作品タイトル不明
3-38.美味しくて、幸せ
グラスに注がれた赤ワインは綺麗なルビーレッドをしていた。透き通ったその赤色を揺らしてグラスに鼻を近付ける。何とも形容しがたい複雑な香りの奥に、スモーキーさを感じて目を瞬いた。
美味しいワインなら何でも好きなわたしだけど、価値を聞いてしまうと飲むのを躊躇ってしまう。そんなわたしの隣で、ノアはおかしそうに肩を揺らした。
「折角なんだし飲もうぜ」
さっきまではわたしよりもノアの方が興奮していたのに。
今ではすっかり落ち着いて、グラスを回す仕草もいつもと同じ手慣れた様子だ。
「乾杯」
二人でグラスを掲げて、一口飲む。
その瞬間、先程よりも強い香りが口いっぱいに広がった。口に含むと先程までの香りよりも瑞々しさを感じる。ほんのりと甘く、渋くはない。口当たりの良い酸味がゆっくりと伸びて余韻を感じさせる。
「……美味しい」
ぽつりと漏れた声にも、その余韻が残っているかのようだった。
「美味いな」
ノアの声もどこか恍惚としているようだった。
二人でグラスを見つめたまま、同じタイミングで息を吐く。それがなんだか可笑しくて、顔を見合わせて笑ってしまった。
そうしたらぐぅとお腹が鳴ったのが自分にも聞こえた。空腹を訴えるお腹を片手で押さえつつ、並べられた料理の数々に目を向けた。
「お腹空いちゃった」
「そうだな、いただくか」
手を組み、恵みに感謝の祈りを捧げる。
このお店での祈りはいつもより早口になってしまう。感謝の気持ちはたくさん込めているから許して欲しい。
何から食べようか迷ってしまうほど、湯気の立つ料理はどれも美味しそう。
ノアは鶏もものナッツソースから食べるようだ。そういえばそれを食べたいって、エストラーダでも言っていたっけ。
わたしは──マッシュルームのフライを小皿に取った。
これはわたしがあまりりす亭に初めて訪れた時に食べたものだ。ノアがご馳走してくれて、それからお喋りをするようになったんだっけ。
綺麗なキツネ色に揚がったフライは、マッシュルームの形そのままにころんとしていて可愛らしい。一口サイズのそれを一つ頬張ると、バターの香りが鼻を抜けていく。
このバターソースが美味しいのだ。
噛んだ瞬間にマッシュルームから溢れる旨味と、バターソースが絡まり合う。美味しい。幸せ。
ほくほくとした気持ちでワインを飲むと、わたしはグラスを手にしたまま項垂れてしまった。
「忙しいな」
「美味しいのと幸せなのとで、どうにかなっちゃいそうなの」
「はは、なんだそりゃ」
だって本当に美味しくて幸せなんだもの。
美味しいものを食べたら幸せで、そうしたら明日また頑張ろうって思えるのだ。
でもそれはどんなものでもいいわけじゃない。好きな場所で好きな人と美味しいものを食べるから、そう思う。
美味しいものは明日への活力となるって、わたしはそう思ってる。
「じゃあもっと幸せになるか」
そう言いながらノアがわたしの口元に、ナッツソースをたっぷり絡めた鶏ももを寄せてくれる。それがどんなに美味しいか、わたしはよく知っている。食べないなんて選択肢はないから口を開けた。
口に入れられた鶏ももは、少しの衝撃で簡単に崩れていく。ほろほろと柔らかく煮込まれた鶏ももはほんのりと甘い。砕かれたナッツがいいアクセントになっていて、とても美味しい。
「これも美味しい……!」
「美味いもんはまだまだあるぞ」
「幸せってタイトルで絵を描くなら、この光景で決まりだわ」
「他にも料理が出てきたら?」
「幸せⅡってタイトルにする」
「永遠に終わらなさそうだな」
「それっていいことでしょ」
他愛もない話が楽しいのは、ノアと一緒だから。呆れることなく話に付き合ってくれるノアも、楽しそうに笑ってくれる。
わたしが描く幸せには、ノアが必ずいるのだ。
ノアの口元が弧を描く。
前髪の隙間から覗く瞳が、甘やかに細められた。蕩けるような視線はまるでお砂糖を溶かしたみたいだ。
でもきっと、わたしもそんな目をしているんだろうな。それが何だか恥ずかしくて、ワインを飲んで誤魔化した。
あの後もまだまだ料理が運ばれてきた。思えばいつもより少なめの量で盛り付けられていたのは、たくさん食べられるようにとのマスターの配慮だったのかもしれない。
デザートにシュークリームを出してくれたマスターは、なんだかすっきりとした顔をしている。
カウンター内で椅子に座っているエマさんが呆れたように笑っていた。背の高い椅子だからエマさんの顔は見えるけれど、いつもよりも低い場所にあって視線が近い。
「この人ね、ずっと料理が出来なかったものだから、かなりストレスが溜まっていたんですって。二人にたくさん食べて貰えて良かったわ」
「すっきりした」
「お城でも料理がしたかったらしいけど、さすがにそれどころじゃなかったらしいものね」
おかしそうに笑うエマさんも、わたし達と同じシュークリームを食べている。食欲が戻っているようで安心してしまった。
「俺達もマスターの料理が食べられて嬉しいよ」
「たくさん食べちゃった。どれも美味しかったわ」
お腹がいっぱいで、もう食べられないと思っていたのに。シュークリームを見ると、お腹に隙間が出来るのだから不思議なものだ。
切り分けたシュー生地に生クリームをたっぷりと載せてから口に運んだ。
軽やかな食感と、ほどよい甘さのクリームが美味しい。添えられているイチゴをその口に入れると、これまた甘いイチゴだった。それに合わせてクリームの甘さが控えめなのだろうか。
「改めて、ありがとう。二人のおかげで助かった」
マスターが頭を下げるのに合わせて、エマさんも同じ姿勢を取った。
「どういたしまして。役に立てたなら良かったよ」
ノアの言葉に、二人はゆっくりと頭を上げた。
二人がこうして並んでいるのが、やっぱり嬉しい。何度見てもそう思う。
「アリシアちゃんのご実家でも良くして貰ったわ。本当にありがとう」
「エマが一人で過ごしていないと聞いて、俺もほっとしたんだ。ありがとう」
「気にしないで。うちの家族も喜んでいたもの」
二人の為に出来た事があって、良かったと思う。
エストラーダでは色々あったけれど……こうしてマスターとエマさんと、あまりりす亭が帰ってきてくれた。それに安心してしまう。
「嬉しいな」
「ええ、とっても」
ノアがわたしを見てそんな事を口にする。
わたしと同じ気持ちなのだ。この場所を大切にしているのはノアも一緒。
だから、嬉しい。
暖かくて、いい匂いで満たされて、たくさんの思い出がある素敵なお店。
その思い出には、いつもノアがいた。
テーブルの下で手を握ると、ノアが驚いたように目を瞬く。すぐに笑って、同じように手を握ってくれるのが幸せだと思う。
ずっとこんな幸せが続いていきますようにと、強く願わずにはいられないような──そんな穏やかな夜だった。