は本気だった。

脅しではない。

この人は、格式のためなら肉親さえ切り捨てる覚悟がある。

(……参ったわね)

婚約破棄。

それはつまり、クロード様との別れを意味する。

そして、あの快適な「二度寝ライフ」も、王宮での特権も失うということだ。

なにより、あの大型犬のような彼を悲しませたくはない。

私はチラリとクロード様を見た。

彼は拳を握りしめ、苦渋の表情で私を見ている。

「すまない、守れなくて」という声が聞こえてきそうだ。

(……仕方ない)

ここは一時撤退。

損して得取れ、だ。

私は顔を上げ、大公を見据えた。

「分かりました。その教育、お受けします」

「ほう。殊勝な心がけだ」

「ただし、条件があります」

私は人差し指を立てた。

ただで屈する私ではない。

「教育期間中、私の一切の公務、および図書室管理業務を免除してください」

「……何?」

「教育とは、全精力を傾けて行うべき神聖なもの。雑務に追われていては身に入りません。……そうでしょう?」

これは詭弁だ。

本音は「教育を受けながら仕事もするなんて、過労死コースまっしぐらだから絶対嫌だ」というだけ。

どうせ教育で拘束されるなら、その分、他の仕事は休ませてもらう。

定時退社は守れなくとも、労働総量は増やさせない。

大公は片眉を上げた。

私の意図を見透かそうとしているようだ。

やがて、彼はフンと鼻を鳴らした。

「よかろう。中途半端な覚悟で挑まれては迷惑だ。……その代わり、教育は徹底的にやらせてもらうぞ」

「望むところです」

契約成立だ。

大公はパチンと指を鳴らした。

背後の侍女軍団の中から、一人の女性が進み出てきた。

年齢は30代半ばだろうか。

髪をひっつめに結い上げ、銀縁眼鏡をかけた、隙のない女性。

表情筋が死滅しているのではないかと疑うほど、鉄仮面のような無表情だ。

「侍女長のシルビアだ。今日から貴様の教育係とする」

「お初にお目にかかります、エリアナ様」

シルビアと呼ばれた女性が一礼した。

その角度、速度、姿勢。

完璧だった。

大公が合格点を出すレベルのマナーだ。

「彼女は厳しいぞ。過去に三人の令嬢が、彼女の教育に耐えきれず修道院へ逃げ込んだ」

「……それは楽しみですね」

逃げ込んだ先が修道院というのがリアルだ。

世俗を捨てたくなるほどの厳しさということか。

「期間は一ヶ月。……その間に、王族として恥ずかしくない所作、教養、そして『根性』を叩き直す。もし落第と判断すれば……分かっているな?」

「はい。荷物をまとめて出て行きます」

「ふん。……行くぞ」

大公はマントを翻し、嵐のように去っていった。

侍女軍団もそれに続く。

ただ一人、シルビアさんだけを残して。

図書室に静寂が戻る。

しかし、以前のような心地よい静寂ではない。

監視カメラのように冷たい視線を感じる静寂だ。

「……エリアナ」

クロード様が駆け寄ってきた。

「すまない! 私がもっと強く言えれば……!」

「いいのです、クロード様。これは必要な儀式ですから」

私は彼の手を握った。

冷たくなっている。

「それに、考えてもみてください。公務免除ですよ? 一ヶ月間、あの面倒な陳情処理や書類整理から解放されるのです」

「だが、相手はあの叔父上だぞ? それに、あのシルビアは『氷の処刑人』と呼ばれる鬼教官だ。……君が壊れてしまわないか、心配で……」

「大丈夫です」

私はニッコリと笑った。

「私、体力はありませんが、耐久力には自信がありますから。」

理不尽な上司。

終わらないノルマ。

絶対的なルール。

そんなものは、前世で嫌というほど味わってきた。

今の私には「定時退社」という希望と、「愛する人」という支えがある。

それだけで、前世よりはずっとマシな環境だ。

私はシルビアさんに向き直った。

「よろしくお願いいたします、シルビアさん。……お手柔らかに」

「ご安心ください、エリアナ様」

彼女は眼鏡の位置を直しながら、抑揚のない声で答えた。

「私は手加減など致しません。……まずは、その背筋をあと3センチ伸ばしていただきます。それと、呼吸のリズムが乱れています。吸って、吐いて、止める。王族の呼吸は四拍子です」

「……呼吸からですか」

どうやら、想像以上に細かいらしい。

私の「省エネ生活」と、彼女の「完璧主義」。

この一ヶ月は、仁義なき戦いになりそうだ。

私は窓の外を見た。

夕日が赤い。

明日からの日々が、血のように赤く染まる予兆に見えた。

……でも、負けない。

絶対にこの教育を乗り切って、あのクソ重い結婚式のスケジュールも粉砕してやる。

そして、クロード様と二人で、最高の二度寝をするのだ。

その執念だけが、今の私を支えていた。